8:それを黙殺するように
今度は緋村が、別の問いを発する。
「先ほど香音流さんの絵について『ほぼ全くと言っていいほど売れなかった』と仰っていましたが、それでは売れた作品もあると言うことですか?」
「ええ、まあ。本当に一枚だけですけどね。他でもない、僕が買い取ったんですよ。香音流くんは、うちのオフィスに何度か絵を売り込みに来ることがあって、その度に断っていました。正直に言って、彼の絵に商品としての価値はあまり見出せなかったので。……ただ、あの絵だけは違った。月並みな表現ですが、彼の執念や狂気が滲み出ているように感じたんです。あれを見せられた時は驚きましたね。ひょっとしたらこれから一気に化けるのではないかと思い、すぐさま値段を提示させてもらいました。すると、彼はお金はいらないと言ったんですよ。その代わり、画廊を貸し切りにして、一番いい場所にその絵を飾って欲しいと……。今思うと申し訳ないことに、僕はそのお願いを断りました」
その時は不運にも、予約が埋まっていたと言う。
「ですから、一旦こちらで買い取らせてもらって、予約に空きが出た時に飾ることにしようと話をしたんです。彼は納得がいかない様子でしたが、最終的には理解してくれました。──その直後だったんです。彼が落雷に遭ったのは」
残酷にも、天は青年が望みを叶える機会を奪い去った。のみならず、まだ若かったその命さえも。
「結局、僕は香音流くんとの約束を果たすことができませんでした。あの絵も、ずっと倉庫に保管されたままになっています」
「ちなみに、その絵の存在を知っている人は、他にいらっしゃるんでしょうか?」
「そうですねぇ……僕の知る限りは、誉歴さんと鮎子さんの二人だけですね。そのうち実際に絵を観てくれたのは、鮎子さんだけでしたよ」
彼が答えた時、楡さんの声が聞こえて来た。
「おぉーい、えらい時間かかっとるけど、何かあったんかー?」
「少し話し込んでしまっただけです。もう戻りますから」
東條さんが声を張って応じ、僕たちは屋根裏部屋を出た。奇形の翅に見送られて。
※
屋根裏から下りたあと、衣歩さんの部屋にいる織部さんたちに声をかけ、これからの予定を伝える。二人とも僕たちの事情聴取を受けることをあまり快く思っていないようだが、軍司さんが承諾したこと、そして衣歩さんだけは対象外であることを聞き、同意せざるを得ない様子だった。
いよいよ詳しい聴き込みができると意気込んだのも束の間、織部さんの提案により、先に朝食を摂ることになった。朝から色々なことがありすぎて忘れていたが、そう言えば今日はまだ何も口にしていない。そして、気が付けばあと少しで十時になろうと言う時間だった。
衣歩さんへの付き添いは東條さんが交代し、織部さんは厨房へと向かう。僕たちも、一緒に下へ降りた。
あまり食欲は湧かなかったものの、この寒い朝に暖かなビーフシチューはありがたい。織部さんは昨晩の残り物であることを申し訳なさそうにしていたが、提供してもらえるだけで十分すぎる。誰一人として文句を言う者はおらず、みな粛々と匙を動かしていた。
途中、織部さんが、衣歩さんの部屋にいる三人と繭田さんの分を届けに向かった為、早めに食べ終えた僕と緋村でそれを手伝う。
彼らの元へデリバリーしたのち、緋村はこんなことを使用人に尋ねた。
「こちらのお屋敷に、物置のような場所はないのですか? 先ほど館内を見て回った時、それらしい場所に入らなかったので、気になったんです」
「屋敷の裏手に、外付けの簡易物置がございます。そう言えば、先ほどは屋敷内を探索しただけで、そちらはまだ確認していませんでしたね」
「では、今から見に行ってみようと思うので、場所を教えていただけますか?」
「わたくしも同道致します。犯人が潜んでいる場合を考えますと、人数は多い方がいいでしょうから」
僕たちは玄関で靴に履き替え、織部さんの案内で物置へと向かう。屋敷の裏側、庭の入り口に近い位置に、それはあった。
西洋風の建物には不似合いな、いかにもネット通販で買い求めたと言った屋外物置だ。おそらく、流浪園を別荘として利用するようになってから、設置されたのだろう。横幅も高さも二メートル弱と言ったところか。外面は暗いオリーブ色に塗られていた。
