二章・冬の始点(1)
──彼女は貴族の娘だった。大陸南西部の小さな公国。似たような国がいくつも連なり、昔から小競り合いの絶えない地域。ただ、その国は大国の庇護下にあり、長いこと平和な時が保たれていた。
平和なだけで、腐り切ってはいたけれど。
彼女は伯爵家の三女で、当時の名はアカネ。それが本名。家はただの貴族でなく、代々強い魔力を受け継ぎ、有事の際には国の守りの要となることを期待された、そんな魔道士の家系でもあった。
実際、上の三人の兄妹のうち長兄と次女の魔力は凄かった。凄いと言っても、もちろんスズランやアイビーとは比べ物にならない。それでも並の魔法使いでは太刀打ちできない実力。魔道士団の団長を務める父はこの二人にさらに輪をかけた才能の持ち主で、公国の歴史上最高の天才と持て囃されていた。
なのに、何故か末娘の魔力は弱かった。総量と出力は並以下。回復力は及第点。総じて普通か、それよりも下の才能。名門魔道士の家系に凡才が生まれてしまった場合、扱いがどうなるかなど容易に想像できるだろう。
秀才の二人は彼女を酷くいじめた。いたぶり、蔑み、叱責を受けない程度に上手く加減しながら傷付けた。心と体の両方を。
まあ、あの二人は自分より弱い立場の人間なら誰でもいびっていたので、彼女に対する行いも、その一環でしかなかったのだが。
そして、アカネはアカネでしたたかだった。彼女は幼くして二人の害意から逃れる方法を見つけ出す。
兄には「お姉様がお兄様の悪口を言っていた」と告げ口し、姉には「お兄様がお姉様を馬鹿にした」と報告する。プライドが高く、自身以外の全ての人間を見下していた二人は、それだけで簡単にいがみ合い、敵意の矛先を互いに向けた。
コツは直接言わないこと。自分に対し同情的な使用人や教育係を選び、婉曲な物言いで、人づてに話が伝わるようにした。アカネを憐れむ彼等は兄や姉に問い詰められても、まず情報の出所を明かさない。そもそも人から人へと伝わって行くうち、誰が最初に話したかなんて事実は徐々に曖昧になっていく。
時間はかかるけれど、それは安全で確実な手段だった。兄と姉の関係はどんどん険悪になり、屋敷の中の雰囲気も比例して悪化の一途を辿ったが、アカネはそれを楽しんでさえいた。兄と姉が殺し合ってくれないかと期待して見守った。
ただ、長男と次女からの加虐が数を減らしてなお、家が居心地の悪い場所である事実は変わらなかった。どうして自分の魔力は弱い? いっそ全く力を持たずに生まれて来た方が幸せだった。何度そう考えたことか。それなら親も見切りを付けてくれたのに。エリカ姉さんみたいに。
アカネにはもう一人、姉がいた。長女のエリカだ。彼女には魔力が無かった。もちろん、理論上魔力が皆無の人間など存在しない。しかして、魔法使いになれない程度の微弱な力だった場合、無いものと同じに扱われる。
でも、そのおかげで誰も長女には期待しなかった。最初から魔道士になるための訓練を免除され、のびのびと育った。どんなに努力してもなれないものはなれない。両親に期待されていない代わり、縛られもしない。彼女が貴族の娘として背負った義務は礼儀作法と教養を身に着けること。それから政略結婚の駒としての役割。この二つだけ。
逆に末妹は努力を求められた。どれだけ重ねても足りないと言われた。ごく稀な話だが、後天的に魔力が強化されることもある。両親は彼女にそれを期待して、十にも満たない娘に過度の訓練を課した。使用人達が同情的するのも当然の話。
アカネがようやく十歳になった年、長女エリカは結婚した。それなりの器量ではあったものの特別に美人だったわけではない。けれど魔道士団の長にして伯爵でもある父と縁を結びたい人間はいくらでもいた。だから姉はその中から自分の気に入った旦那様を選んで嫁がせて貰ったのだ。
花嫁衣裳で幸せそうに笑う姉の姿を、アカネは直視できなかった。
うらやましくて、妬ましく、そんな風に考える自分を嫌悪した。家族の中で唯一自分に優しくしてくれたエリカ姉さん。なのに彼女の結婚を素直に祝してやれない。心の底では死んでしまえとさえ思っている。
そんな自分が、たまらなく嫌だった。
エリカはあの屋敷の中で暮らしながら、いつだって自由奔放。父にも母にも期待されず、だから兄にも妹にも憎まれず、末妹の葛藤など気付くことさえ無く、終始笑顔のまま成長して巣立って行った。
きっと、最期まで惨めな気持ちとは無縁だっただろう。
四年後の秋、革命が起きた。
首謀者は軍を束ねる将軍。兄や二番目の姉と同じプライドの塊。自分が属国の将であることをいつまで経っても受け容れられず、長年の従属により宗主国が油断している今こそ好機だと囁き、寝首を掻いて立場を逆転させましょうと大公に進言を重ねた。永の平和をわざわざ打ち破ろうとする狂人。
とはいえ、そんな男が軍のトップにまで上り詰められたのは、同様の不満を持つ人間が多かったからでもある。主従の主である宗主国の人間は従者の立場の属国に対し常に横柄で傲慢な態度を取る。大公ですら扱いは同じ。公国は国全体で強者に媚びへつらい、酷な仕打ちを受けても笑顔を崩さず尻尾を振り続けることで平和を享受していた。だが、嘲弄されるくらいなら戦争を選ぶという人間もたくさんいた。その数は平和な時代が長引けば長引くほどに増えていった。
大公に落ち度があるとしたら、このバランスの見極めを誤ってしまったこと。彼はまだ大丈夫だと考えた。けれど実際にはガス抜きが足りなかった。
だから革命が始まった。将軍にそそのかされ、魔道士団までもが裏切り、アカネの父は守ろうとした主と共に殺された。城はあっさり反乱軍に乗っ取られ、彼等は宗主国に対し宣戦布告。間を置かず数十年ぶりに越境して大国と戦争を始めた。わけのわからないまま巻き込まれた国民にとっては、たまったものじゃない。
彼等は用意周到に準備を進めていた。宗主国に大勢のスパイを潜り込ませ陽動のための破壊工作を決行。時を同じくして防備の手薄になった場所から攻め入り、瞬く間に複数の都市を占拠した。
さらに別の方面では他国による侵攻の手助けを行い、敵に二正面作戦を強いた。初手で予想外の痛手を被った宗主国は弱体化。当時の王は弱気な性格だったらしく、奪われた街を奪還するより王都を始めとした重要拠点の防備に重きを置くことを選び、戦いは長期化した。そのせいで大陸南西部に再び戦火が燃え広がった。
父亡き後、アカネ達は追われる身になった。公国を掌握した将軍はクーデター以前から協力していた者達の地位を保証し、残り全ての貴族を廃すると宣言。その中に彼女の家も含まれていたのだ。
姉は早々に敵へ寝返った。彼女の才能を惜しんだ将軍は、その提案を受け入れたらしい。兄は最期まで抵抗して惨たらしく殺された。その首は鳥達が肉を啄み終えるまで父の首と共に城の前の広場で晒されたと言う。
長女エリカも殺されたそうだが、殺したのは彼女の夫だった。反乱軍の側につく意志を示せと脅され革命前夜に毒殺したのだ。夕餉に遅効性の毒を盛られ、眠りながら安らかに逝ったそうだから、本人は何も知らぬまま天国へ旅立てただろう。最期まで本当にずるい人だった。