序章・帰郷(1)
「おい、また始まったぞ!」
「ナスベリとカタバミの決闘だ! 急げっ!!」
大陸東北部タキア王国──その外れ、南の国境近くに位置する広大な森と小さな山々に囲まれた土地ココノ村は娯楽に乏しい農村だ。だから当時の子供達にとってあたしとあいつのケンカは数少ない楽しみの一つだった。
「駄目だよカタバミ! ナスベリもやめて! 僕は気にしてないから!!」
この時のケンカの発端は、隣の家に住む幼馴染・カズラがナスベリによって橋から突き落とされて怪我をしたことだった。彼の右手に巻かれた痛々しい包帯を見たあたしの中ではメラメラと怒りの炎が燃え盛っていた。
「大丈夫、あたしがカタキをとる!」
当時あたしは同世代の中で一・二を争うほど背が高く、いつも両親の畑仕事を手伝っていたから腕力も強かった。なのに、それでも一度も勝てなかった相手がいる。それこそが宿敵“氷兇の魔女”ナスベリである。
「また泣かしてやるぜ、デカ女!」
黒髪黒目。ボサボサ頭。女の子のくせにいつも男の子の服を着て男子達とつるんでいるおかしな子。この日も背後に村の悪童達を付き従えて仁王立ちしていた。あたしより一つ年下で背も低いのに、いつだって生意気な態度。それも無性に気に喰わない。
「やっちまえナスベリ!」
「連勝記録更新だ!」
最年長で十五歳の悪ガキ軍団。それが当時九歳だったナスベリの取り巻きとして彼女を応援していた。対するあたしの後ろにいるのは大半が女子達。ナスベリ一派の悪逆非道の振る舞いに堪えかねた抵抗軍である。
「がんばってカタバミ!」
「今日こそケチョンケチョンよ!」
スカートをめくられる。着替えを覗かれる。カエルを投げつけられる。ぬいぐるみの顔にヒゲを描かれる。敵軍がここ数日だけで働いた数々の蛮行に対し、他の女子達の我慢も限界に達していた。
かといって大人に告げ口しても意味が無い。男子とナスベリはどれだけ叱られても懲りない生き物だからだ。懲らしめるなら自分達の手でやるしかない。
ただし集団戦はご法度。以前同じような状況で村中の子供がぶつかり合った時、あたし達は大人達から数日間に渡って延々説教を繰り返され、流石のナスベリでさえ泣いて許しを請うた。すぐに元に戻ったけれど。
とはいえ他の子供達はそうもいかなかったため、以降は揉め事が起きた場合、双方から代表者を一名ずつ選出して決闘するというルールが制定されたのである。
そもそも、あたし達女子はただでさえ体力腕力の面で不利なのに男子達が徒党を組んでしまったら勝てるはずがない。でも、せめて一対一に持ち込めたなら勝率は上がるだろう。そう踏んでこちらから提案した方式だった。男の子はたいてい騎士の馬上試合だとか魔法使い同士の決闘といった正々堂々の勝負に憧れるものだ。だからこの提案を蹴る可能性は低いと思ったし、案の定、彼等は目を輝かせて話に乗ってくれた。常にああ素直だったらいいんだけどね。
けれど悔しいことに、こちらから提案しておきながら我が軍はまだ一度も決闘に勝てたことが無い。それというのも敵の代表がいつも決まってナスベリだからだ。
ナスベリは小柄ながらも運動神経抜群で、こいつにしかできない卑怯な戦法まで使って来る。それをどうにかしない限りあたし達に勝ち目は無い。
つまり──
「今日は勝てる!」
「そうよ、絶対勝てるわ!」
「が、がんばって! ハァ……ハァ……」
今回あたし達には秘策があった。うちわで必死にあたしを扇いでくれている友人達の目にも希望の光が満ち満ちている。それだけ自信のある切り札なのだ。
「えっと、いいか……? じゃあ、はじめ!」
「いや、止めてよサザンカ!」
