3:嘘だ
そんなことを考えているうちに、他の客人たちと織部さんが、戸口に現れた。
男性陣がコンサバトリーの中に入り、幸恵さんは外から青褪めた顔を覗かせる。そして、一番遠い場所から、衣歩さんが怖々とこちらの様子を窺い──胸元のペンダントを握り締めるのが見えた
無論、そこに瀬戸の姿はない。
「惨いな。いったい、誰がこんなことを……」
死体を睨み付けるようにし、軍司さんが呟く。それこそが、最大の謎であることは、言うまでもない。
昨晩夕食の席で誰かが言っていたように、僕たちの知らない第三者の犯行なのか、それとも……。
すると、その時だった。繭田さんが、フラフラと覚束ない足取りで、元産婦人科医の横を通り、前に出て来たのである。
シャツのボタンを留め直す余裕すらなかったらしく、彼は白い肌着を晒していた。死体のすぐ目の前で立ち止まった繭田さんは、ベンチに座るミノタウロスを茫然と見つめ──
「嘘だ」
そう呟いたらしかった。本当に幽かな、嗄れた声であった為、ハッキリとは聞き取れなかったが。
※
その後、僕たちは食堂に集まっていた。この館内で何が起きているのか、現状を把握し、今後の方針を決める為だ。
各々昨日の夕食の時と同じ場所に腰を下ろす。空いているのは、昨夜と同様瀬戸の席と──もう一つ。
神母坂さんの座っていた椅子だ。
彼女だけが、未だに姿を見せていなかった。
「瀬戸くんの遺体は、ひとまず図書室に安置させてもらったよ。空いている部屋なら他にもあるが、あそこが一番近かったからな」
疲れきった声で、軍司さんが報告する。遺体の運搬は、繭田さんと楡さんを抜かした男性五人がかりで行われた。つまり、僕もその作業に参加したわけだが、未だに両手に生々しい感触が残っていた。人間の死体は冷たくて、異様に重く感じるのだと、初めて知った。いや、冷たかったのはコンサバトリーに放置されていたせいもあるだろうが……。いずれにせよ、あの感触は、しばらく忘れられそうにない。
僕たちが遺体を運ぶ間、他の人たちには、先に食堂で待機してもらっていた。
「そう言えば、鮎子さんはどうしたんや? まだ起きて来えへんのか?」
「それが、さっき衣歩ちゃんが起こしに行ったら、部屋におらんかったらしいねん。ただ、代わりにおかしなメッセージが残されとって、書いてあったとおりにコンサバトリーに行ったら、あれが……」
楡さんの問いに答えたのは、彼の妻だ。おそらく、死体の第一発見者となってしまった衣歩さんを気遣ったのだろう。
「そうやったんか。まさかとは思うが、ちょっと心配やな……」
「ええ」
幸恵さんも、不安げな顔で頷く。非常事態故か、さすがに売り言葉に買い言葉と言ったやり取りにはならなかった。
会話が途切れ、不吉な気配が濃度を増す。特に衣歩さんは白い顔を俯け、やはり祈るように、ロケットペンダントに手を触れた。
「全員で探しに行ってみませんか? 単純にまだ事件に気付いていないだけ、と言う可能性もありますし。それと、鮎子さんを探しがてら、ついでに館の中を見て回りましょうよ。何か、犯行の痕跡を見付けられるかも知れません」
重々しい空気に抗うかのように、東條さんが落ち着いた声で提案する。広い屋敷とは言え、これだけの騒ぎになっていたらさすがに気付くはずだと思うが……とは言え、彼女の身に何かあったと考えるよりはマシだ。
この案は、満場一致で採用される。
「何もしないでいるよりは、建設的だな。──では、具体的な話し合いは鮎子くんと合流してからにするとして、取り敢えず現状確認だけは先にしておこう。と言っても、すでにみなが知っているとおりだ。瀬戸藍児くんが何者かに殺害されているのが、先ほど発覚した。本来であれば即刻通報したいところだが、生憎この館に外界への連絡手段はない。島自体が圏外な上、電話の類いは榎園くんの意向で、元より設置されなていない。救助を呼ぶこともできない以上、帰りの船が来る明日の午後まで、自分たちの身は自分たちで守らねばならないわけだ」
