一章・日々の幸福(2)
「どりゃあああああああああああああああああああっ!!」
「うわああああああああああああああああああああっ!? わっ、たっ、たらっ!?」
運動神経の良いナスベリはそれでも辛うじて足から着地する。だが、勢いが付き過ぎてたたらを踏んだ。カタバミはそこへすかさず追撃をかけ、体当たりにより押し倒す。
「おりゃあっ!!」
「いてっ!?」
「ふん、これで魔法は使えないでしょ!」
地面に仰向けになったナスベリの両腕を膝で押さえ、馬乗りになった。ナスベリは手の平で触ったものしか冷やせないはずなのだ。この体勢なら冷やす魔法は怖くない。
カタバミの戦績は六戦全敗。しかし、七回目にしてついにこの小さな魔女を追い詰めることに成功した。今度こそは勝てる。カズラの仇を取れる。怒りと喜びがない交ぜになり、興奮で血が湧き立つ。
「クソッ、テメー、腹になんか仕込んでるな!?」
「これのこと?」
勝ち誇った顔で上着をめくりあげる。そこには下着の上から装着した金属製コルセットが隠されていた。用途を考えれば金属の腹巻きと言うべきか。
「な、なんだそりゃ?」
「湯たんぽよ!」
そう、これこそ彼女達の用意した秘密兵器。みんなで少ないお小遣いを出し合い鍛冶屋のツゲさんに作ってもらった腹巻き型の湯たんぽである。中に注いだ湯のおかげで温かく腹冷え対策になる上、頑強な構造なので防具としても優秀。ツゲさん曰くボウガンの矢も通さないそうだ。ボウガンの矢の威力を知らないので、いまいちピンと来ないたとえではあったが。
種明かしを聞いたナスベリは泡を飛ばしながら怒り出す。
「決闘にそんなの持ち込むなよ!? ずりーぞ、ずりー!!」
「魔法を使うあんたが言うな! それこそ武器みたいなもんでしょ!」
──そうだ、今までナスベリの“冷やす魔法”には散々煮え湯を飲まされてきた。年頃の乙女が何度決壊の危機に怯えつつトイレへ駆け込んだことか。このチビ魔女から受けた数々の屈辱を思えば、こんな防具くらい卑怯でもなんでもない。さあ今こそ積年の恨みを晴らす時。カタバミは地面に組み伏せられ身動き一つ取れずにいる宿敵に対し大きく拳を振り上げた。
「ああっ、逃げろナスベリ!」
「やばいやばい!」
「やっちゃえカタバミ!」
敵も味方も大騒ぎだ。とうとうナスベリが王座から陥落する。
誰もがそう思った。
でも──
「カタバミ、やめて!」
──カズラの制止の声と、なにより自分自身の中に生じた迷いが一瞬、その拳を止めてしまった。
(綺麗な顔)
怒りを忘れ、純粋にそう思った。いつも男の子みたいな服を着ていて、長い黒髪も全然梳かさずボサボサのまま。だから普段はあまり意識しないけれど、間近で見ると驚くほど美人なのだ。母親似の端正な顔立ち。そんな顔を殴っていいものか考えてしまった。
その一瞬が命取りになる。
「光れっ!!」
「っ!?」
突然、目の前で閃光が炸裂した。直前に聴こえた声によりナスベリが魔法を使ったことだけは理解する。でもどうして?
(こいつ、冷やす魔法しか使えないはずじゃ!?)
今までのナスベリはそうだった。だから今もそうだと思っていた。その考えが甘かった。こちらが冷やす魔法への対策を行ったように、向こうもいつの間にか新しい魔法を覚えていたのだ。目が眩み、のけぞってしまったカタバミのその動きを利用してナスベリは上体を跳ね上げる。
「このっ!!」
ガツンと音がして鼻に鈍い痛み。頭突きを喰らったらしい。
「あがっ!?」
「今度はこっちの番だ!」
鼻血を出したカタバミに馬乗りになるナスベリ。まずい、両手が自由になってしまった。こちらは衝撃で脳が揺れているのに。霞んだ視界の中、白い冷気を放出しながら小さな手の平が迫って来る。このままだと──
しかし、ナスベリもまた動きを止めた。
ただし、カタバミとは異なる理由で。
「あっ、あ……」
「げっ!?」
急に怯えた表情で固まった彼女の視線を追いかけ、カタバミも硬直する。周囲のみんなも青ざめながら一斉に沈黙してしまった。いつの間にか彼等の輪の中に一人の女性が出現している。
「けんかはだめよ」
妖艶な声色。それでいて子供っぽい舌っ足らずな抑揚。彼女は子供達をぼんやり見渡しつつ叱りつける。
緩やかに波打つ長い黒髪。貴族の未亡人が着るような黒一色のドレス。そして鍔の広い三角帽子。地面から盛り上がり大きな蛇のような形状に変化した“影”の上で、眠たげな目をしながらうつ伏せに寝そべっているその女性の名はリンドウ。ナスベリの母親であり、度を越した悪戯好きとして村中で恐れられている魔女だった。
またの名を“影絵の魔女”。
「い、いや……」
「やばいぞ……逃げた方が……」
滅多に東の森の屋敷から出て来ない彼女がそこに出現した時点で、子供達は次に何事が起こるのかをうっすら察していた。リンドウが外出するのは決まってろくでもない何かを企んだ時だけだと村の大人達がいつも言っているからだ。
彼女はさらに目を細め、我が子を冷やかかに見つめる。
「ナスベリ……いつも言ってるでしょう、他の子と仲良くしなさいって。けんかに魔法を使うことも、けんかそのものも禁じたわよね?」
「あっ、う、その……っ」
「なに?」
「ご、ごめ……やめ……」
ナスベリが一番怯えていた。自分の親だからこそ、彼女の行動を最も的確に予測出来たのだ。
「だめよ、あなた“達”には、おしおきをします」
「や、やめて! かあちゃ──」
彼女が止めるより早く、リンドウの影が周囲へ広がり、その場にいた子供全員の足下を覆った。そしてドプンという水音を立て、二十人以上いた彼等を同時に地中へ飲み込んでしまう。
(!?)
地面の中でなく、影の中。そこは本当に水中のようだった。咄嗟に息を止めたカタバミの周囲でいくつもの気泡が立ち昇る。他の子供達はどんどん底へ沈んでいった。ナスベリまでも。
(ん!? んんんっ!!)
カズラが偶然近くにいた。意識を失ってぐったりしている彼を掴み、カタバミは一刻も早くここから出なければと気泡を追いかけて泳ぐ。泡が昇っていくからには、この方向が上のはずだ。
その時、彼女達だけがまだ浅い場所にいたからだろう。リンドウの独白の声が聴こえて来た。
『なんてね……ほんとうは準備ができたから迎えにきただけなの。けんかも止められたし、一石二鳥かしら?
みんな怖がってくれるといいけれど。おばさん、この日のためにがんばって準備したんだから。たくさん驚いてもらえるとうれしいわ……』
村の大人達を過激な悪戯で悩ませ続ける魔女のその独り言は、カタバミにはやけに寂しそうに聴こえた。
そういえば、ナスベリのお父さんは、たしか──
(んぐっ!?)
以前、母から聞かされた話を思い出した直後、とうとう限界を迎えた彼女は大量の水を、いや、影を飲み込んでしまう。体から力が抜け、意識が遠ざかり始めた。
それでもカズラの手だけは決して離さず、二人は一緒に影の底へ沈む。
これが後に“ココノ村のやりすぎ肝試し”と呼ばれる悪夢の事件の始まりであることを、この時はまだ誰も知らなかった。