13:誰かがこの館に忍び込んでたりして……
「先ほどは失礼しました。お恥ずかしいところを見せてしまって」
夕食の席で、神母坂さんはまっさきにそう言った。まだ少し顔色が優れないように見えるが、問題なく食事を摂れるほどには快復したらしい。
「ほんと、ビックリしたよ。普通に話していたと思ったら、イキナリ気を失うんだもん。このまま目を覚まさなかったらどうしようって、本気で心配したんだから」
隣りの椅子で、衣歩さんが可愛らしく唇を尖らせる。彼女の無事がわかり安堵しているからこそ、言えることなのだろうが。
「ごめんね。……でも、自分でも驚いた。あそこまでの発作は、ずいぶん久しぶりだったから」
あれが神母坂さんの言うところの、巫病の症状──カミダーリィとやらなのか。本当にそんな物があり得るのかと、僕は未だに半信半疑のまま、二人のやり取りを聞いていた。
あのあと、僕は緋村の指示で織部さんの元へと向かい、神母坂さんが気を失ってしまったことと、彼女を部屋まで運ぶのに手を貸してもらいたい旨を伝えた。夕食の支度をしていた彼は厨房におり、初めは疑わしげな表情を死人めいた顔に浮かべたが、すぐに手を止め付いて来てくれる。
「いったい何があったのですか? どうして神母坂様は……」
答えるよりも先に、裏口から庭へ出た。先ほどと同じところに佇立して待っていた緋村が、こちらを振り向く。ここまで来たら、直接見てもらった方が早いだろう。
怪鳥──どうやらペリュトンと言うらしいその異形の姿を目にした織部さんは、瞠目したのち、まじまじと融合した剥製を見つめる。
「先ほどそれが上から降って来たんです。誰かが館の二階から投げ落としたんでしょう。──それより、今は神母坂さんを」
早口で説明した緋村は、自分もコンサバトリーへと向かいつつ、使用人を促す。
「え、ええ」
織部さんと共に、僕たちは再び巨大な鳥籠の中に入った。
手伝ってくれるように頼んだつもりだったのだが、結局織部さんは、一人で彼女の体を抱え上げ、利用している部屋へ運んでしまった。非常に助かったのだが、少々申し訳なく思う。
僕たちも一応そのあとに続いただが、介抱は織部さんと衣歩さんに任せることにし、まず初めに塔屋の内側と、続いて廊下の壁を調べに向かった。
すると案の定、鷲の剥製と雄鹿のトロフィーが消えている。
そうしているうちに、騒ぎを聞き付けたのか、自室から顔を覗かせる者が数人いた。楡さんと繭田さん、そして瀬戸だ。
僕が彼らに事情を説明している間、緋村は例の窓を調べていた。窓全体の幅は一メートルほどで、今はその片側がスライドされて開いている。
しかし、犯行の痕跡は見付けられなかったらしい。外へ身を乗り出して周囲を見回したのち、静かにそれを閉じた。
その後、ペリュトンの死骸は織部さんによって回収され、ひとまず標本室にしまわれることとなる。ついでに飲みかけだった紅茶のカップも彼が片付けてくれた。
結局、犯人もその目的も全く不明のまま、僕たちは夕食の時間を迎え、今に至る。
「でも、何事もなかったようでホッとしましたよ。倒れたと聞いた時は、とても心配しました。ここじゃ急病に罹っても、すぐに病院へは行けませんから」
東條惺さんが、二人の会話に参加する。画商であり自ら画廊を営んでいると聞いていたものだから、もっと年配の人かと思っていたが、存外若かった。年齢は三十代半ばくらいだろうか。天然なのかパーマをかけているのか判別し辛い髪型が、彼の柔和な雰囲気を引き立たせていた。お洒落な丸い眼鏡や無地のシャツの上に羽織ったクリーム色のカーディガンも、よく似合っている。
「お医者様ならお二人もいらっしゃいますけどね。どちらもかなり限られた分野の専門家ですから、頼りにされても困るでしょう」
「確かに、東條さんの言うとおりやわ。……まあ、誰かさんは自分の畑でも役に立たんようやけど」
