龍ノ95話「猛毒の竜、ヒュドラ」
イシュバルデ王国、城内中庭にて。
ジークは休む間もなく戦うことを強いられる。
まともに眠ったのはいつか覚えていないが、竜を二体討伐したことで肉体の調子は良かった。
今回は人気の多い場所に堂々と竜が居座っているあたり、いささか厄介な経緯がありそうだが、ジークにそれらを追及する暇は無い。
現状を回復させる、つまりは目の前にいる竜を狩るのみである。
九つ頭、赤と紫の鱗に包まれ、手足は無く。牙には猛毒がある。ギリシャ神話にて登場した大蛇の名を冠した竜、人は猛毒の竜ヒュドラと呼んでいた。
ヘラクレスに成れとでも言われているようだ。
ジークは中庭を見渡す。ここには見事な薔薇が毎年咲いているが、今年はその面影が無い。あるのは枯れ草のみである。
この場所はアジサイが好んでいた。元々草木や動物に興味があるアジサイにとってこの中庭は数あるお気に入りの一つだと聞いていた。
それを荒らした者をジークは許すことが出来なかった。
改めてヒュドラの骨格と牙の形状を見据える。
四十メートルは超える太く長い体が首を束ねている。ジークは竜殻を展開し黒曜石のような外殻を全身に纏う。
恐る恐る足を前に出し、ジリジリと距離を詰める。
俯瞰してみれば蛇に睨まれた蛙というのが言い得て妙であるが、実際は蛇であるヒュドラ自身もジークを恐れていた。獣の本能はジークが極めて危険な者であることを察知していたのだ。
故に両者強く出ることが出来なかった。
研ぎ澄ます。
壁に囲まれ狭い中庭のジークを一目見ようと貴族やら兵士やらが集まる。いつもとは慣れない状態だ。
いつもなら周りなぞ毛ほども気にしなかったが今回はそうはいかないようだ。
野次馬共のことを気にかけてやるほどの余裕など無いのにそれを強いられるのは心底嫌気が刺したが、素行で何かとミオリアは小言を言われているらしく、彼の顔を立てるためにジークは嫌で嫌で仕方ないがやらねばならなかった。
一足でヒュドラの右側面まで飛び込むと右端の頭を両断。そのままの勢いで二つ目の頭を切り落とす。
凄まじい速度で次々とヒュドラの首を落とすが、ジークは内心で違和感を覚える。
戦いが容易過ぎる。
少なくともジークが感じ取った殺気とヒュドラの実力はこんなものではないはずだ。
何かがおかしい、だがジークは手を止めるわけにはいかず、九個の頭全てを切り落とす。
ヒュドラはその場に倒れこみ、動かない。もちろん再生する気配もない。
漠然とした不安がジークにあるがヒュドラが大人しくなったのは事実だ。
周囲から賞賛の声が聞こえる。王城の危機を救った英雄を謳う。
数分待ったがヒュドラに動きはない。
流石にここまで経てば死亡しているのは明白である。
ジークは血を振り払い鞘に大太刀を収める。竜殻を解除して体を翻す。
瞬間、ジークは首筋から肩に掛けて鋭い痛みが走る。それから心臓が急激に脈打ち始め、視界がゆがみ始める。
すぐにヒュドラの方を向くと九つ頭の下に隠れていた十個目の頭がジークに牙を立てていたのだ。
そこから、破竹の勢いで切断した頭たちが再生を始める。
ジークは謀られたと、気づく頃には全身に毒牙が突き刺さっていた。
視界が歪む。死が歩みよう音が鼓膜に張り付く。心臓は脈拍を早め破裂寸前である。恐怖と激痛がジークの思考を奪い四肢の感覚を狂わせる。
全力で体を動かし牙を振りほどくと震えた手で大太刀に手を掛ける。なんとか刃を抜くが握力どころか全身に力が入らない。
さらに先ほどから毒の影響は強くなる一方である。
ジークはふらつきながらもヒュドラの攻撃をいなす。防戦一方ではあることに変わりはない。
解毒手段はない。これは王城の医者たちに言われたことである。過去に何度かヒュドラに挑み、毒を受けた者の治療を試みたが古今東西の薬を処方したが効果はないと断言されていた。
だからジークは引いたところで意味がないことを知っていた。
だから戦うしかない。体の自由は効かないがそれでも戦う、一歩でも前に進むために。
呼吸さえままならない体、すでに疲労は限界を迎え、四肢は毒に侵され視界は歪み切っても、それでも尚、ヒュドラに挑み続ける。
その姿こそ竜狩りジークである。
その光景を見ていた者たちの網膜に焼き付けた。激しく、強く、理不尽に抗う一人の男の背中を――
そして同時にジークという男がこの境地に至るまでに一体どれだけの努力を積み上げたのだろうか。この痛みと共に竜と何度となく戦っていたのだろうか。熾烈を極める戦いの渦中に立ち、何度も打ちのめされて立ち上がるその姿は、英雄と称しても過言ではないだろう。
