1:まだあのことを根に持っておられるのですか?
「僕も画くよ。お化けの絵を画くよ。地獄の馬を、画くよ」
太宰治『人間失格』
二日目の朝。
目を覚ますと同時に、軽度の頭痛と気怠さを知覚した。少々呑みすぎてしまったらしい。
寝転がったまま、枕元に置いていたスマートフォンを取り寄せる。時刻は八時を少し過ぎたところ。朝食は九時からなので、まだ余裕がある。
緋村はもう起きているのだろうか? 気になって二段ベッドの上の方へ声をかけてみたが、反応がない。酒の弱い彼のことだから、どうせまだ寝ているのだろう。
そう決め付けて、ようやくベッドから抜け出した。
窓辺に寄ってカーテンを開ける。
外はよく晴れていた。気持ちのいい朝の日差しを浴び、大きく伸びをする。が、すぐには眠気が覚めそうになかった為、しばしボォーっと外を眺めていた。ここからだと、迷宮の跡地まで見渡せる。
そうしているうちに、昨夜の公開式の後の出来事が、自然と脳内に再生され始めた。
あのあとすぐ、織部さんが、外へ飛び出して行った繭田さんを連れ戻しに向かうことを提案した。僕と緋村、それから楡さんがその探索への同行を志願する。
しかし、軍神様は怒りが収まらない様子で、
「放っておけ。あんな卑怯者など、凍え死んでしまえばいい」
「先生……先生は、まだあのことを根に持っておられるのですか?」
織部さんの言葉を聞いた瞬間、彼の表情は凍り付いた。そして、相手の真意を定めるかのように眇める。
「…………」
再びヒリヒリと空気が張り詰めたが、それも須臾のうちに終わった。
「さあな。今は関係のない話だ。──奴を探しに行くと言うのなら、好きにしろ。私は残るがな」
そう言うと、先ほど自身が肘鉄を見舞った相手に歩み寄る。
「すまなかったな、東條くん。どれ、手当てをしてやろう」
話に聞いていたとおりだ。自分で怪我を負わせ、自分で手当てをしようとしている。
そんな姿を茫然と眺めていると、緋村に準備をするよう促された。織部さんの言っていた「あのこと」とは何を指すのか非常に気になりはしたが、ひとまず彼と共に上着を取りに戻り、捜索へと向かう。
──結果から言えば、繭田さんはすぐに発見することができた。丘を下りきったところ──ちょうど迷宮の跡地の入り口付近で、彼は膝を抱え座り込んでいたのだ。まるで幼子の家出である。
織部さんがその傍らにしゃがみ、声をかける。
顔を上げた繭田さんは──泣き笑いの表情を浮かべた。
「も、申し訳ございません、お、お、お手数をおかけして……さすがにこの格好だと、こ、凍えてしまいそうですね……」
カチカチと奥歯を鳴らしながら、紫に変色した唇を震わせる。真冬の夜なのだから、当然だろう。織部さんが携えて来た毛布を肩にかけてやり、靴を履かせた。
再び呂律の回らない声で彼が謝罪した時、織部さんが何事か、耳打ちしたようだった。何と言ったのかはわからかったが──僕と緋村はおろか、楡さんにも聞かれたくないことだったのか?──次の瞬間、繭田さんは瞠目した。彼は意外そうに相手を見返す。
「……い、いえ、私も先ほど言ったこと以上の話は、伺っておりません。ただ、藍児さんのご両親にお会いして、今回の件を伝えさせていただいたのは本当ですが……」
「ならば結構です。手当てをして差し上げますので、館へお戻りください」
いやに冷淡な語調で言うと、織部さんは踵を返し、さっさと歩き出してしまった。僕たちのことを黙殺するように通り過ぎて行くその面からは、完全に感情が消え去っている。
「何を話しとったんやろな?」
その後ろ姿を眺めながら、楡さんが不思議そうに零した。
