心弾むできごと
食事を済ませると再び洗面所に向かい、歯を磨いてから2階の自室からバックを取ってくる。
机の上のスマートフォンは無造作にズボンの中へと滑り込まれた。
父はいつの間にか家を出ていた。
見送りに来た母弓子に一言”行ってきます”と言って、衛はドアを閉めた。
向かう学校までは自宅から最寄りの駅までの徒歩を含めて片道およそ1時間20分。
衛は一人で行くことが大半であった。
”散歩感覚で学校に行きたい”という理由で、友人と待ち合わせて行くようなことはしてい。
ただこの日はいつもと違い、衛の心を大きく弾ませる出来事があった。
隣に住む幼馴染の羽柴結衣と偶然登校時間が重なったのだ。
駅までの道のりは、羽柴家を横切るように続いている。
正確に表すなら羽柴家から二股に道が分かれているが、ここでもう一方の道を行く必要がない。
それは遠回りに他ならないからだ。
玄関から出てくる彼女を視界の隅で捉えてから、衛の時間は脈拍とは反比例してゆっくりと流れ出していた。
―――挨拶して一緒に行くことを誘った方がいいのか?
―――それとも挨拶だけで済ませておくべきか?
―――どうしたらいいのか分からない!!??
無数に浮かんでくる選択肢に翻弄される。
羽柴結衣とは家が隣同士ということもあり、家族ぐるみの付き合いがあった。
そして2人は幼稚園、小学校、中学高そして高校までもが同じであった。
小学生の頃までは結衣と頻繁に遊んだものだ。
しかし高校では弓道部に所属している彼女と、帰宅部の衛とでは登下校の時間が重なるこれまでなかった。
それ以前に中学生になると、衛も多くの男子生徒がそうであるように、すっかり女性として意識するようにってしまい、登下校を一緒にする機会は周囲の目を気にするあまり徐々に減少していった。
自分の推測に過ぎないが、彼女もどうやら自分と距離を置きたかったに違いないと衛は考えている。
根拠はないが…
幼馴染で家が隣通しということにもなれば、噂やイジられもするものだ。
現に衛がそうであったのだから。
そんなストレスはない方がいい。
それに自分と接する彼女は中学生のある時を堺に、どこかオロオロと遠慮するようになったのだ。
――今はどうなんだろ?
―――やっぱり話しかけるのは迷惑かな?
こんなことでソワソワしている俺って気持ち悪い……
などと頭がぐるぐると回転する。
それでもかつては兄妹のように育ってきた仲なのだ。
挨拶せずに無視するのが一番変だと自らを納得させ、
”おはようと”
と彼女に声をかけた。
ニヤけて気持ち悪い顔と声になっていないか心配だった。
だから声を掛けた後の事は何も考えていなかった。
丁度玄関からこちらに歩いていた結衣は、声を掛けられたことに気付くと一瞬驚いたような表情をし
「……ッ!!?……おはよぅ」
と小さなかすれ声で門扉越しに言い、もじもじと俯き加減な様子だった。
その様子に衛は落胆した。
結衣は少し慌てた様子で門扉を後ろ手に閉めると、立ち止まっている衛に小走りで駆け寄ってくる。
なびく髪が朝日の光に美しく反射していた。
衛の近くに来た結衣を一言で表すなら”大きい”である。
身長が。
160センチ後半の衛に比べて、彼女は170センチ後半はあった。
その差は約10センチ。
衛は何を隠そう自分の背丈が低いことに強いコンプレックスを持っていた。
そのはじまりは小学6年生頃。
成長期を迎え次第に大きく成長していく周囲から取り残されるようになり、現在も見送り続けている内にすっかり醜い心が根付いてしまっていた。
そんな周囲の筆頭が他ならぬ結衣であった。
当初こそ衛も”その内追いつくから!”と声を大にして友人たちに言っていたが、中学3年になる頃には体の成長は完全に止まってしまっていた。
そんな衛の成長に気を遣ったのかそれとも別の理由があったのか、中学生になってから結衣は彼の側に近づくのを躊躇うようになった。
衛はそのことに気付いていた。
少し距離を空けるか膝を曲げるなりしてどうにか”その差”を埋めるようにしていた。
衛には分からなかった。
それが自分に遠慮しての行動なのか、逆に自分との対比で彼女自身が目立ってしまうことを嫌っての行動なのか。
このことも彼女と疎遠になる要因の1つとなった。
案の定今も結衣は衛の隣には来てもそこには一定の距離が存在した。
それでも立ち去るようなことはせず、立ち止まったままこちらの様子をうかがう結衣に衛は喜びを感じた。
