10:花を捧げに来たんです
屋敷内にある撞球室は、喫煙所も兼ねていた。そこで緋村の一服に付き合ったのち、僕たちは外に出て、流浪園の建つ丘を下っていた。軍神様との謁見を終え、瀬戸にもすぐには話を聴けそうにない為、暇潰しがてら散策に出たのだ。
頭上に広がる冬空には、すでに日暮れの兆しが見え始めていた。雲一つない晴れ渡った空の端が、ほんのりと黄色がかって見える。
先ほどの面会について、緋村に感想を尋ねてみたのだが、まだ思考を巡らせている最中なのか、答えをはぐらかされてしまった。
結局大したディスカッションもできぬまま、僕たちは迷宮の跡地へと辿り着く。
すると、寒々とした空き地の中心に、二人の女性の後ろ姿を発見した。その周囲には無残に砕け散った石像の破片や、倒れた柱、そして墓石のようなモニュメントの残骸があるばかりだ。──あんなところで、何をしているのだろう?
興味を惹かれつつ、そちらへ近付いて行くと、僕たちの足音に気付いたらしい。ほどなく、二人は同時に振り返った。
その瞬間、確信する。彼女らが、船の上で楡さんが言っていた美女たちなのだと。二人ともタイプは違うものの、それほどの美貌の持ち主だった。
豪奢な花束を抱えている方が、榎園衣歩さんなのだろう。二十五歳だと聞いていたが、まだあどけなさの残る顔立ちをしていた。美人と言うよりも、美少女と評するのが適切かも知れない。楡さんではないが、僕は精巧に作られたビスクドールを連想する。
ただ、残念なことに、こちらへ向けられた黒目がちの円らな瞳には、警戒の色が浮かんでいた。あまり歓迎されていないようだ。あるいは単に人見知りをするたちなのか、衣歩さんは半歩ほど後退った。
その拍子に、彼女の胸元で何かが陽の光を反射し、僕の目を射抜く。どうやらそれは、ロケットペンダントであるらしく、銀色のチャームには、複雑に絡まり合う荊の透し彫りが施されており、裏地の赤が花弁のように、その隙間から覗いていた。
「こんにちわ。軍司先生を訪ねていらした人たちですね? お話は伺っています」
しっとりとした落ち着いた声音で、もう一人の美女──確か、名前は神母坂さんと言ったか──が、挨拶をして寄越す。至って悠然と、そして嫣然と佇む神母坂さんは、背丈は衣歩さんと同じくらいだが、雰囲気などは全くの真逆であり、非常にアンニュイな魅力を放っていた。
服装も、淡い水色のガウンワンピースの上から薄ベージュ色のダッフルコートを羽織った衣歩さんに対し、神母坂さんの方は黒のライダースに黒のタートルネックセーター、そしてこれまた黒いデニムパンツと言う、偏執的なまでにダークな出で立ちである。まるで、意識して衣歩さんとの違いを強調しているかのようだ。
また、艶やかな髪の合間から覗く左右の耳たぶに、リング状のシルバーピアス──のちにイヤリングであることがわかる──をしており、その一対の装飾品だけが、少々ミスマッチに思えた。
ただ挨拶をしただけなのに、白皙の顔に浮かんだ微笑や、形のいい唇の動きなど、どれもが官能的に見えてしまい、僕は少々戸惑う。
その為、神母坂さんの言葉に応じる役目は、緋村に譲ることとなった。
「お邪魔しています。大切な催しのある時に押しかけてしまい、申し訳ありません」
「いえ、お気になさらないでください。人が多い方が賑やかでいいですから」
それから、僕たち四人はそれぞれ自己紹介を交わす。その際、衣歩さんは「ユックリしていってくださいね」と言ってくれたのだが、えくぼの浮かんだチャーミングな笑顔はどうしても、取り繕っているように見えてならなかった。
「お二人はここで何をなさっていたのでしょう? 僕たちは時間が空いたので、散策していたのですが」
ちょうど気になっていたことを、緋村が尋ねる。
「花を捧げに来たんです。ただ、先客がいたようですけどね」
神母坂さんは半身になり、すぐ背後を見るよう促す。
そこには確かに、一束の献花が横たえられていた。鐘のような形をした可愛らしい白い花をメインに、鈴蘭をあしらった壮麗な花束だ。先ほど僕が崖の上の道から見かけたのは、これだったのだろう。
「トルコギキョウですね。献花としてはポピュラーな物らしいですよ。こんな名前ですが、トルコが原産と言うわけではなく、キキョウ科の花でもないそうです」
神母坂さんが教えてくれた。ちなみに、彼女らの用意して来た物は、大輪の白百合と菊の花束だ。
それを先客の花の傍らに供えると、二人の美女は手を合わせる。そう言えば、四年ほど前に落雷があったそうだが、もしかしたらその時誰かがここにおり、被害に遭ったのだろうか?
