7:何か質問は?
標本室は一階東側の一角にあり、廊下を挟んだ向かい側には、奥から順に図書室と書斎、そして流浪園の亡き主の部屋が配されていた。
また、標本室の隣りは薬品室と言う名前の部屋のようで、この二部屋はドアで繋がっているらしい。
「軍司先生、お二人をお連れしました」
ドアの前に立ち織部さんが声をかけると、すぐに入室の許可が下りた。礼を述べてから彼とわかれ、僕と緋村は中に入る。
僕たちに充てがわれた部屋の二倍ほどの広さの室内には、その名のとおり、夥しい数の標本が展示されていた。小型の物はゾウムシやハンミョウ等の昆虫から、大型の物は親子の牛まで──数もさることながら、そのレパートリーの多様さに驚かされる。
床の上には陳列台が三列に並べられており、こちらには鉱石や化石、小動物の骨格標本から、瓶詰めにされた魚類、爬虫類など、グロテスクな品々が、ところ狭しとひしめき合っていた。まるで、黒魔術に用いる道具の市場のようだ。
まさしく驚異の部屋と呼ぶに相応しい圧巻のディスプレイであるが、中でも目を惹かれたのは、部屋の奥に向かい合って置かれた一対の人骨標本だった。
入り口から見て右にある物の方が、少し背が低く、右肘の先を持ち上げ、上に向けた掌に模造品の林檎を乗せていた。どうやら、それをもう一体の標本へ差し出しているようだ。
二人の背後には舞台の書き割りのように、二メートルほどの背丈にまで引き伸ばされた、大きな絵画のレプリカが設置されていた。夜の森を描いた物なのか、黒く塗り込められた背景の中央に、ボウッと浮かび上がる古木の姿が、神々しくも不気味だ。
また、その木には林檎らしき果実が生っており、手前の枝の根元に絡み付いた一匹の蛇が、男性器の如く丸く膨らんだ頭を、右側の人骨へと向ける。
──その二体の人骨と果実、そして背後の書き割りは何を表しているのか。説明を受けずとも理解できた。蛇に唆されたイヴが禁断の果実を手に取り、夫であるアダムに勧める場面──あまりにも有名な、聖書のワンシーンである。
「──十六世紀から十七世紀にかけて、初期の博物館は、薬種商の店内を参考に発展したそうだ。これは考えてみれば当然の話で、展示物である生き物の死体を保存するには、当時は干からびさせるより他なかった。だからこそ、自然と干物だらけの店内を模倣することになったわけだ」
朗々たるその声は、無論、元産婦人科医の発したものだ。アダムとイヴの前に佇み、こちらに背を向けるその姿は、二人を創り出した造物主のように映る。
ほどなく、語りながら振り返った彼の手の中にある物を見て、思わずギョッとさせられた。
「その後時代が進むにつれ、今度は木乃伊化に継ぐ新たな保存方法が確立させる。……アルコール漬けだよ。こんな風にね」
その右腕に抱えられた瓶の中には、赤ん坊が詰められているではないか。
「改めて言おう。ようこそ、珍奇の園へ」
軍司さんは大きな口を恐ろしいほど豪快に開き、歯を見せて笑った。髑髏を思わせる表情──まるで彼こそこが、人骨標本の親玉であるかのようだ。
「壮観だろう? これらのコレクションは全て、誉歴くんが生涯かけて蒐集して来た物だ。と言っても、ここにあるのはほんの一部に過ぎないのだがね」
「素晴らしいご趣味ですね。フレデリク・ロイスの珍奇博物館や、かつてのオランダの解剖学教室を彷彿とさせます。人骨の後ろの絵は、父の方のルーカス・クラナッハですね? なるほど、本来なら絵の中にいるアダムとイヴを、人骨標本を使って表現しているのか」
「どうやら、君はなかなか該博なようだな。知ったかぶりをして恥を掻く前に、さっさと本題に移るとしよう」
軍司さんはそこで、ようやく手にしていた物を陳列台の上に戻した。
「……さて、私の話を聴きたいとのことだが、いったい何を話せばいいのだね?」
「我々の友人──井岡のことに関してです。彼女とはどう言った経緯で面会する約束を交わしたのか、まずはそこから確認させてください」
「すでに君たちも聞き及んでいそうなものだが……まあ、いいだろう」
