14:口は災いの元
「病気の具合はどうなんだね? 糖尿病で難儀していると言っていたはずだが」
軍司さんが、遺言書の管理者に尋ねる。
「注射のお陰か、このところはとても安定していますよ。先ほども部屋で打って来たところです。とは言え、毎食前と寝る前とで、日に四回も投与しなくてはならないのが、なかなか面倒でして……」
「なるほど大変そうだな。そんな状態では、ワインに付き合わせるわけにもいかないか。今日はとっておきの銘柄を持って来たのだがね」
「生憎ですが、私は元より下戸でして。倅の方がよっぽど呑めますよ」
「ああ、そうだったな。すまない、失念していたよ。──ところで、子供は幾つになるんだ?」
「今年で二十五です」
「衣歩くんと同い年なのか。聞くところによると、随分と手を焼いているそうじゃないか。確か、未だ定職に就かずにフラフラしているとか。一度など、会社の方にまで小遣いをせびりに来たことがあったと聞いたよ。親からしたら、堪ったものじゃないな」
「え、ええ。仰るとおり、我が子ながら呆れてしまいます。一時期は小説家を目指すなんてことを言っていましたが、どこまで本気だったのやら……」
「君もなかなかに不憫だな。せっかく常務取締役にまで上り詰めたと言うのに、そんな不良息子がいたのでは、次期社長の座も遠退くと言うものだ」
「私はそんなこと、覬覦してなどおりませんよ。今の役職で満足ですから」
「だとしても、彼の存在が足枷になっていることは違いあるまい。そもそも、彼は亡くなった奥さんの連れ子だったのだろう? 血の繋がらない息子を男手一つで育ててやったと言うのに、随分な親不孝者ではないか。私だったら、とっくに勘当しているよ」
至って上機嫌そうな表情で言い、グラスに口を付けた。あくまでも他意はない──ように見せかけているが、わざと言葉で相手を甚振っているのは明白だ。見ているだけで、少し不快になって来る。
しかし、当の繭田さんはと言うと、全く憤慨した様子はなく、それどころかひたすら萎縮していた。軍神様が相手なだけに、下手に感情を露わにできないのかも知れない。
「全く仰るとおりで……」
同じ返事を繰り返し、彼は額の古傷を撫でる。まるで、そこがズキズキと疼くかのように。
「まあ、今日くらいは嫌なことを忘れるといい」言いながら、手に取ったワインのボトルを差し出し、「ああ、呑めないんだったな。すまんすまん」
悪意に満ちた嗜虐的な笑みが、大きな顔イッパイに広がった。
相変わらず額を抑える繭田さんは、そこで話題を変えようとしたのだろう、意外な言葉を口にする。
「と、ところで、ご研究の方は順調なのでしょうか? 確か、人間のクローンを産み出すご研究をなさっていると、伺ったのですが」
途端に、元産婦人科医の笑みが凍り付いた。ついでに座の空気も。他の人たちも談笑を止め、全員が彼らのやり取りに注目する。
「……誰が、何の研究をしているって?」
硬質な声音が響く。
「いえ、あの……せ、先生は、人間のクローンを実現なさろうとしているのですよね? そのようなお話を耳にしたものですから……」
「どうしてそんな出鱈目を信じる気になったのか、不思議でならないな。──君はまさか、日本を含め多くの国で、人へのクローニングが禁止されているのを、知らないわけではあるまい」
「も、もちろん存じております。しかし、海外の医師たちと極秘で研究を進めていると」
「もし君の妄言が事実だとして、私がそれを認めると思うか? 現役を退いているとは言え、私にも立場と言う物がある。そんなことが露呈してしまったら、二度と生殖補助医療には携われないだろう。そうなれば、君らの会社としても、少なからず損失になると思うがね。私と言うパイプ役を失うのだから」
その脅し文句はテキメンだったようで、彼は平謝りするしかなかった。見ていて気の毒になるほど青い顔で──やはり額の傷を手で覆ったまま──、何度も頭を下げる。
軍司さんは妄言だと断じていたが、彼が人間のクローンを産み出そうとしていると言う噂は、確かに存在した。無論、真偽のほどは定かではなく、あくまでも一部の週刊誌やネットのゴシップ記事などで取り上げられていた、と言う程度なのだが。
しかし、軍司さんは、人類を含む動物へのクローニングに関して造詣が深く、同時に強い関心を抱いていることもまた、事実のようだ。彼の著書の中には、そうした題材を取り上げた物が幾つもあり、そのほとんどが肯定的な意見を提示しているのだとか。
