四章・彼女の家(3)
──九ヶ月前、彼女はとある箱を開けた。遡ることさらに数年前、差出人不明の届け物として送られてきたそれから邪悪な気配を感じ取ったことで、何者が、どのような意図を持ってここに届けさせたのか探ろうと思い、開け方を調べ続けていたのだ。
何者の仕業かはともかく、送り主の意図はすぐに判明した。箱に仕込まれた術式を解析してみたところ、それが他者の肉体を乗っ取る恐るべき術だということがわかった。
彼女はその術式を無効化した。いや、できたと思い込んでいた。その思い込みが誤解であることに気付かぬまま、さらに調査を続け、ついに固く閉ざされていたあの蓋を開いてしまった。
(そして……“才害の魔女”になった)
記憶が定かなのはそこまで。こことは別の場所にある一部の弟子にしか存在も入り方も教えていない研究室。箱を開けた瞬間に記憶が途切れ、次にほんのわずかな時間だけ自我を取り戻せたのがこの場所だった。同じようにソファーに腰かけていて、対面にクルクマが座っていたことを辛うじて覚えている。
あの時、ロウバイは自分の意志で話をしていると思い込んでいた。けれど会話の内容は今も全く思い出せない。
クルクマから聞いた話によると、ゲッケイは開発者の自分以上に巧みに繰糸魔法を使いこなし、他者の深層意識だけを乗っ取っていたという。表層にはあえて手を付けず、深層から最低限の干渉を行う。だから自分が操られている自覚さえ持てぬまま、自らの意志で動いていると錯覚しつつ彼女の思惑通りに行動させられていた。
(ゲッケイ様……噂以上に狡猾で恐ろしい方です……)
そして、その会話の途中で再び記憶が途切れ、次に自己を認識した時にはすでに肉体を失い、亡霊となってココノ村を彷徨っていたのである。
「全ては、わたくしの不明が招いたこと。あなた達には何度謝っても謝り切れません」
「そんな、あれは才害の魔女の仕業だと聞きました。先生のせいではないでしょう。咎を受けるべきは彼女です」
才害の魔女ゲッケイの悪名は伝説となり大陸中で語り継がれている。特に、長年彼女に搾取され続けて来た大陸南部ではことさらに。
だからたしかに、全ての罪を彼女に押し付けてしまえば話は簡潔になる。聖実の魔女の二つ名が貶められることも無い。
けれど、それではいけない。
「スイレン……わたくしの罪は、わたくしが背負うべきもの。目を逸らしてはなりません。あなたもわたくしの後継となるのであれば、己の咎や責任と正面から向き合う覚悟を持ちなさい」
「先生……それなのですが、やはり私には」
ロウバイの言葉に俯いてしまう彼女。予想はしていた。ここへ来たのはそのことを話すためだろうと。
「私は、どうやったって先生の代わりにはなれません」
「スイレン……」
先日、八ヶ月ぶりに帰国した際、ロウバイは長きに渡って消息を絶っていた理由を王の前で報告した。ゲッケイの罠にかかり肉体を奪われたこと。彼女の目的のためタキア王国まで足を運んでいたこと。そしてスズランに敗れた後、アイビーに保護されオサカで回復に努めていたこと。
すでに死んでしまっているという事実は、まだ伏せたままだ。最適なタイミングを待つ必要がある。
ともかく、同行してくれたクルクマの証言のおかげもあって、王にはこれまでの経緯を理解してもらえた。その上で彼女は復帰を望む彼に対し、こう願い出たのだ。
『陛下、どうかわたくしにタキアへ移り住む許可を』
理由はもちろん、スズランとモモハル。世界を崩壊させてしまいかねない大いなる力を秘めた二人を間近で監視するため。去年スズランの心象風景を見てからホムンクルス体が完成して自由に動けるようになるまでの一冬、考えに考え抜いて出した結論がそれだった。
仮の器を得た代償に魔力は衰えてしまった。それでも自分は聖実の魔女。人々を守る役割を果たしたい。そのためには、あの二人の傍らに身を置くことが必要。ならいっそ村に移住してしまえばいい。