カズラと同じく同世代の幼馴染サザンカは、わけあってこの両軍のどちらにも加わらず中立を保っていた。今この場にいないレンゲに嫌われたくなくて、こちらにも向こうにも味方できず板挟みの立場で苦しんでいるのだ。でもそれならせっかくだから公正な視線で判定してくれと頼まれ、審判役に起用されてしまうことが多い。
村の中央の広場、そこに全員が集まったのを確認してサザンカが合図を出す。友人達があたしから離れ、ナスベリの取り巻き達と共に周囲に輪を作った。これでもう決着がつくその時まで双方この場から逃げ出すことはできない。
「ヘッ、また暑苦しい恰好してやがる」
「あんたのせいでしょうが」
だらだらと汗を流しつつナスベリの憎まれ口に切り返すあたし。この夏の盛りに冬服を着ていて、さらには手袋マフラー耳当て付きの帽子と防寒具までも完備している。事情を知らない人が見たら正気を疑うだろう。けれど目の前のじゃじゃ馬と戦うにはこれだけの装備が絶対に必要なのだ。
「かかってこい!」
「いいぜ、お望み通り冷やしてやるよ!」
そう吠えたナスベリの両手から白い冷気が立ち昇り始める。あれがあたしの服装の理由。彼女は母親から教わった“冷やす魔法”で相手の身体、特に腹部を集中的に冷却して戦闘不能に追い込むという卑劣な手段を用いるのだ。腹冷えで強烈な便意を催したら誰だって戦闘どころではない。勝負を放棄するか降伏して便所に駆け込むことになる。そうやってナスベリはまだ九歳の少女ながら、この村の子供社会の頂点に立った。
「くっ……」
夏の熱気と冷気がぶつかり合い風が生じる。その冷たい突風は裾の長いあたしの冬服をバタバタはためかせた。周囲の女子達も慌ててスカートを押さえる。
「ぎゃああああああああああっ!?」
「何すんのよナスベリ!」
「自分だけズボンだからって!!」
逆に男子達は大興奮だ。
「出たっ、ナスベリの“超極寒凍結地獄大魔法”!!」
「あれを腹に喰らって無事だった者は一人もいないっ!!」
「でも、すずしー」
「夏にはありがたいねー」
違う意味で喜ぶ子達もいた。たしかに最近やたらと暑いし、こういう時ならありがたい魔法かもしれない。一人だけ冬服のあたしもおかげで多少楽になった。もちろん感謝するつもりなんて微塵も無いけれど。
「ヘヘッ、これを見てもまだやる気か?」
「あたりまえでしょ!」
「ばかめ、アタイの“ぐんもん”にくだれば、毎日冷凍みかんを食わせてやるのに。じいちゃんの畑のみかんを好きに食っていいって言われてるからな!」
魅力的な提案ではある。でも、今日はこいつが何を言ったってあたしの心が動かされることは無い。
「うるさい! いいからまずカズラにあやまりなさい!」
あたしがそう言って睨みつけると、珍しくナスベリは動揺した。
「な、なんでだよ! アタイは、ただアイツと遊んでただけで……」
「アンタが橋からおっことしたんでしょうが!?」
「いや、それは……その……」
彼女が言葉に詰まったのを見て取り巻きの一部が代わりに声を上げる。
「弱虫カズラが悪いんだろ! 他の男はみんなできるんだぞ!」
「そうだそうだ! 橋からの飛び込みはこの村の男なら絶対やらなきゃいけない“つーかぎれい”だって、うちの兄ちゃんも言ってたからな!」
すると彼等のその言い分にナスベリも便乗した。
「そ、そうだ! だからアタイは手伝ってやったんだ! おかげでアイツは一人前の男になれたんだぞ! 良かっただろ!」
「ふざけんな!!」
もう頂点に達していると思っていたあたしの怒りは、それを聞いて限界突破する。
「そんなのあんたら馬鹿が勝手に決めた話でしょ! くだらないことにあの子を巻き込むんじゃないわよ! 怪我までさせやがって!」
あたしとカズラは同い年だけれど、大人しくて可愛い彼は当時のあたしにとって大事な弟分だった。その弟分を傷付けられた挙句にこの物言い、到底許せるはずがない。