髑髏の笑みを仄めかしたまま、軍司さんは鷹揚に頷く。
「二、三週間ほど前、彼女からメッセージをもらってね。こう見えて私もSNSをやっているんだが、そこに直接連絡をくれたんだ。『ご著書、たいへん興味深く拝読致しました』とね。若い読者と言うのは珍しいから、つい舞い上がってしまったよ」
意外にも、冗談を織り交ぜて来る。目の奥は、全く笑っていなかったが。
いずれにせよ、井岡が軍司さんの著書を読んだと言うのは本当だった。彼とコンタクトを取る為だけに、わざわざ市の図書館に行って置いてあった物を数冊拾い読みしたそうだ。
「それで、何度かメッセージのやり取りをするうちに、井岡さんが『流浪園を訪れてみたい』と言い出した。無論、私は初めは断ったよ。彼女がどんな人間なのかもわからない上に、榎園くんが亡くなったばなりでバタバタしていたからね。……ただ、どうして流浪園を訪れたいと考えたのか──そもそも、どこでその名前を知ったのか、非常に気になりもした」
その理由を尋ねられた井岡は、「半年ほど前に、友人が口にしていたのを聞いた」と答える。軍司さんにメッセージを送ったのも、彼が本当に流浪園を訪れたのか確認する為だ、とも。
ただし、戎橋で榎園衣歩さんと思われる女性を見かけ、思わず尾行したことは黙っておいたらしい。軍司さんの名前も友人から教えられたことにして。
「私はたいそう驚いたよ。そんな青年が訪ねて来たなんて話は聞いたことがなかった。しかも、彼は私の名前だけではなく、衣歩くんの金縛りに関しても知っていたそうじゃないか。率直に言ってずいぶんとキナ臭い話だと感じたが、同時に興味が湧いて来たんだ。何らかの企みがあって接触して来たのだとして、それはいったいどのような物か──また、何故そんな意味不明な話をでっち上げたのか──、確かめてみるのも面白そうだと」
井岡の語った内容は出鱈目であると決め付けていながら、その後何度かやり取りを重ね、とうとう実際に会ってみることにしたそうだ。
しかし、たったそれだけ──面白そうだと感じたと言うだけ──で、見ず知らずの相手と面会する気になるものだろうか? 本当は何か別の理由があったのか、あるいは井岡の話の中に、よほど関心を掻き立てる要素が紛れ込んでいたのか……?
いずれにせよ、ネットで知り合った相手──それもSNS上で言葉を交わしただけの間柄の──と実際に会うか否かは、もっと慎重に判断すべきだ。どちらも危機管理能力がなさすぎる。ネットリテラシーを欠いた行動を取るから、痛い目を見るのだ──と言う箴言は、井岡の恋人が彼女に放ったものだった。
「しかし、当日、待ち合わせしていた心斎橋のカフェに向かってみると、井岡さんの姿は見えない。まだ少し時間はあったし──私は待ち合わせより十分は早く到着するタイプなんだ──、先に席を取って待っていたが、一向に現れる気配がない。二十分ほどしたところで、まんまと騙されたのだと気付いたよ。いや、自分から騙されに行ったような物だが」
軍神様は時間に厳格であるらしく、それ以上相手を待つことはせずに、カフェを出たと言う。そしてその後は大阪の街を無目的にブラ付き、気まぐれにベトナム料理店で夕食を摂った後、行き着けのバーを数軒はしごして帰路に着いたそうだ。
その為、彼が井岡の身に起こったことを知るのは、翌朝ニュース番組の報道を見てからとなる。
「テレビを見て仰天した私は、すぐに警察へと出向き、井岡さんと会う約束をしていたことや、その経緯を打ち明けた。立場上、躊躇がなかったかと言えば嘘になるが、いずれわかることだろうから、素直に話すことにしたわけだ。お陰で容疑者の一人となってしまったようだがね」
皮肉げに笑い、軍司さんは先ほどとは別の瓶を手に取った。中身は、羽を折り畳んだチスイコウモリだ。
「私から話せるのは以上だ。何か質問は?」
まるで生徒を相手にする教師のように言い、こちらに視線を投げかけて来る。これには、無論緋村が応じた。