そう考えている間に短い祈りは終わり、再び神母坂さんが口を開く。
「実は、四年前にここで雷に撃たれた人がいるんですよ。息を引き取ったのは入院先の病院なんですけど、事故の現場はここですから、こちらにも花を供えようと言う話になって。私たちで一緒に買って来たんです。──ね?」
衣歩さんはコクリと頷いた。暗く沈んだ表情から、その誰かは彼女にとってかけがえのない存在だったことが窺えた。家族か、あるいは恋人か……。
「それより、お二人ともお暇なんでしょう? よろしければ、場所を変えてお話ししませんか? ちょうど、これからお茶にしようと思っていたところなんです」
意外な誘いを受ける──そして、僕たち以上に、衣歩さんが意外そうにしていた。あまり気が進まないように見える。
暇なのは事実だったし、こちらとしては断る理由はない──それどころか、井岡の件について、話を聞いてみるには絶好の機会だが、はてどうしたものか。
逡巡した末、僕は彼に返事を任せた。
「ご迷惑でなければ、ぜひ。お二人にも、お話を伺ってみたいと思っていたので」
かくして、僕たちは短い散策を終え、丘の上へと引き返した。
案内されたのは、屋敷の裏手に建つコンサバトリーだった。
裏口から続く短い渡り廊下の先に、巨大な鳥籠のような形状の建物がある。屋根も壁も扉も全面ガラス張りとなったその中には、ハーブや花の植わったプランターや観葉樹、天井から垂れ下がる蔓性の葉などが、至るところに配されていた。芝生やトピアリーの枯れた庭のとは違い、瑞々しい生命力に満ちた光景だ。
が、よくよく見てみると、それらは全て模造品であることがわかった。立地上本物の草花を管理するのは難しいだろうから、当然と言えば当然である。
こちらにも剥製が何点か飾られており、カラフルな体色のインコや派手な毛冠を持つ鸚鵡が、樹々の枝葉の陰で羽を休め、蜂鳥が花の蜜を吸っている。まるで南国の楽園を凍結したかのようで、美しさと同時に、ある種の物哀しさを感じた。バブル時代に建てられたアミューズメントパークに通ずる物がある。
イミテーションの楽園の中央には、白い円卓を囲むように、一台のベンチと二脚の椅子が置かれており、神母坂さんと衣歩さんは奥側のベンチへ、僕たちはそれぞれ椅子へと腰を下ろした。
すると間もなく、織部さんが紅茶とお茶請けを運んで来てくれた。ここへ来る途中で、神母坂さんが依頼していたのだ。
それぞれのカップに紅茶を注いだ後、彼は夕食の支度をしなければならないと言って衣歩さんの誘いを丁寧に辞し、館へ戻って行った。
「お二人は、井岡のことをご存知だったそうですね。先ほど、軍司さんから伺いました」
紅茶に口を付けようともせず、緋村はいきなり本題に入る。猫舌の為、冷めるまで飲めないのもあるのだろう。
「ええ。今年の春頃、雑誌の記事でお名前とお写真を拝見しただけですけどね。作品も一緒に載っていましたが、素晴らしいコラージュ画でした」
「今年の春、ですか。それなりに時間が経っていますが、記事で見かけただけの名前を、よく記憶していましたね」
「もちろん、すぐにピンと来たわけではありません。東條さんが、最近事務所にあるバックナンバーの整理をしたそうなんですが、その時たまたま読み返したとかで、憶えていたんですよ。それで、私たちも思い出して……」
「突然おかしなことを訊くようですが、榎園さん。先々週の日曜日──九日の十五時頃、大阪の戎橋筋商店街の付近で、あなたを見かけたと言う者がいます。その日、そこで何をなさっていたのか、差し支えなければ教えてください」
この質問は予想外の物だったのだろう。衣歩さんは訝しげに眉根を寄せた。
隣りの神母坂さんも、意外そうな表情を浮かべる。
ほどなく、尋ねられた彼女は、
「その人の見間違いじゃないですか? 私はそんなところ、行っていません」
どこかムキになって否定しているように聞こえたのだが、気のせいだろうか? これだけでは判断が付かない。
「では、《Sunny tourist》と言う旅行代理店についてはご存知ですか? 軍司さんがアドヴァイザーを務めている会社の一つです」
「……はい。それが、どうかしたんですか?」
「これまで、そこを利用されたことはありますか?」
「い──いえ……ないですけど」
この返答を、緋村はどう受け取ったのか。無機的な眼差しからは何も窺い知ることはできなかったが、とにかく彼は意外なほどスンナリと矛先を収めた。
そして、今度は別の方向から斬り込んで行く。
「今度はお二人に伺います。この人に、見覚えはありませんか?」
緋村の視線に促され、僕は先ほどと同じようにスマートフォンを取り出し、瀬戸の写真を見せる。
画面を覗いた美女たちは、綺麗に声をハモらせて「いいえ」
「彼は瀬戸藍児くんと言って、僕たち同様、阪南芸術大学に通っていました。半年ほど前に退学し、それ以来は連絡が途絶えていたのですが……実は、今回の集まりに招かれていたようです。つい先ほど、玄関で会いました」
「おじさま──父が招待したってことですか?」
「そのようですね。誉歴さんからは、聞いていらっしゃらなかったのですか?」
「は、はい……」
真偽を推し量る術はないものの、本当に戸惑っている風に見えた。どうしてそんな見ず知らずの青年を招いたのだろうと、不思議がっているようだ。
あるいは、そう見えるように、必死に演じているのか。
その後、緋村はわずかに考え込んでいたが、結局それ以上問いを発することはなかった。
「ご協力ありがとうございました。大変参考になりました」
彼が無感動に礼を述べたところで、事情聴取は終了。それから話題は、先ほど二人が花を供えていた場所へと移る。