六章・凡人の決意(2)
「来た……」
「あの顔、やっぱりナスベリじゃ」
「子供の頃からリンドウに瓜二つだったものな……」
「髪だけかの、トリトマに似たのは。リンドウの髪は緩く波打っとったが、ナスベリのはあやつと同じでまっすぐ伸びておる」
老人達が幼い頃の彼女を思い返しているうち、再び歩き出したナスベリは騎士団の包囲の輪へ入って来た。
遮る者無く両者が相対した時、レンゲが口に手を当て、涙を流す。
「あなた、ナスベリよ……! 本当にナスベリだわ……!」
「ああ……ああ、やっこさんだ! やっぱり生きててくれたぜ、チクショウめ!」
サザンカもまた目尻に浮かんだ涙を手の平で拭う。この二人はかつてのナスベリとごく親しい友人だったのだ。
そして、彼もまた。
「ナスベリ……僕らは昨日も顔を合わせたけど、改めて言うよ。久しぶり」
「……あなたは?」
「やっぱり忘れてるんだね。僕はカズラ。君のおじいさんとおばあさんの家のすぐ近所に住んでいて、昔はよく一緒に遊んだんだ。いや、僕が遊んでもらってたんだね」
病弱なカズラは幼少期、あまり家から出してもらえなかった。そのため自然と本の虫になりベッドの上で読書ばかりしていた。
けれど、ナスベリはそんな彼をよく強引に外へ連れ出した。家にばかりこもっていたら余計健康に悪いと言って色々な場所へ案内してくれた。図鑑でしか見られなかった生物を間近で観察し、目を輝かせる彼を、横で嬉しそうに眺めていた。
彼女はけして無思慮だったわけではない。カズラに無理をさせることは絶対に無かった。体力を使う遊びには参加させず、彼が疲れたらおぶって運んだ。
まあ、一度だけ周囲からの挑発に乗せられ、彼を度胸試しに参加させ橋から突き落とす暴挙に出たことがあったものの、あれだって結局はカズラのための行動だった。
そして彼女の言う通り、だったのかどうかは定かでないが、とにかく十歳になる頃には彼の病状は大幅に改善され、普通に生活できる程度に健康的になっていた。今のカズラがあるのは、あの頃のナスベリのおかげだと言っていい。
「なんのことかわからないと思うけど、言わせてほしい。君がしてくれたことにはずっと感謝してる。ありがとうナスベリ。また会えて良かった」
彼の目尻にも涙が光っていて、言葉の後半は声が掠れていた。ナスベリに会えたことが本当に嬉しい。彼女の生存を知られただけでも、だいぶ心が軽くなった。
けれど、対するナスベリの態度は冷ややかだ。
かつての自分を知る者達が何を言おうと、今の彼女には、それはこれからの交渉を優位に進めるための手段としか思えない。両親の記憶を喚起させ、友情をちらつかせ、共感を得て何がしたい? 土地を奪うことはやめてくれと言いたいのか? それとも、より良い条件で売り渡したいのか?
残念だが親のことなど覚えていない。彼等との本当に存在したのかどうかもわからない友情だって、美しい思い出だって、この脳内には欠片一つ残されていない。
「……私は、二十年前に記憶を失くしました」
──ざわりと空気がどよめく。ナスベリの告白に驚いたのはキンシャ騎士団の兵士達だ。ココノ村の者達には明らかな事実だったようで、冷静に受け止めている。
「どこで生まれたのか、どうやって育ったのか、何故記憶を失ったのか、今の自分が本当は何歳なのか、一切知りません」
「三十四よ。あんた、あたしより二つ年下だったもの」
「そうですか」
カタバミの言葉に頷いてみせる。けれど、自分の本当の歳を知ってもやはり何の感慨も湧いてこない。
興味が無い。彼等が語る思い出と同じ。今の自分にとっては所詮他人事。
「それで……私が貴女達の知る“ナスベリ”だったとして、どうしますか? 昨日も言いましたが、社長の、森妃の魔女アイビーの決定は覆せません。情に訴えて私を説得しても無意味ですよ。仮に絆されたとして、私ではあの方の意志を変えられないのです。彼女の意志を曲げられるのは彼女自身だけですから」
「ふうん……」
カタバミの後ろで例の少女が腰に手を当て、片眉と口角を持ち上げる。
どこか挑発的な態度にも見えた。
「何か?」
「いえ、以前、似たようなことを言った人がいたもので」
「ほう……」
眼光鋭く見据えるナスベリ。村人達がたじろぐ。
「それを言った人は、どうなりました?」
「いなくなりました」
少女は、解釈によっては物騒な意味にも取れる発言をした。あえてか、それとも無自覚にか。
なんにせよ、やはりこれは挑発だ。
ナスベリは理解する。
(万が一、か……)
彼女達は戦うつもりらしい。
交渉ではなく、戦争のためにやって来た。
(あえて総出で出向いたのは、こうして私との間合いを詰めるため?)
