序章・彼女の思い出
「ロウバイ先生は、恋をしたことがある?」
──ずっと昔、そう問いかけられた。相手はまだ幼さの残る少年で季節は春間近。花々が蕾を付け始めた庭園。勉強を教える合間、息抜きとして彼を外へ連れ出した際の出来事だった。
彼女は首を横に振る。
「いいえ。今までずっと忙しく、そのような経験には恵まれませんでした」
「でも、たしか先生は父上と」
「あれは単に縁談があったというだけのお話。お父上は、わたくしの意を汲んで無かったことにしてくださいました。そのおかげで今があるわけですから、もちろん感謝は致しております。けれど、それは恋とは違う感情なのです」
──などと偉そうなことを言ってしまったものの、彼女にも恋愛感情とはどんなものか実のところわかっていなかった。知識だけならある。しかし実感が伴っていない。
そんな彼女に対し、少年は予想外の提案を投げかけてくる。
「な、なら先生。僕に繰糸魔法を使ってください」
「えっ?」
あまりに突拍子も無い発言で、驚き、立ち止まってまじまじと顔を見つめた。柔らかい黒髪。褐色の肌。知性を湛える瞳。
そう、この子は聡明なはず。ただの好奇心でこんなことを言うわけが無い。でも、だとしたらどうして? 賢者と呼ばれる彼女にも察してやれない。
あるいはという可能性なら思い浮かんだが、年齢差を考えればありえない。彼女の中の常識がそう言っている。
足を止めたロウバイは屈み込み、目線を合わせて諭した。
「殿下、あれは危険な術です。御身のような立場の方が軽々にそのようなことを仰ってはなりません。あなたはこの国の将来を背負っているのです」
「だからこそです! だから僕は伝えたい! それに僕は先生を信じています。先生なら絶対に悪いことなんてなさらないでしょう。仮に何か起きたとしても、責任は自分で取ります!」
「そんな……」
あまりにも真剣な眼差し。ずっと年下の子供相手にたじろいでしまう。
この時、ロウバイはすでに“聖実の魔女”と呼ばれていた。けれども所詮は三十を少し過ぎた程度の若輩者。自制する力が足りなかった。
彼女の繰糸魔法は他者の感情を読み取り、自身の感情を伝える。それを使って欲しいと訴える以上、彼にはおそらく言葉で伝え切れない想いがあって、そのもどかしさに苦しみ続けているのだろう。あるいはこちらの胸中を知れば、何かしら踏ん切りがつくと考えているのかもしれない。
──そんな言い訳を自らに囁き、彼女もまた好奇心に負け、けっしてやってはいけないことをしてしまった。彼の首筋に魔力糸を打ち込むという愚行を。
次の瞬間、ロウバイは三つの事を理解した。彼が彼女に伝えたかった想いと、その感情が生み出す心のうねりの力強さ。そして胸が焼き焦がされるほどの熱量の存在。
「あっ……そ、そんな……」
顔を真っ赤にして後退った彼女の右手を、彼は絶対に逃がすまいと両手で捕えた。肌に伝わる熱と相反する汗の冷たさが、今しがた読んだ感情がたしかに彼のものだったことを確信させる。
「お願いです、先生」
彼は彼女の前に跪き、見上げて、懸命に願った。
「僕が王位を継げた時、まだ先生がお独りなら、もしも僕のこの愛を受け止めて頂けるのでしたら、どうか結婚して下さい! この国の王妃になって下さい!」
──それは本当に、今は遠い、ずっと昔の出来事だった。