4:黒山羊の頭を持つ悪魔
前にも述べたとおり、書斎は標本室の向かい側にあった。その両隣りは瀬戸の死体を安置してある図書室と、誉歴氏の部屋だ。
室内には両側の壁に棚があり、中央には応接用のテーブルと椅子、奥の窓の前には、立派な書斎机が配置されていた。そして、壁や棚などが至るところに、多種多様な骨董品や美術品、それから僕たちの目当てである、古武器などが飾られている。
「各自手頃な物を持つといい」
そう言いつつ、軍司さんが手に取ったのは、奥の壁にかけられていた、日本刀だった。その躊躇いのなさと、選ばれた得物の威圧感に、思わずたじろぐ。
「安心してくれ。鞘から抜くつもりはないよ。……むしろ、鈍器として扱った方が身を守り易いだろうからな」
日本刀で打ち据えられなどしたら、たまったものではないだろう。どうやら、人殺しに手心を加える気はないようだ。
自分はどれにするか──武装したところで、人を殺した上にあのような惨たらしい装飾を施すような相手に、太刀打ちできる気はしなかったが──迷っていると、壁にかけられたコレクションの中に、不自然な空白を見付けた。元々そこにも古武器の類いが飾られていたのだろう、二本のフックが四十センチほどの間隔を空けて突き出ていた。
まさか、犯人が持ち出したのか?
「あの、あそこが空いていますけど、元からなんですか?」
「え、ええ。元々棍棒が飾られていたのですが、何年か前に紛失してしまったんです」
織部さんが教えてくれる。しかし、それなりの大きさのある物だろうに、なくしてしまうなんてことがあるのか?
なんとなく引っかかりはしたが、それ以上は訊かないでおいた。とにかく、今は自分の武器を選ばなくては。
「決まらねえのか? なら、これにしろよ」
背後から声をかけて来た緋村は、Jの字に曲がった鞘を持つ変わった短剣を手渡して来る。
「これはジャンビーヤと言う名前のダガーの一種で、大昔にアラビアで使われていた物だ。こう見えて、殺傷能力は高いらしいぜ?」
そんな物、現代日本人に扱えるわけがないだろ。妙なところで巫山戯るなよ……。しかも、自分はちゃっかり手頃そうなトンファーを選んでいるし。
「みな用意はできたかね? では、さっそく二手にわかれて一階と二階を見て行くとしよう」
「あ、それと、もし犯人を見付けた場合、大声を出して別の組みを呼ぶようにしましょうか。大人数で囲った方が、取り抑え易いやろうから」
楡さんの提案を全員で承諾し、僕たちは書斎を後にした。
廊下へ出ると、軍司さん、緋村、楡夫妻が二階を、残る四人が一階を見て回ることに決まる。年齢や性別、体格などを考慮すると、妥当な組みわけだろう。
彼らを見送った後、僕たちはまず、書斎の隣りの図書室から順に部屋を見て行った。と言っても、図書室は先ほど瀬戸の遺体を運び入れた時と変わった様子はなく、その際見落とした物はないか簡単に改めた程度だったが。
続いて、廊下を挟んで反対側の薬品室へ。
こちらは名前に違わず、様々なラベルの貼られた薬品の瓶が、三方の壁の大部分を埋める棚に、ズラリと並んでいた。まるで、学校の理科準備室のようだ。
「ここにもいませんね……いったい、鮎子さんはどこに行ってしまったんでしょう?」
顎を摩りながら、東條さんが不思議そうに呟く。戸口から中を覗いた時点で誰もいないことは一目瞭然だった。念の為部屋に入ってザッと見回してみたが、やはり誰かが潜んでいるようなことはなく、特に変わった点も見受けられない。
ただ、強いて気になった物を挙げるとすれば、部屋の奥に飾ってあった黒い山羊の剥製と、その上の壁に貼られた、一枚のポスターか。
それは、剥製と同じ黒山羊の頭を持つ悪魔を、描いた物だった。巨大な捻れた角と黒い翼を持つ悪魔が胡座を掻いており、不気味な笑みを浮かべている──ように見える。その両脚の付け根の辺りには先端に球体の付いた棒が屹立しており、二匹の蛇が二重の螺旋を描くようにして、まとわり付いていた。
そして、その白い体の真ん中には、二つの乳房が。
この悪魔は、両性具有なのだ。
僕はしばし何かに魅入られたかのように、その絵を眺めていた。すると、悪魔の左右の腕──右腕を天に向け、もう一方の腕は地面を指し示すようなポーズをしている──に、それぞれ英単語のような物が刻まれていることに気付く。読み方も意味も、わからなかったが。
「もしかしたら、鮎子さんは、もう……」
消え入りそうな声が降って来る。衣歩さんの物だ。思わずそちらを振り向くと、彼女は不安げに瞳を揺らし、唇を噛み締めていた。
「大丈夫だよ、きっと。まだ探し始めたばかりなんだし、悲観するような状況でもないだろ? それに、彼女はあれでいて案外天然と言うか、鈍感なところもあるから、まだ事件に気付いていないだけだと思うけどね」
「……そうだね」
東條さんの言葉が気休めになったのかは不明だ。むしろ、彼女の方が僕たちを安心させるべく、無理に笑顔を拵えているように見えた。
とにかく、ここにはもう見るべきものはなさそうだ。僕たちは廊下には出ず、薬品室の中にあるドアから、隣りの部屋へ移動した。
標本室の扉を開けると、こちらは打って変わって、明らかな「異常」が見て取れた。首を失った成牛の剥製が、皮の中の詰め物を臓腑のように撒き散らし、床に倒れている。犯人がその首を持ち去った痕跡だとして、何よりも目立つ異変がもう一つ。
部屋の奥に設置されていた、クラナッハの絵画の書き割りが、倒されているのだ。
人骨のアダムとイヴは「背景」の倒壊に巻き込まれたらしく、憐れにも下敷きになっていた。犯人が林檎を奪った際、ついでに薙ぎ倒して行ったのだろうか?
そんなことを考えつつボンヤリとそこを眺めるうちに、書き割りの下から、人骨ではない何かがはみ出していることに気付く。
それは、黒くて艶のある物体であり、短くSの字にくねりながら、床の上に流れていた。遠目だと、黒いショールのようにも見える。
僕はその烏の濡れ羽色の塊の正体を探るべく、標本室の中へ入り、さらによく目を凝らした。そして、ほとんど無意識のうちに体が動き、そちらへ向かいかけた──直後。
肝を潰した僕は、近くどころか、思わず跳び退いた。
わかってしまったのだ。
あれが何なのか。
「あ、あれって──もしかして、人の髪の毛じゃないですか⁉︎」
同じ答えに至ったらしい東條さんが、上擦った声で叫ぶ。
そうとしか思えない。長く艶やかな人毛が、まるで幼蛇の群の如く、床の上を這っているのだ。
「た、確かめてみましょう」
僕の横から前に出た織部さんが、躊躇いがちにそちらへ近付いて行く。