朦朧とする意識でジークは刀をどこに振るっているのか自分ですらよくわかっていなかった。しかし、その刃筋は一刀の無駄もなくヒュドラの攻撃を全ていなしている。
これも全てエスカマリが寝る間もなく無慈悲に急所を何度も刺し貫いたことで得た肉体の記憶が意思とは関係なく動いていたからだ。途方もない努力の中で手にすることができた確固たる技術である。それはジークに与えられたスキルよりも確かで信頼のおけるものだった。
徐々に毒に順応し始める。ジークは覚束ない意識でうっすらと大太刀の刃を熱くさせる。
無意識に龍神演舞炎ノ型を放つ準備をするが、うっすら残っている自我がそれを静止させる。ここで龍神演舞炎ノ型を使えば王城を吹き飛ばしかねないからだ。
崩壊寸前の理性で何とか踏みとどまるがジークに次の手はない。
刀身は熱気を放ったまま周囲に陽炎を見せる。
暗転――
空が白く焼けていた。
抗いの咆哮が周囲に響き渡る。
目の前にはファヴニールが鎮座している。
彼の竜はもう一度、空に白い炎を吹く。
大きな火柱は徐々に中央へと集まり、小さな炎となる。まるで炎が圧縮されているようだった。
この技もこの炎もジークが戦った時、ファヴニールは使っていない。
それが何故かはジークにはわからないが、その光景だけを心に焼き付ける。それしか今は必要でないような気がしたからだ。
ファヴニールは炎を見せると静かに消えていった。
我に返る。
ファヴニールの光景は何だったのだろうか、今のジークにはわからない、おそらく永遠わかることがないだろう。
だが、あの白い炎はファヴニールから受け取っているはずだ。
ジークは龍神演舞炎ノ型の準備をする。
熱量を上げ、刀身から炎が漏れ出す。
並行してヒュドラの猛攻をいなし続ける。
十分に熱は高まるがこれではただの龍神演舞炎ノ型でしかない。
熱を刀身の中を反射させ外に出さないように何度も何度も熱を反響させる。
漏れ出す炎は赤から青へと変わり始める。
しかし、ここで限界が訪れる。炎があふれ出し、中庭を焼き始める。
ジークは何とか自我を保ち、考える。
細く小さく炎集める。
そして小さく焼く。
ファヴニールは自身の肉体で炎を生み出した。ジークも自身の肉体で炎を生み出し、大太刀に熱をため込んでいる。刀に熱をため込むのはジークが龍神演舞炎ノ型を自身の肉体で行った際、腕が炭化するほど焼け、治癒するのに何日も要したからだ。それらはジーク自身に熱耐性がないからだ。
ジークは仮説を立てた。
あの白い炎を操るファヴニールの力を使えるジークなら炎を扱ったところで痛手にならないのではと――
肉体で炎を限界まで練り上げ、爆発させるのではなく爆縮させるようなイメージを膨らませる。
大太刀を構えなおし、炎を自身の肉体の中で練り上げ始める。
心音がまるでエンジンのシリンダーに燃料を投入するポンプのようだった。鼓動の度に体の芯が焼けるような感覚だ。ただ不思議なことに痛みはない。
血液が沸騰しそうだ、正確には本当に沸騰していたかもしれない。しばらくこの状態を続け、炎を練り上げるとジークの体は徐々に調子がよくなる。
おそらく、高温により毒の組成が変化し無毒化されたのだろう。
ジークは攻撃の手を止める。当然ヒュドラは牙を立て噛みつくが構うことはなかった。
大太刀を構え、一気に振り上げるとヒュドラに刃筋を合わせて静かに振り下ろす。
爆縮――。
炎は一瞬大きく膨れ上がるが、一気に縮小を始め局所的に温度が上がり、今まで爆風となって無駄になっていたエネルギーがヒュドラ一点に集中する。
当然ヒュドラもこれには無事で済むはずもなく外殻から灰燼となっていた。
これこそが龍神演舞炎ノ型、本来の姿であり深奥である。
技の名は――。
龍神演舞炎ノ型 究竟 破局噴火。
その刃は何者にも阻まれることのない一刀、そして全てを両断する一撃である。
無論、ヒュドラもこの一撃には成す術もなく倒れる。
刀を収めるとジークは両手を合わせ、ヒュドラを弔う。
そして、ふらふら歩きながら王城の自室へ帰る。
無毒化したとは言え、体中が酷く痛み、倦怠感と疲労が肉体を支配していた。自分の部屋に帰ろうと何とか一歩を踏みしめるが、自室のドアノブに手をかけるところでジークの意識は虚空へと消えた。
意識の深淵で、龍たちはジークを見つめていた。
だが何も言わない。その必要もない。
ジークは竜たちに向かって静かに笑い、目を閉じた。
猛毒の竜、ヒュドラ、討伐。
次回、松明の竜ニーズヘッグ
2020/06/01
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