2:イイ物ガ見ラレルヨ
──ピシリと、また家鳴りがした。不意を打たれ、一気に眠気が覚める。
そう言えば、昨日の夜もやたらとこの音を聞く機会があった。この間の大雨で湿気た屋敷の木材が、冬の乾燥した空気で乾かされている為に、ここまで頻繁に家鳴りがするのかも知れない。二十三日から二十四日の未明にかけての雷雨は、僕の住む大阪だけではなく、関西全域に降り注いでいた。
僕はそこで回想を打ち切った。昨夜のアルコールがまだ体に居残っているのを感じるが、惚けていても仕方がない。
踵を返し、洗面所に向かいかけたところで、二段ベッドの上がもぬけの殻であることに気が付いた。どうやら、彼の方が早起きだったらしい。大方起き抜けの一服をしに行ったのだろう。
ひとまずペットボトルの水で顔を洗い、僕も人のいるところへ向かうことにした。
身支度を整えて廊下に出ると、ちょうど衣歩さんが、部屋から出て来たところだった。手に何かを握っており、不思議そうにそれを見下ろしていていたのだが、それ以上に気になったのは、彼女が現れた場所である。そこは神母坂さんの部屋のはずだ。
「あ、おはようございます」
こちらに気が付いた彼女の方から、先に挨拶をして寄越す。
「おはようございます。──どうかしたんですか?」
「鮎子さんを起こしに来たんですけど、部屋にいなかったんですよ。鍵がかかってなかったので、勝手に入らせてもらったら、中にこれが落ちていて……」
彼女は掌に乗せていた物を、こちらち差し出して来た。なんと、それは模造品の林檎ではないか。
間違いなく、人骨のアダムとイヴに付属していた物だ。
衣歩さんはそのまま動かない。受け取って見てみろと言うことか。僕は手を伸ばす。
林檎は中が空洞になっている為、かなり軽かった。そして反対側を見てみると、そこには次のような、奇妙なメッセージが記されていた。
『こんさばとりーニオイデ。イイ物ガ見ラレルヨ』
筆跡を誤魔化す為かわざと崩しているようなマジックの文字に、しばし釘付けとなる。いったい、誰がこんな物を神母坂さんの部屋に残したのか……そして「イイ物」とは何を指しているのか……。
「確かめに行くんですか?」
林檎を返しながら、僕は尋ねる。
「一応そのつもりです。何があるのか気になりますから。まあ、どうせ鮎子さんの悪戯だろうけど」
「あ、じゃあ僕も付いて行っても?」
「えっ」想定していなかった申し出だったのか、一瞬明らかに戸惑った様子だった。「……わかりました。それじゃあ、お願いします」
本心では、昨日会ったばかりのよくわからない男と二人きりになるのが嫌だったのかも知れない。むしろ、それが普通の反応か。
そうはわかっていたものの、僕はどうしても彼女に同行したくなってしまった。自分でも不思議だったのだが、半ばそれが義務であるかのように感じていたのだ。
衣歩さんを一人でそこに行かせてはいけない、と。
とにかく、僕たちはコンサバトリーを目指し、並んで歩き出した。案の定、彼女の方から話を振って来ることはなさそうだったので、こちらから気になったことを尋ねてみる。
「そう言えば、どうして神母坂さんを起こしに行っていたんですか? 頼まれていたとか?」
「そんな感じです。ここに滞在する時は、いつも私が起こしていました。鮎子さん、低血圧な上に冷え性だから、すごく朝が弱いんですよ。自分で自分のこと、『冷血動物』って言っていたくらい」
可笑しそうにえくぼを浮かべる。一応笑顔を引き出すことができた為、悪い選択ではなかったかな──と思っているうちに、階段を降り、玄関ホールへと出た。
大広間の前を通りがかると、そこには繭田さんの姿があった。
「お二人とも、おはようございます」
二頭の豹の護る暖炉の傍らから、柔和な笑顔を向けて来る。まるで昨日のことなど忘れてしまったかのようで、少し不気味にも感ぜられた。鼻を覆うガーゼや口許の絆創膏が痛々しいが、にもかかわらずそんな表情をしているのだから、尚更である。
僕も衣歩さんも、とっさに挨拶を返せなかった。しかし、彼はそんなことすら気にならない様子で、
「昨日はお見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ございませんでした。遺言書の件に関しましては、私もあのような内容だとは存じ上げておりませんで……何と申し上げてよいかわかりませんが、とにかく誉歴さんの意思を尊重していただくのが一番かと……」
朝っぱらからその話か。
あっけに取られた僕は、一階へ下りて来た目的を忘れそうになる。衣歩さんも返事に困っていたようだったが、ちょうどそこへ、タイミングよく緋村と東條さんが現れた。
二人とも撞球室にいたのだろう──東條さんも喫煙者だった──、僕たちの目指す方とは反対の廊下から歩いて来る。
「おはようございます。みなさんお揃いで、何のお話をしているんですか?」
