9:特別なゲストをお連れしておりまして……
織部さんに先導され、僕たちはエントランスホールへ向かう。そこには、たった今到着したばかりであるらしい招待客が一人、佇んでいた。彼が「繭田様」なのだろう。
「これはこれは。軍司先生自ら出迎えてくださるだなんて、恐縮です」
五十代後半ほどと見受けられるその男性は、柔和な笑みを浮かべ、大袈裟な挨拶をする。グレーのステンカラーコートの下に、さりげなくストライプの入った濃紺色のスーツを着ており、至ってフォーマルな出で立ちだった。ネクタイも暗いワインレッドの物を巻いている。
しかし服装よりも何よりも、まっさきに目が行ってしまったのは、撫で付けた髪の下の広い額にある、縫合の痕だった。かなり古い傷のようだが、よほど深い物なのか、生々しく存在感を放っている。
「相変わらずだな君は」
軍司さんは、呆れたように笑みを零した。
「それはそうと、こんな辺鄙なところまで、よく来たね。君が榎園くんの遺言書の管理を任されていると聞いた時は驚いたが、一番の適任者であることには違いない。役目を果たし終えたら、ユックリと寛いでくれたまえ」
「歓迎のお言葉、ありがとうございます。早く肩の荷を下ろしたいですよ」
彼は微苦笑を湛えた。一見して和やかな会談だが、やはり微妙な空気を感じてしまう。先ほどの軍司さんの言葉が頭に残っている為だろうか?
それから、繭田氏は僕たちの姿を認めると、
「わたくし、繭田英佑と申します。どうぞ、お見知りおきください」
黒革のカードケースから名刺を取り出して寄越す。そこには彼の名前と共に、「榎園製薬 常務取締役」と言う肩書きが印字されていた。学生である僕たちは渡す名刺がない為、口頭のみでの自己紹介となる。
「それでは、お二人が先生のお客様なのですね? 到着して早々お目にかかることができるとは……何と言いますか、奇遇ですね」
繭田氏は微笑を浮かべたまま、意味ありげに呟いた。いったい何が「奇遇」だと言うのか。
軍司さんも気になったらしく、「どうかしたのかね?」と彼に尋ねる。
「実は、今日は私一人だけで伺ったのではないんですよ。先ほど織部さんには伝えたのですが、特別なゲストをお連れしておりまして……」
「なに? いったい誰なんだ?」
答える代わりに、彼は背後を振り向いた。すると、ちょうどタイミングよくドアが開き、ある人物が中へ入って来る。
──その姿を目にした瞬間、僕と緋村は驚きのあまり瞠若した。いや、喫驚させられたのは、軍司さんにしても同じだっただろう。
軍司さんも、つい先ほどその男の写真を、目にしたばかりなのだから。
彼──青年は、実に中性的な面立ちをしていた。身長もどちらかと言えば低い方で、酷く華奢な体付きや白い肌から、儚げな印象を受ける。髪だけはかなり短くなっているものの、写真で見たのと全く同じ顔が、そこにあった。
「初めまして、瀬戸藍児と言う者です。本日はお招きくださり、ありがとうございます」
機能性のよさそうな紺色のマウンテンパーカーとカーキ色のカーゴパンツを着た青年は、如才なくそう言った。婉然とした微笑みを湛えながら。
音信不通だと聞かされていた人物──ある意味今回の出来事の発端となった人間と、よもやこんなところで出喰わすだなんて。全く信じていなかった占いが的中したかのような、薄気味の悪い感覚を、しばし味わう。見事に不意打ちを食らわされ、僕は茫然とその姿を見つめていた。
「招かれた? 誰が君を」
「社長ですよ。今回の集いが開かれたら彼を招待するよう、生前仰せ付かっていたんです」
繭田さんが説明する。軍司さんは疑わしげに目を細め、相手の顔を見返した。
「榎園くんが……」
「ええ。ですので社長のご意向どおり、彼にも遺言書の公開に立ち会ってもらおうかと」
むつりと黙り込んだ元産婦人科医だったが、ほどなく観念したように、青年へ歓迎の言葉を贈った。それから、棒を呑んだように突っ立っていた僕たちを振り返り、
「そうそう、彼らは君と同じ大学の生徒なんだがね。井岡さんの事件を調べる為に、わざわざこの島まで来てくれたんだ。君ともお友達ではないのかね?」
瀬戸の視線が、こちらに向けられる。
「いえ」
彼は言葉少なにそう呟いただけだった。その為、妙な間が生じる。いったい何なのだろう、この中途半端な反応は。
「僕たちはこれが初対面です」緋村が言う。「初めまして、芸術企画学科二回生の緋村奈生です。こっちは文芸学科二回生の若庭葉。たった今、軍司さんが説明してくださったとおり、僕たちは井岡の一件を調べています。彼女が何者かに怪我を負わされたことは、ご存知ですか?」
「はい、テレビのニュースで知りました。驚きましたよ。あんな目に遭うやなんて、可哀想に……」
「彼女は瀬戸くんが突然大学を辞めてしまったことを気にしていたようです。よかったら、詳しく話を聞かせてもらいたい」
この機を逃すまいとしているのか、緋村は若干語気を強める。が、それに答えたのは瀬戸ではなかった。
「積もる話があるようですが、取り敢えずお部屋で一休みしてもらってからでも、構いませんか? 瀬戸さんも、慣れない船旅で疲れているでしょうから」
「……わかりました。それでは、のちほど改めて、伺うことにします」
繭田さんの提案に、緋村は大人しく引き下がる。
それぞれ自身の荷物を持ち、織部さんの案内で二階へ向かう彼らの後ろ姿を、僕たちはしばし見送っていた。
すると、そこで初めて、僕はあることに気付く。瀬戸の両手に、白い手袋が嵌められているのだ。
初めは単に防寒用かとも思ったが、それにしては材質が薄そうだ。ホテルのボーイや車掌、あるいは警察の捜査官が身に付けるような物に似ている。
彼は何故、あんな手袋をしているのだろう? ささやかながら、また一つ謎が増えてしまった。
そもそも、瀬戸が「流浪園に行く」と語ったのは、今から約半年前のことだ。どうしてここまで長いスパンが空いたのか。そして、彼は今までどこで何をしていたのか。確認したいことは、山ほどあった。