もちろん屋敷の子供達を置いて行くことにも、イマリでの職を放棄することにも不安や後ろめたさはある。けれど身内への情より多くの人々の安寧を優先する。ロウバイは強大な魔力を持つ身として、かくあるべきと心がけながら生きてきた。方針を変えるつもりは今後も無い。
だからこそ、ここでスイレンを甘やかすこともできない。
「しっかりなさい。理由はすでに話したはず。その上でわたくしはあなたを選び、後事を託しました。なのにそのような有様でどうするのです? あなたは“聖実の魔女”の後継なのですよ?」
タキアへの移住と同時に、この名も彼女に引き継がせるつもりだ。もう、今の自分には過ぎたる名だから。スイレン自身の知名度や実績はさほど無いものの、二代目の“聖実の魔女”と名乗れば力を貸してくれる人間は多いはず。
最初の頃は不慣れな役割に戸惑い、己の力不足を疑うこともあるだろう。けれど彼女の実力なら心配はいらない。今までに積み重ねた努力と、これからの研鑽の証として結果は必ずついて来る。やがては二つ名に恥じない魔女へ成長できる。
だがスイレンは、まだ納得いかない様子だった。
「無理なんです。どう考えても、私ごときでは先生の足元にも及びません。それに、昼のお言葉も不可解です。どうして私が彼女と……スズランさんのような幼子と戦わなければならないのです?」
たしかに、今はまだわからないだろう。わかるはずもない。
「まさか、私に自信をつけさせたいからですか?」
それもある。
「あるいは、彼女の“神子”としての資質を見極めるため……?」
もちろん、それも重要。
けれど一番の理由は……ロウバイは、あえて語らず沈黙を貫く。
やがてスイレンは、その黙秘の意図を察してくれた。
「答えは自ら掴み取れ……そういうことですか?」
「……」
一度だけ頷き返す彼女。
するとスイレンは立ち上がり、頭を下げる。
「わかりました、必ずやその期待に応えてみせます。では、今夜はこれで」
だが、ロウバイは呼び止めた。
「浴場へ行くのですか?」
「いえ、その前にもう一度鍛錬して参ります」
なんとまあ、褒めれば良いやら、呆れたら良いやら。
どこまでも、まっすぐな弟子だ。
「ほどほどにしておきなさい。彼女は、スズランさんは強敵ですよ」
ロウバイもまだ直接戦ったことは無い。それでもわかる。彼女は絶大な魔力のみならず天性の感覚まで持って生まれて来た真の天才だと。その才能は自分を大きく凌駕している。いずれは、あのゲッケイやアイビーをも超えるかもしれない。
しかし、スイレンは振り返って言った。
「私は“聖実の魔女”ロウバイの弟子です。たとえ相手が“神子”だろうと、後れを取るつもりはございません。先生の名に恥じない戦いをしてみせます」
この娘がここまで強気な発言をすることは珍しい。
ロウバイは微笑みで見送ることにした。
「おやすみなさい、スイレン。あなたの成長、見せてもらいます」
「はい、おやすみなさい先生」
ドアが閉ざされ、愛弟子の気配が遠ざかって行く。
再び一人になった部屋の中で、ロウバイは自分の額に触れる。実はこの位置に彼女の魂を封じたウィグナイトという宝石が埋まっている。仮の器と彼女の霊魂を結び付けておくための触媒だ。
そう、この体は錬金術で造られた仮初のもの。ラッパス達の努力で可能な限りの長命化措置は施されたものの、それでもあと何年保つかわからない。
奇しくもこの世界の寿命も残り数年だそうだ。
だから──
「些細な疑問であっても、思い残すことなく逝きたい。貰った時間の全てを世界のために捧げるつもりです。だから今だけは、せめて……」
たった一つ、我儘を許して欲しい。
そう考えた時、脳裏に蘇る姿。
唇が自然と言葉を紡ぎ出す。
「……殿下」
そう呟く彼女の顔には、深い悔恨の念が沁みついていた。