犯人がまだこの近辺に潜んでいるかどうかは不明だが、用心に越したことはないだろう。
「でしたら、それぞれ武器を持つのはどうでしょう? 書斎に飾られているコレクションの中に、古武器がございます。ほとんど骨董品のような物ばかりですが、何も持たないよりかはマシかと」
「そうだな、それがいい。ではまず全員で書斎へ向かい、武器を調達してから、鮎子くんを探すとしよう」
号令を下し、さっそく椅子を引いた彼だったが、すぐに動きを止めた。訝るような視線をある人物に向けて。
「おい、大丈夫かね? さっきから酷く顔色が悪いように見えるが」
そう尋ねる声に釣られて繭田さんの顔を見ると、確かに血の気を失っていた。猟奇的な死体を目にしたのがよほど堪えたのか、焦点の定まらぬ視線が、テーブルの上を彷徨っている。軍司さんの呼びかけも、耳に届いていないようだ。
「繭田! 聞いているのか!」
堪り兼ねたように軍司さんが声を荒げたところで、ようやく彼はハッとした表情で面を上げた。
「な、なんでしょうか……?」
「なんでしょうかじゃない。いったいどうしたと言うんだ、こんな時にボオーっとして。具合でも悪いのか?」
「……ええ。少し……頭痛が致しまして。よろしければ、部屋で休ませていただきたいのですが……」
「仕方ないな。念の為、戸締りには気を付けなさい」
「ありがとうございます」
蚊の鳴くような声で礼を述べると、そのままヨロヨロと立ち上がった。
「待て」軍司さんが呼び止める。「広間に大事な薬が置きっ放しになっているが、忘れずに部屋に持って帰るように。あれがないと困るのだろう?」
「……ご忠告、痛み入ります」
改めて扉へと向かいかけるその背中に、軍司さんは、さらに言葉を投げかける。
「それと、体調が快復したら、昨日の件について話し合おうじゃないか」
「……昨夜も申し上げたはずです。私は、社長のお言い付けどおりにしただけだと。……話し合うようなことなど、何もございません」
足を止めた繭田さんは、振り返りもせずに応じた。これに対し、元産婦人科医は嗜虐的な笑みを浮かべ、
「『何故君は怒るのだ、何故君はそのように顔を伏せるのだ。正しいことをしているのなら、顔をあげればいい。正しいことをしていないのなら、罪が門口で待ち伏せしているぞ。』」
何かの引用らしきセリフを誦じた。
その瞬間、両肩を震わせた繭田さんは、驚いたことに勢いよく体の向きを変え、彼を睨み付けたではないか。
見開いた瞳は涙を堪えているのか血走っており、燃え上がるような真っ赤な憎悪を漲らせていた。
「私も彼も、そのようなことは一切しておりません! 神様を気取って人を愚弄するのも、大概にしてください!」
眦を決し声を荒げたかと思うと、繭田さんはすぐさま踵を返し──今度こそ、扉の向こうに消えてしまった。
勢いよく開かれたそれが音を立てて閉じると、食堂内は一転、静まり返る。
「……せ、先生は、やはり遺言書の件は、繭田さんが何かしたんやとお考えなんですか?」
ややあって、楡さんが怖々と口を開く。
「そうとしか思えんだろう。奴は遺言書の管理を任せられていたんだ。幾らでも内容を改竄できる」
「お、お言葉ですが、本邸にある金庫からあの遺書を取り出したのは、わたくしでございます」
軍神様の顔色を窺うようにしつつ、今度は織部さんが反駁する。
「少なくとも封筒に関しては、わたくしが取り出した物と同じだったかと……」
「そんなもの、中身だけをすり替えたに決まっている」
「しかし、筆跡はどうなるのでございますか? 書面に認められていた文字は、誉歴様の物に間違いありませんでした」
彼の言葉が本当であれば、改竄は難しい──少なくとも誉歴氏本人が書いた物と見るべきだが……。
「……そうだったな。なら、奴が唆して榎園くんに書かせたのかも知れない。卑怯者らしい手口だ」
何故、そこまで繭田さんのことを邪険に扱うのか。この事件と関係があるか否かともかくとして、一度理由を訊いてみたいように感じた。こう言うのを、「怖い物見たさ」と呼ぶのだろう。