「……今日は朝練の日じゃないの?」
2人で話すのも久しぶりなため何を言えば良いか分からず、当たり障りのない質問をする。
この一言も絞り出すのにも酷く勇気がいることだった。
そして思わずニヤけてしまいそうになる頬を必死で抑え込んだ。
「うん、今日は顧問の先生の都合で朝練はないんだ……」
髪を撫で付けながら質問に答える結衣の声は小さい。
その上距離も背丈も離れているため余計に聞き取り難く感じた。
肩甲骨まである長髪は前髪からセンターに分けており、俯き気味な顔の角度もあって表情の判断が難しい。
同性の友人、所属している弓道部の先輩・後輩には明るく真面目な彼女だが、異性に対しては消極的な態度をとることで校内でも有名だった。
二重の大きな目に小柄ながらも通った鼻筋、そして細い顎のライン。
弓道着を身に付ければまさに大和撫子だと学校でも評判だ。
当然そんな彼女は男女ともに人気があることは衛でも知っている。
彼女に好意を寄せる生徒の噂も沢山衛は友人から聞いていた。
小学生の頃と比べると結衣は随分大人しい性格になったと思う。
しかしそれは自分も含めて知り合い全てに言えることかと衛は思い直した。
ただ皆が羨むような彼女にもコンプレックスがあるのだろうか?と彼女の態度から衛は思った。
中学生のはじめに結衣に対してイジメのようなことがあったとはいえ、自分を含む異性に対する結衣の及び腰な態度は腑に落ちないものがあった。
今も結衣はチラチラと遠慮気味に自分を見ているがそんなに身長差のことを気に病んでいるのだろうか?
――しかしその一方で幼少の頃から一緒に過ごしてきた衛だからこそ、今ここにある結衣とのこの距離は彼女の優しさからくるものではないかとも思っている。
確信は無いが彼女はずっと背の低い自分に遠慮してくれているのだと思えてならないのだ。
そうだ勇気を出すんだ俺
「えっと、本当に久しぶりに話すし、馴れ馴れしいの困ると思うから羽柴さんって呼ぶね……」
幼馴染に対して抵抗も寂しさも感じたが衛はそう前置きし、
「ありがとう、俺の身長を気遣って距離を空けてくれてるんでしょ?でもそれなら気にしなくても大丈夫だから。よかったら一緒に登校しない?」
そう言うことができた。
中学1年生の頃までは下の名前で呼び合う仲だったものの、今では気恥ずかしさが勝ってしまっている。
嫌な顔されてたらどうしようという不安で胸はドキドキと緊張している。
衛は自然と仰ぎ見るかたちで結衣に視線を送った―――
俯き気味の彼女は頬を赤らめており、瞳は再び大きく見開かれていた。
小さな口は真一文字に引き結ばれている。
そして……
「……こちらこそ変に気を浸かってごめんね、私が隣にいても大丈夫?」
少し慌てたように話す結衣に、衛は全然問題ないよと答えた。
結衣の返事を聞くまでに酷く消耗してしまった衛は、
「俺たち幼馴染で家も隣同士なんだから、一緒に登校しても何もおかしくないよね」
と誰に当てた言い訳ともつかないことを、肩の荷を下ろすように口にする。
結衣と登校することに自分を納得させたい何かがあったのかもしれない。
もしくは彼女と親しくなりたい男子に向けた言葉かもしれない。
いずれにしても、急速に頭が回りだしごちゃごちゃと考えてしまっている時点で、それは舞い上がっていることに他ならない。
そうだよねと結衣は衛に向けて少し困ったよう笑った。
その表情は昔の彼女の印象とはほど遠いものであった。
しかしとても可愛かった。
並んで歩くうちに会話は弾み、それに比例して2人の距離は自然と近づいていった。
衛は会話に夢中になっていた。
しかしふとした瞬間、冷静な思考が頭をよぎる。
果たして俺は結衣のことをどう思っているのだろう?
ただ下校時間が重なっただけで舞い上がったらダメだ。
学校で人気の結衣とどうにかなれるとでも思っているのか?
俺は結衣と昔のように仲の良い関係に戻りたいのかな?
向こうがそれを望んでいるかも分からないのに?
やっぱり結衣は昔と変わってないってことを確認して、ただ安心したいだけなのかな?
それとも……色々と理由を付けて結局は結の外見に惹かれてるだけなのかな?
「…………」
彼女がもたらしくれる胸の内から湧く自然な喜びの合間に、答えの出ない問が気を許すと衛の心に影を落とした。
2019/8/27 一部加筆・修正を行いました。
2020/3/3一部加筆・修正いたしました。