迂闊にも乗せられてしまった。この距離・位置取りならキンシャ騎士団の援護を当てにできない。
読み通りだとするなら、すぐに仕掛けて来るだろう。ナスベリは密かにその瞬間に備え、即座に迎撃できる態勢へ移行した。
それでも念の為、もう一度問う。
「勘違いかもしれませんが、私と戦うつもりですか、お嬢さん?」
「あら、それは本当に勘違いですよ?」
顔を前に突き出し、下から睨み返す少女。口許はまだ不敵に笑っている。
なのに、その口から出て来たのは全く予想外の言葉。
「貴女の相手をするのは、私ではありません」
「えっ?」
訝ったナスベリの前へ、さらに一歩、カタバミが踏み出して来る。
「あたしよ」
そう言って腕まくりした。まるで今から殴り合わんとするかのように。
「……は?」
信じられない提案。目の前の女性からは魔力を一切感じない。ただの人間だ。一般人が魔道士相手に素手で勝負を挑むつもりとでも?
「いやいやいや」
「無理だろう」
「何を言ってるんだ、あの女」
騎士団も眉をひそめる。当然だ、魔力を持たず戦闘訓練も受けていない人間が魔道士に勝てる道理なんて無い。
彼女達が何をしたいのか、わからなくなってきた。
(あの子が堂々と姿を現した時点で、てっきり一対一の戦いを挑まれるものと……)
戦闘に持ち込む場合、向こうにとってはそれこそが最善の選択肢。魔女同士でのルールに則った決闘。他者の介入を許さず正面からぶつかり合えば技術と経験の差は小さくなる。むしろ圧倒的に強い魔力を持つ彼女の方が有利。
だが、どんな方法で戦おうと勝敗に意味が無いことはすでに語った通り。結果に依らず彼等の土地は取り上げられ、この場所に新たなココノ村が誕生する。
いい加減、理解はしているはずだ。なのにどうして? ましてや素人を自分にぶつけて来ることに何の意味がある?
「ここに来るまでの間──」
探るような目付きのナスベリに、カタバミは語り出した。どうしてこんな結論に到ったのかを正直に。
「みんなで話し合ってみたんだよね。でさ、こう決めたの。村が取り上げられたとしてもしかたない。でも、やっぱりあの土地はあたし達にとってはすごく大切で、そんな場所を何もせずに『はいそうですか』なんて言って明け渡したら後悔する。
だから戦うんだ。最後まで全力で抵抗してやる。そのせいでお金が貰えなくなったって、新しい村を用意してもらえなくなったって構うもんか。あたし達は昨夜、素直になるって決めたんだ。あんたの上司と同じだろ。あたし達の意志は、あたし達のもん。誰がなんて言ったって、この決定は覆させない」
そう語った彼女の視線が、まっすぐにナスベリを射抜く。
ああ、まただ。また胸がざわつく。
こんな目を、昔も見たことがあった気がする。
(やめろ……駄目……)
思い出してはいけない。頭の中で誰かがそう警告する。絶対に昔のことなんか思い出すべきじゃない。
けれど相手はそんなこちらの都合などお構いなし。今しがた宣言した通り、取り決めもせず勝手に戦闘に突入した。
「行くよ、ナスベリ。スズ、力を貸して」
「うん!」
スズランは今回、裏方に徹すると決めた。だから彼女がやることは一つだけ。後は全て母を始めとする大人達の頑張り次第。
「ごめんなさいナスベリさん。ちょっとずるいかもしれませんが、村の皆は魔法使いではありませんし、これくらいは許してください」
そう言った少女の全身から次の瞬間、想像を絶する膨大な魔力が放出される。ナスベリ達の視線の先で、村人達の姿が金色の光に包まれた。