意味ありげな笑みと共に楡幸恵さんが言う。常に釣り上がり気味の細い眉やメイクの濃さから、少々キツそうな印象を受けたが、それに違わぬ刺々しい口調である。年齢は夫よりも十以上は若く見え、明るく染めたボブヘアーはともかくとして、ルージュやマニキュア、それにニットワンピースまでもが毒々しいほどの赤で統一されているのは、いささかやりすぎのように思えた。
「お前、まだそんなこと言うてるんか? 散々説明したやないか。あれには俺なりの考えがあってやな」
妻の言葉に、別居中の夫が噛み付く。
「別に、誰もあなたのことやなんて言うてへんけど? それとも、何か心当たりでもあるん?」
そう切り返した幸恵さんは、悠々と赤ワインを口に含む。そんな風に言われては、黙り込むしかなかったのだろう。楡さんは鼻を鳴らすだけだった。
俄かに不穏な空気が漂う。それを振り払うかの如く、東條さんが明るい声を発した。
「ところで、先ほど緋村さんが仰っていたペリュトンと言うのは、何のことなんでしょう? そう言う生き物がいるんですか?」
館の二階から降って来た剥製についても、すでに緋村が報告していた。
「ええ。アルゼンチン出身の作家、ホルヘ・ルイス・ボルヘスが、『幻獣辞典』と言う本の中で紹介している怪鳥です。鳥の体に鹿の頭が生えていて──本来は足も鹿の物らしいですが──、人間を殺しその影を奪うのだとか。『幻獣辞典』の中では、カルタゴに向かったスキピオたちの乗る船に襲来し、船員たちを惨殺したと言うエピソードが取り上げられていて、人間にとって、不倶戴天の敵とまで記述されています。──無論、あくまでも空想上の生物ですが」
「それは恐ろしいですねぇ。そう言えば、ここの図書室にもそんな本がありましたっけ。以前読ませていただいた記憶があります」
「けど、なんでそんなモンが降って来たんやろう?」グラスを置いた幸恵さんが、不思議そうに呟く。「勝手に空から湧いて来るはずないし、そもそも剥製を縫い合わせてできとったってことは、誰かが落としたんでしょうけど……。ここにいてる人たちの中に、そんな意味不明な悪戯をして喜ぶような人がおるとは思えへんわ。……まさか、私らの知らん間に、誰かがこの館に忍び込んでたりして」
彼女は鮮やかなルージュの端を、悪戯っぽくカーヴさせた。瞬時に「あり得ない」と思ったが、言われてみれば、その可能性は考えもしなかった。
つまり、僕たちの知らない第三者──それこそ「招かれざる客」が、この島に潜んでいると言う可能性である。
「だとしたら、我々は相当鈍感だと言うことになるな」
皮肉っぽく笑いながら、軍司さんはフォークとナイフでステーキを切りわける。彼の経歴を知っている為か、ナイフがメスのように見え、帝王切開をしている姿を想起させた。
「そもそも、外部から忍び込んだ人間が、剥製のありかやコレクションの内容まで把握できたとは思えない。やはりこの流浪園の内情を知る者の仕業だと考える方が自然なように感じるのだが、しかし、幸恵くんの意見ももっともだ。念の為、みなに訊いておくとしよう。自分がやったと白状する気はないか? つい魔が差して、くだらない悪戯をしてしまったと言う者は?」
暫時手を止め、軍司さんは座を見渡す。
ちなみに、夕食の席には瀬戸を除き全員が揃っていた。彼は疲れが取れない為、ユックリ休んでから一人部屋で食事を摂るつもりだと、何故か繭田さんが使用人に伝えていた。マネージャーじゃあるまいし、どうしてそこまでするのだろうと訝ったのだが、それは今は措いておこう。
とにかく、軍司さんの問いかけに答える者は、給仕役の織部さんを含め、誰一人いなかった。
暫時の沈黙を狙い澄ましたかのように、ピシリと家鳴りがした。古い建物な上に空気が乾燥している為か、この後僕たちは幾度となく、この不吉な音を耳にすることになる。
「……よろしい。ならば我々の知らない第三者の仕業、と言うことにしておこうじゃないか。どのみち、この程度の悪戯で目くじらを立てるつもりはないからな」
それが鶴の一声となり、以降この話題が上がることはなかった。