1:愛されたかった
そうです、あなたは今日わたしを地の面から追放なさる。わたしはあなたの顔の前から隠れ、地上を放浪する身とならねばなりません。
旧約聖書 創世記(関根正雄訳)第四章:カインとアベル
四年前の深夜。
篠突く雨に打たれながら、彼は薔薇の生垣を巡らせた迷宮の中を疾駆していた。靴下を履いただけの両足に、敷き詰められた砂利が容赦なく突き刺さる──が、それでも立ち止まることは許されない。
礫をぶちまけるような雨音や自らの荒い息遣いに混ざり、砂利を蹴飛ばす追っ手の足音が、幽かに聞こえた。
──苦しい。苦しい、苦しい、クルシイ……。
体中が軋み、ありとあらゆる器官が悲鳴を上げる。生まれ付き体の弱かった彼に、冷雨の中の全力疾走は、凄絶な苦痛を与えた。
──どうして、俺ばかりこんな思いをしなきゃならないんだ? 俺は、ただ……愛されたいだけなのに。
同じ疑問が、頭の中で巡り続ける。しかし一向に答えは出せぬまま、彼はひたすらに走った。
視界は酷く滲んでいたが、それは汗なのか雨粒なのか、あるいは涙か、判然としない。ただ、冷えきった体の中で、ぶたれたばかりの左頬だけが、怖ろしいほど熱かった。
まるで、焼けた鉄でもって、烙印を刻まれたかの如く。
稲光が瞬き、雷鳴が轟いた。息を切らせ、滅茶苦茶なフォームで疾駆する彼の青白い顔が、一瞬闇に浮かび上がる。
──どうして、誰も俺を愛してくれないんだ!
何度も何度も繰り返されて来た問い──もしかしたらこの世に生まれ落ちた瞬間から抱いていたかも知れないその疑問に、答えてくれる者は、終ぞ現れなかった。
そして、彼はとうとう終着点──迷宮の中心部に当たる、円形の空間へ躍り出る。
同時に雷光が瞬き、そこにある物の姿を明らかにした。
それは、亡き母の為に彼の父が建てさせた、ささやかな慰霊碑だった。扉のような形をした西洋風の墓石と、細長く聳え立つ十字架。その左右には高さの異なる石柱が立っており、それぞれのてっぺんに、天使が座している。
無邪気な笑みを湛えるその姿を目にした途端、彼の体から力が抜けた。ヨロヨロと数歩前に進んだところで、膝から崩れ落ちてしまう。
行き止まりだ。もうどこにも逃げ場はない。初めからわかっていたことではないか。
迷宮に終わりはあれど、出口はない。だからこそ、迷宮なのだ。
「…………」
酷く、惨めな気持ちだった。
心臓が痛いほど脈打ち、ドス黒い絶望が全身を蝕む。
追っ手の足音は、すぐそこまで迫っていた。
項垂れた途端、口の中に鉄の味が込み上げて来る。彼は堪えきれず、両手を地面に突いて、しばし血反吐を撒き散らした。
同時に、涙が溢れ出す。
無様に血を吐き、嗚咽する間にも、体温は奪われて行き、彼の体は死の陥穽を転げ落ちる。
──愛されたかった……あの娘や父さんに……みんなに愛されて、産まれて来たことを祝福されたかった。ただ、それだけなのに!
ひとしきり血反吐をぶちまけたあと、彼は最後の抵抗とばかりに、汚れた面を上げた。
目の前には、例の慰霊碑に付属する柱の片割れが、屹立していた。
少しずつ上を向いて行くその視界の中に、やがて先ほどの天使像が、稠密な闇の塊となって現れる。彼を見下ろすその姿は、ほとんど影としか視認できない為に、酷く恐ろしい「何か」に見えた。
天使と言うよりかは、むしろ……。
自らの置かれている状況さえ忘れ、しばし呆然と見上げていると、不意にまた雷光が瞬いた。
その刹那、真っ青なストロボに照らし出された天使の顔は──やはり、笑っていた。
しかし、その笑顔は先ほどとは違い、邪悪さと残忍さ、そして狡猾さに満ちた。
そいつは地に這う彼に、ある言葉を語りかけて来る。
──お前は本当にそれでいいのか? 弟なぞに愛する者を奪われ、無様に血を吐いて死んで行くだけで?
──お前はカインなんだろう? ならば、やることは一つじゃないか。
暫時、時が静止まったかのように雨音が消え去り、代わりにそんな囁き声が、ハッキリと聴こえた気がした。
「…………」
砂利と泥水を両手で握り締めた彼は、そこでようやく立ち上がる。
もう、逃げようとはしなかった。蹌踉めきながら振り返り、追っ手がその曲がり道の向こうから現れるのを、待つ。
雷光が瞬いた。
雨と血反吐に濡れた彼の顔には、背後の悪魔と同じ、残忍な笑みが浮かんでいた。
──殺してやる。
足音がひときわ近くなる。青白い懐中電灯の光が生垣を貫通し、チラチラと差し込んだ。
──殺してやる! 聖書にあったあの物語のように、あいつを殺し、その血をこの迷宮に吸わせてやる!
雷雨の夜、兄は弟を殺すべく、迷宮の中で待ち構えていた。これまで誰一人として殴ることのできなかった拳を、固く、握り締めて。
ほどなく、臓腑のように曲がりくねった道の先から、真円い光芒が現れ──
雷光が瞬いた。