「それにカズラは弱虫じゃない、病弱なだけよ! 絶対あやまらせてやる!!」
「んなこたわかってらあ! ああもう、あいかわらずテメーはムカつく!! また泣かせてやんよ!!」
走って正面から間合いを詰めるあたし。それを拳を構えて迎え撃つナスベリ。その構えからてっきりパンチを繰り出してくると思った瞬間、小柄な身体がくるりと回転して蹴りを放ってきた。ガンッという音がして双方の動きが止まる。
「よし、決まった!」
「カタバミ!?」
あたしの腹にナスベリの靴がめり込んでいる。たしかに綺麗に決められてしまった。
けれど表情を変えたのは彼女の方。
「なっ……なんだ!?」
「隙あり!」
あたしはすかさずナスベリの足を両手で掴み、思いっ切り力を込めて引っ張った。ナスベリの小柄な身体がふわりと宙に浮かぶ。そして、そのまま体重差と腕力に物を言わせて投げ飛ばしてやった。
「どりゃあああああああああああああああああああっ!!」
「うわああああああああああああああああああああっ!? わっ、たっ、たらっ!?」
運動神経の良いナスベリはそれでも辛うじて足から着地したが、勢いが付き過ぎていてたたらを踏んだ。あたしはそこに追撃をかけ体当たりで地面に押し倒す。
「倒れろ!!」
「いてっ!?」
「ふん、これで魔法は使えないでしょ!」
地面に仰向けになったナスベリの両腕を膝で押さえて馬乗りになる。ナスベリは手の平で触ったものしか冷やせないはずなのだ。この体勢ならこいつの魔法も怖くない。
あたしの戦績は六戦全敗。けれど七回目でようやくこのチビを追い詰めることができた。今度こそこいつに勝てる。カズラのカタキをとることもできる。怒りと喜びが綯い交ぜになり、興奮で血が湧き立った。
「クソッ、テメー、腹になんか仕込んでるな!?」
「これのこと?」
勝ち誇った顔で上着をめくりあげる。そこには下着の上から装着した金属製コルセットが隠されていた。用途を考えれば金属の腹巻きと言うべきか。
「な、なんだそりゃ?」
「湯たんぽよ!」
そう、これこそがあたし達の用意した秘密兵器。みんなで少ないお小遣いを出し合って鍛冶屋のツゲさんに発注した腹巻き型湯たんぽである。冷やす魔法による腹部への攻撃を防ぎ、衝撃にも強い頑強な構造……らしい。ツゲさんの説明は専門用語だらけでほとんど理解できなかった。でもナスベリの蹴りを受けても実際少しへこんだだけだし、良い仕事なのは間違い無い。さすがツゲさん!
種明かしを聞いたナスベリは顔を真っ赤にして怒り出す。
「決闘にそんなの持ち込むなよ!? ずりーぞ!!」
「魔法を使うあんたが言うな!」
そうだ、今までこいつの“冷やす魔法”には散々煮え湯を飲まされてきた。こいつから受けた数々の屈辱を思えば、こんな防具くらい卑怯でもなんでもないだろう。今こそ積年の恨みを晴らす時。あたしは地面に組み伏せられ身動き一つ取れずにいる宿敵に向かって大きく拳を振り上げた。
「ああっ、逃げろナスベリ!」
「やばいやばい!」
「やっちゃえカタバミ!」
敵も味方も大騒ぎだ。とうとうナスベリが王座から陥落する。誰もがそう思った。
でも──
「カタバミ、やめて!」
──というカズラの制止の声と、なによりあたし自身の中に生じた迷いが一瞬、その拳を止めてしまった。
(綺麗な顔……)
そう思った。いつも男の子みたいな服を着ていて、長い黒髪も全然梳かさずボサボサのまま。だから普段はあまり意識しないけれど、間近で見ると驚くほど美人なのだ。母親似の端正な顔立ち。そんな顔を殴っていいものか考えてしまった。
その一瞬が命取りになった。
「光れ!!」
「っ!?」
突然あたしの目の前で閃光が炸裂する。直前に聴こえた声のおかげでナスベリが魔法を使ったことだけは理解できた。でもどうして?
(こいつ、冷やす魔法しか使えないはずじゃ!?)