「あ、東條さん。よかった」心から出た言葉だろう。「実は、私と若庭さんでコンサバトリーに行くところだったの。さっき鮎子さんを起こしに行ったら、部屋にこれが落ちていて……」
彼女は先ほどの林檎を彼に見せた。その横から、緋村もそれを覗き込む。
「ふうん、『イイ物』ね。悪戯にしてはちょっと不気味だなぁ。──何もないとは思うけど、僕も一緒に行っていいかな?」
衣歩さんは当然拒まなかった。ついでに、緋村も加わることになる。
「では、みなさんにそちらはお任せして、私は残らせていただきます。朝食を摂る前に、注射をしておかなくてはならないので」
昨晩夕食の席で話していた、糖尿病の注射のことだろう。就寝前だけではなく、毎食前にも打つ必要があると言っていたか。
繭田さんは、テーブルに置かれていたケースから、赤いラベルの貼られた小さな瓶と、細い注射器を取り出した。これは後で知ったのだが、インスリンの自己注射にはペン型の注入器を用いるのが一般的であり、彼のように製剤の入った瓶──バイアルと呼ばれる形式の物──から、注射器で薬液を吸い上げる方法は、今では珍しいそうだ。
シリンジの針先をアルコール綿で清め、七割ほど残ったバイアルの中身を吸い上げる彼を尻目に、僕たち四人はコンサバトリーへ移動した。
屋敷の裏口から、渡り廊下に出る。
すると、近付いて行くにつれ、ガラス越しに人影が認められた。どうやら、奥のベンチに、誰かが腰かけているようだ。
そして、扉の前まで来たところで、僕は思わず悲鳴を上げそうになる。その誰かは人間ではなく、異形の存在であることに気付いて。
「な──なんだあれは⁉︎」
東條さんが瞠目する。
衣歩さんは声こそ上げなかったが、両手で口を覆い、一歩後退った。──その拍子に林檎が零れ落ち、足元に転がる。
その異形の体は、確かに人間の物だった。しかし、首から上は違う。本来頭があるはずの場所に、黒い牛の首が載せられているではないか!
牛の頭はどうやら剥製であるらしく、ジグザグに走った黒い糸によって、白い喉に縫い付けられている様が酷く痛々しい。B級のスプラッタ映画にありそうな特殊メイクを思い浮かべたが、到底作り物には見えなかった。
と言うことは──あれは、本物の死体?
誰かが殺された?
その異常な光景を受け入れることができず、僕はしばし立ち竦む。
「も、もしかして……鮎子さん、なの……?」
声を震わせ、彼女は誰にともなく問う。衣歩さんは顔を逸らし、恐るるべき現実を直視しまいと、固く目を瞑っていた。
「いや、どうやら男性みたいだ。──衣歩ちゃん、申し訳ないけど、このことを他の人たちに伝えて来てくれる?」
「う、うん」
頷いた彼女はその場から逃げるように、足早に屋敷の中へと戻って行った。
彼らのやり取りを尻目に、緋村は躊躇なく扉を開け、死体の待つ楽園へと足を踏み入れる。数拍遅れて、僕と東條さんもそれに続いた。
瑞々しい緑が朝の陽差しに照り映え、コンサバトリーの中は眩しいほどだった。こんなにも光で満ちているのに、その中心にあるのはドス黒い悪意の結晶なのだ。
緋村はテーブルの前に立ち、それを見下ろした。静謐な冬の空気に晒された両手首の赤い断面が、その人物がすでに絶命していることを、雄弁に物語っている。
僕も東條さんも、思わず顔を背けた。
「だ、誰なんでしょうか……この人は……」
「わかりません。ただ、着ている服に見覚えがあります」
緋村の声に、僕は勇気を出して、死体に視線を戻す。
両手首の断面だけはなるべく見ないようにしつつ、人身牛頭の亡骸を観察した。牛──大きさからして成牛だろう──の首の下には、紺色のマウンテンパーカーとカーキ色のズボンを纏った体が、縫い付けられている。
そして、僕もその服装に心当たりがあった。
「瀬戸、なのか……?」
思わず声に出す。
「体格から見て、その可能性が高い。少なくとも、服装は同じだな」
それを聞いた途端、僕は瀬戸が流浪園に現れた時のことを思い出す。間違いない。この死体の着ている服は、瀬戸の物だ。
──だとすれば、誰かが瀬戸を殺したと言うかことか……? いったい、誰が、何故……。
──それに、どうしてわざわざ首を牛の剥製と挿げ替えたんだ? これじゃあまるで、ミノタウロスの見立てではないか。……何故そんな演出めいたことをする必要がある?
──昨日のペリュトンも、同じ人間の仕業だったのか? だとしたら、あれも事件を飾り付ける演出の一部だったとか……?
──手首を切断し持ち去ったのも、何か意味があるのか? 瀬戸は何故か室内でも手袋をしていたが、その理由と関係があるのだろうか?
黒雲のように疑問が膨れ上がり、瞬く間に頭の中を埋め尽くす。
僕は無意識のうちに、淀んだ硝子の瞳から目が離せなくなっていた。
『イイ物ガ見ラレルヨ』
例のメッセージが晦冥の中で谺する。
その、聞こえない声の主こそが、青年を屠殺した犯人なのだろう……。