実際のところ、人へのクローニングと言う禁忌に対し、どう言った意見を持ち合わせているのか。直接尋ねてみたい気もしたが、さすがに実行に移す勇気はなかった。
「とにかく、滅多なことは言うものでない。君はすでに身をもって知っているはずだろう。『口は災いの元』だと言うことを……」
この言葉に、繭田さんは額の古傷をおさえたまま、いっそう顔を蒼褪めさせた。
※
夕食を終えてから一時間半ほど、風の凪いだような時間が続いた。その間、食堂や撞球室で雑談をしていたり、自室で休憩したりなど、招待客は各々自由に過ごす。
僕と緋村はと言えば、基本的に与えられた部屋にいたか、彼の喫煙に付き合い撞球室に行ったくらいで、特にこれと言って、何のイベントもなかった。
強いて言えば、夕食を終えたあとで、一度だけ瀬戸の部屋を訪ねてみたくらいか。が、しかし、ドアをノックして声をかけても応じてはもらえず。非常にヤキモキとさせられたまま、僕たちはあえなく、自室へと引き返した。
ちなみに、招待客たちの部屋割りについては以下のとおり。
まず、塔屋のある方からから見て、左手に並ぶ五部屋には、手前から順に──幸恵さん、神母坂さん、瀬戸、繭田さん、僕たちの部屋。
廊下を挟んだ右手には、これも手前から──衣歩さん、東條さん、楡さんと言う配置になっており、衣歩さんと東條さんの部屋の間には、空き部屋が二つ続いている。
また、軍司さんだけは踊り場の向こうにある西側の一室に泊まっており、彼の部屋の向かいにあるのも空き部屋であった。
それから織部さんは、食堂の近くに配された使用人室を利用しているとのこと。他には当主の使っていた部屋も、同じく一階にあるそうだ。
その後、二十二時ちょうどになったところで、いよいよ遺言書の公開式が執り行われる。会場は大広間だったが、事前に暖炉に火がくべられていた為、さほど寒さを感じずに済んだ。
公開式と言っても、楡さんも言っていたようにほんの形式的な物であるらしく、内容を読み上げてもらうだけで終わるそうだ。
僕たちは、各々好きな椅子にかける。
夕食同様、時間になっても瀬戸は姿を現さなかった。織部さんが呼びに行こうとしたのだが、
「榎園くんが招いたとは言え、元々部外者なのだから構わないだろう」
軍司さんのこの一言により、彼だけが不在のまま、式は開始された。
司会役を仰せつかった織部さんが、管理者から遺言書を受け取る。
「ただ今より、榎園誉歴様の遺言書を読み上げさせていただきます」
厳かに言い、封のされていない封筒から取り出した紙を開いた──瞬間。
彼の無表情が崩壊し、驚愕の為に瞠目するのがわかった。
顔を上げた織部さんは、唖然とした様子である人物の方を見つめる。視線の先にいたのは、繭田さんだった。──すると、繭田さんは何故か逃げるように、サッと目を逸らしてしまう。
──まさか。
声にはなかったが、織部さんの唇は確かにそう動いたように見えた。
「どうかしたのかね?」
異変を察したのか、軍司さんが訝しげに尋ねる。他の者も、誰もが当惑した様子で、司会者の答えを待っていた。
「い、いえ、それが……」言い淀んだ後、腹を括るように、目を伏せた。「……申し訳ございません。続けさせていただきます」
呼吸を整えた彼は、ようやくそこに書かれていることを朗読し始めた。
「『みなも知ってのとおり、私の病気は治る見込みがない。それどころか、あと一年保てばいい方だと、今年の春先、主治医に言われてしまった。最近では耳も碌に聞こえなくなり、職務をまっとうすることはおろか、会話でさえままならなぬ状態である。
私の体はじきに限界を迎えるだろう。ならばこそ、そうなる前に、自分の意思を明示し残しておくべきだと考え、このような文書を認めている次第だ。
さて。前置きはこれくらいにして、そろそろ本題に入るとしよう。私、榎園誉歴のささやかな財産は全て、養子縁組をし、晴れて私の娘となった榎園衣歩ただ一人に譲り渡す」
ここまでは、予想どおりの内容だった。
しかし。
「──『ただし、次の場合は除く。私と遺伝子的な繋がりを持つ実の息子、瀬戸藍児が、遺産の相続を希望する場合である。もし彼が望むのであれば、私の遺産の半分と流浪園及び野戸島を彼に与え、残りを衣歩に譲りたい』」
その時、座に大きな衝撃が走ったのは、言うまでもない。部外者である僕でさえ驚いたし、緋村も同様だったはずだ。
誰もがとっさに声も出ない様子で、しばし茫然と、司会者の姿を見つめていた。