今までのナスベリはそうだった。だから今もそうだと思っていた。その考えが甘かった。こちらが冷やす魔法への対策を行ったように、向こうもいつの間にか新しい魔法を覚えていたのである。目が眩み、のけぞってしまったあたしのその動きを利用して彼女は上体を跳ね上げる。
「このっ!!」
ガツンと音がしてあいつの頭とあたしの鼻が激突した。
「あがっ!?」
「今度はこっちの番だ!」
鼻血を出したあたしに馬乗りになるナスベリ。まずい、この馬鹿の両手が自由になってしまった。こちらは衝撃で脳が揺れているのに。白い冷気を放出しながら小さな手の平が迫って来て──
そして、ピタリと動きを止めた。
ただし、あたしの時とは異なる理由で。
「あっ、あ……」
「? …………げっ!?」
急に怯えた表情で固まってしまった彼女の視線を追いかけ、あたしも目を見開いて硬直する。周囲のみんなも青ざめた顔で一斉に沈黙した。いつの間にか彼等の輪の中に一人の女性が出現している。
「けんかはだめよ」
艶のある声。それでいてどこか子供っぽい舌っ足らずな抑揚で、彼女はあたし達を叱りつけた。
緩やかに波打つ長い黒髪。貴族の未亡人が着るような黒一色のドレス。そして鍔の広い三角帽子。地面から盛り上がって大きな蛇のような形状になった“影”の上で、眠たげな目をしながらうつ伏せに寝そべっているその女性の名はリンドウ。ナスベリの母親であり、度を越した悪戯好きとして村中で恐れられている魔女だった。
またの名を“影絵の魔女”。
「い、いや……」
「やばいぞ……逃げた方が……」
滅多に村外れの屋敷から出て来ない彼女がそこに出現した時点で、あたし達は次に何が起こるのかをうっすら察していた。リンドウが外出するのは決まってろくでもない何かを企んだ時だけだと村の大人達がいつも言っているからだ。
彼女はさらに目を細め、我が子を冷やかかに見つめる。
「ナスベリ……いつも言ってるでしょう、他の子と仲良くしなさいって。けんかに魔法を使うことも、けんかそのものも禁じたわよね?」
「あっ、う、その……っ」
「なに?」
「ご、ごめ……やめ……」
ナスベリが一番怯えていた。自分の母親だからこそ、彼女が何をするつもりか最も良く知っていたのだろう。
「だめよ、あなた“達”にはおしおきします」
「や、やめて! かあちゃ──」
彼女が止めるより早くリンドウの影が周囲に向かって広がり一瞬でその場にいた全員の足下を覆った。そしてドプンという水音に似た音を立て、二十人以上いた子供達を同時に飲み込んでしまう。
(!?)
影の中は本当に水中のようだった。咄嗟に息を止めたあたしの周囲でいくつもの気泡が立ち昇る。他の子供達はどんどん底へ沈んで行った。ナスベリまでも。
(ん!? んんんっ!!)
カズラが偶然近くに漂っていた。意識を失ってぐったりしている彼を掴まえたあたしは、どうにかここから出なければと気泡を追いかけて上を目指す。
その時、あたし達だけがまだ水面近くにいたからだろう、リンドウの独り言が聴こえて来た。
『なんてね……ほんとうは準備ができたから迎えにきただけなの。けんかも止められたし、一石二鳥かしら?
みんな怖がってくれるといいけれど。おばさん、この日のためにがんばって準備したんだから。たくさん楽しんでもらえるとうれしいわ……』
村の人々を過激な悪戯で悩ませ続ける魔女のその独白の声は、あたしにはやけに寂し気に聴こえた。
そういえばナスベリのお父さんは、たしか──
(んぐっ!?)
以前自分の母親から聞いた話を思い出した直後、とうとう限界を迎えたあたしは大量の水を、いや、影を飲み込んでしまった。吸い取られるように全身から力が抜け、意識が遠ざかり始める。
それでもカズラの手だけは決して離さず、あたしと彼は二人一緒に影の底へと沈降して行った。
これが後に“ココノ村のやりすぎ肝試し”と呼ばれることになる悪夢の事件の始まりであることなど、まだ誰も知らなかった。