わからない。もしかしたら、瀬戸の存在の他にも、流浪園にはまだ何か、秘密が隠されているのかも知れない。
無論、瀬戸が本当に誉歴氏の実子だとすれば、だが。
それから僕たちは楡さんに誘われ、撞球室に移動した。ここは先述したとおり喫煙所を兼ねているだけでなく、雰囲気のいいバーカウンターが併設されており、院長直々にカクテルを振る舞ってくれた。僕も緋村もあまり酒は強くない方──緋村に関して言えば掛け値なしで弱い──なので、チビチビと舐めるようにそれを呑んでいると、手当てを終えた東條さんと軍司さん、そして女性陣が現れる。
以降、八人で談笑したり、ビリヤードをしたりしながら過ごし、日付が変わったところで衣歩さんの誕生日を祝福した。各々用意していたプレゼントを贈っていたが、生憎僕たちは何も用意していなかった為、言葉だけで赦してもらうことにする。
結局、最後まで遺言の話題が出ることはほとんどなかった──みな努めて触れないようにしていたのかも知れない──のだが、一度だけ、神母坂さんが例の予言について、口にしたことがあった。
「どうやら、『招かれざる客』は彼のことだったみたい。『ホムンクルス』の意味も、繭田さんの話を聞いてよくわかった……」
ホムンクルス──錬金術師の創り出す小人か。なんでも人間の精液が主材料であり、それをフラスコに入れて腐敗させたのち、毎日人血を与え続け、馬の胎内と同じ温度で四十週間保存することで、ようやく完成するのだとか。酷く手間と時間のかかる方法で創造されたホムンクルスは、産まれながらにして様々な知識を持つとされる。
彼女の予言に登場した「ホムンクルス」は瀬戸のことを、「城の宝」は誉歴氏の遺産のことを、それぞれ指している、とでも言いたいのだろう。正直なところ、僕は占い云々には未だに懐疑的であった──それどころか、妙に筋が通りすぎているようにさえ感じた。
「またカミダーリィとやらが出たのか? 君も大変だな」
キューの先にチョークを塗り付けながら、軍司さんはあからさまな嘲笑を浮かべた。
「君たちは知らないのだろうが、榎園くんの無精子症は手の施しようのないほど重篤だった。──そもそも、無精子症には大きくわけて、閉塞性と非閉塞性の二種類がある。精子は作られるが何らかの理由により、精子の通り道が塞がれてしまっているのが、閉塞性。対して、精子を作り出す機能その物が低下してしまった為に無精子症となるのが、非閉塞性だ。榎園くんは後者だったよ。
確かに、非閉塞性の場合でも少量の精子が作られている可能性があり、そう言ったケースには、直接精巣内の精子を取り出すこともできる。繭田の言っていた、精巣精子採取術だな」
チョークを置いた彼は、球筋を計算するように、ビリヤード台の上を、片目を瞑って見下ろした。
「しかし、残念ながら榎園くんにそれを用いることは不可能だった。だからこそ、香音流くんも明京流くんも、精子バンクの精子を用いて授かったのだ」
誉歴氏の二人の息子たちか。そのうち兄の方がSNS上で「カイン」と名乗っていた人物だとすると、彼の投稿にあった「幼馴染」とは、衣歩さんのことなのだろう。
いずれにせよ、軍司さんの口にした「亡くなった」と言う言葉から、どちらもすでにこの世にはいないらしい。今回の集いに参加していないこと、遺産の相続人に衣歩さんと瀬戸が指名されていたことなどから、薄々察してはいたが。
「とにかく、あの遺言書は奴が用意した偽物に決まっている。あんな物は無効だ。ここを出たら、あの卑怯者に目を物を見せてやろう」
キューを構えた彼は嗜虐的な表情を浮かべ、手球を突く。手球にぶつかり押し出された4番のボールはラシャの上を直進し、ポケットの奈落へと消えた。