織部さんがやや緊張した面持ちで、両開きの扉を開ける──が、そこには誰の姿もなく、また、人が隠れられるようなスペースもなかった。
「誰もいませんね」
安堵した様子の織部さんに、緋村は許可を取り、中にある物を改め始める。しまわれているのは、ストーブに使う為の灯油の入ったポリタンクが計八つ、それから板で仕切られた上の空間に、バケツやペンキ、庭の整備に使う道具類、工具箱などが、雑然と押し込まれていた。
緋村はそれらを順に眺めつつ、質問を放つ。
「織部さんから見て、変わった様子はありませんか? 何かなくなっているだとか、勝手に動かされている物は?」
「そうですね……ザッと見たところ、特におかしな点はないと思います」
無駄足とまではいかないが、特に見るべき物はなさそうだ。僕たちはすぐに、物置を出た。
「二階の廊下の突き当たりにある窓以外に、屋敷からコンサバトリーが見える場所はありますか?」
脈絡なく放たれた問いに、扉を閉めていた織部さんは、意外そうな顔で振り返った。意図を探るようなその視線に気付いているのかいないのか、緋村は屋敷を見上げたまま動かない。
「……ございません。他の部屋からでは、窓を開けて体を乗り出さない限り、コンサバトリーは見えないでしょう」
「そうですか。──ちなみに、あそこにある窓は?」
物置のちょうど真上に、客室の窓が一つ見えていた。
「衣歩様のお部屋でございます」答えてから、わずかに眉根を寄せ、「何故そのようなことをお尋ねになるのでしょう? まさか、衣歩様を疑っておられるのですか?」
ようやく首の角度を戻した緋村は、「とんでもない」と、かぶりを振ってみせる。
「ただ、なんとなく気になって訊ねてみただけです。さして意味はありませんよ。それより、お陰で一つ疑問が解消されました」
「疑問、でございますか」
「ええ。実は、ずっと不思議だったんです。──僕は、『犯人はコンサバトリーで瀬戸くんを殺害し、彼の首と両手を斬り落としたのち、そこで死体に剥製を縫合した』のだと考えました。そうなると、犯行時刻は真夜中ですから、当然何らかの光源を用いて、手元を照らしながら作業に当たる必要がある。……しかし、天井も壁もガラス張りのコンサバトリーでそんなことをしたら、外から灯りが丸見えになってしまいます。真夜中のこととは言え、本当に全員が寝静まっているとは限らない。犯人は、部屋の窓から誰かに灯りを見られてしまう可能性を、考慮しなかったのか、と」
しかし、実際にはそんなことは起こり得なかった。昨日ペリュトンが投下されたと見られる窓以外に、屋敷内からコンサバトリーが見える場所はない。
また、トイレは各部屋に備え付けられているのだから、夜中に目を覚ました誰かが廊下を通りがかり、たまたま突き当たりの窓に近寄る、と言う心配もなかっただろう。
「逆に言えば、犯人はそうした窓の配置を事前に把握していたからこそ、何の気兼ねもなく針仕事に没頭できたのかも知れませんね」
そう考えるのが自然だろう。そして、全くの外部の人間による犯行は、ますます考え辛くなったように感じた。犯人が元から流浪園の内部の様子を知悉した人間なのか、それとも徹底的に調べ上げた結果なのかは別としても。
「…………」
織部さんは何も答えずに、しばし冷ややかな視線を投げかけていたが──緋村はそれを黙殺するように、屋敷の入り口のある方へ、歩き出した。
「みなさんには、お食事を終えた後で各自部屋に戻って待機していただくよう、伝えてください。あとでこちらから順番に訪ねますので。それと、なるべく一人では出歩かず、できれば我々が向かうまでは、部屋から出ないようにしていただけますか?」
一度玄関へ戻ってから、緋村はそう言伝を頼んだ。一人きりにしたら次の事件を起こしたり、証拠隠滅をしたりする機会を与えてしまうのではないか、と少し不安になった。が、しかし、いつ僕たちが訪ねて来るかわからない状況では、下手に動くこともできないだろう。むしろ、そうした行動を牽制する目的で、提案したのかも知れない。
メッセンジャー役を引き受けてくれた織部さんとはそこで別れ、僕たちはまず、最初の死体発見現場へと赴く。




