天ノ終幕84話「鬼は神速の心音を断つ」
雷が響き渡る。そんな雨の日だった。
空が雷鳴を歌うこの頃、ジークがびしょ濡れのままミオリアの執務室に入ってきたのが事件の始まりだった。
「先輩、緊急事態です」
「はぁ!?」
「ヴェスピーア、魔獣庭園より救援術式がダチュラの元に送られました。しかも緊急度最大レベルです」
「魔獣庭園……天使か!」
「可能性は高いです」
「あのクソ共がアジサイの庭を荒らすのは気にくわねえな」
「ええ、急ぎましょう」
ミオリアは陸路で、ジークは空路でアジサイの愛した魔獣庭園に向かった。
雨が降るせいもあるがいつにも増して地面がよく滑る。この速度で転ぶとなるとミオリアも流石に痛みを無視できない。無論、数センチ肉が抉れる程度ならジークまでとは言わないが即座に回復する。
むしろジークが異常である。
ミオリアは音速の世界を更に加速させる。もはや雨粒が地面につくほどの刹那さえも置き去りにする。
そうしていくうちにミオリアの舌先はほんの僅かに塩みを捕らえる。海が近づいて来た証拠である。
魔獣庭園に到着すると既にアルラウネのアンラとグラスウルフの巨狼そらまめが怪訝な表情で待ち構えていた。
それから十分ほどしてジークが到着する。
「酷い雨ですね」
「足場も最悪だし、スピードが全然でなかった」
「さて、二人とも、来てくれたこと魔獣庭園の主として誠に感謝する」
アンラは謝辞を並べると、ため息をついてから言葉を続ける。
「話は歩きながらで」
ミオリアとジークは首を縦に振り、アンラの後ろについていく。
「さて、結論から言うと、ラインハルト、ナトライマグナ、キリクの三名はこの魔獣庭園に一度来訪している」
「大丈夫だったのか?」
「もちろん、誰一人、死者は出ていない。それどころか――」
アンラは緑の肌を震わせ、一瞬何かを言いかけたが、直ぐに口をつぐんだ。
「いや、今はいい、そして話は変わるが、アジサイの墓を魔獣庭園の岬、主様がとても気に入っていた崖があってな、そこに形式ばかりの墓を作った。無論、墓には何も入っていないが死を想うには充分だろう」
アンラは切なそうに言う。
「そういや、アジサイって引退したあとここにいたんだよな」
「寝て起きては俺にはまだやることがあると吠えてはどこかに行っていた。希少な鉱石を集めることもあれば傷だらけで帰ることもあった。詳しい話を聞いたが、内緒としか言わなかった」
「うわぁ、露骨に浮かび上がる」
ジークは半分笑いながらアンラに言葉を返す。
「さてと」
アンラとそらまめは立ち止まると、二人の方を見た。
「ここから先は二人で行くが良い」
そう行って、アンラは二人を見送った。
激しい雨の中、視界が雨のせいでよく見えなかったが、人影があるのがわかった。それは白い髪の人である。
激しい雷雨の中でさえ響き渡るほど美しい声でレクイエムを歌う人がいた。
「アジ……サイ?」
白い髪はほんの少し前まで生きていた後輩の姿を思い出させた。
「あの馬鹿は死んだらしいな」
ジークは呆然としていた。あまりの驚きにその場から何も言葉を発することができなかった。
それはミオリアも同様だった。
「嘘だろ……死んだって……」
「私もそうそう思っていた」
白い髪に、引き締まった体、露出の多い服装に男女問わず視線を吸い寄せられてしまうほどの大きな胸、そして、以前だったら両目が蒼だったが今はアメジストのような紫紺に染まっていた。
彼女の名前はスピカ・クェーサー――。
アジサイのたった一人の妻である。
「どうした? 目の色か? それとも胸のサイズが二つ上がったのが驚きか?」
冗談交じりにスピカは言う。アジサイの墓の前から、ミオリアたちの方へ歩みを進めると、右手に持っていた赤い塊を口に運ぶ。
「アジサイが喜びそうだな」
「でも死んだんだろ?」
気味の悪い咀嚼音と共にスピカは言う。彼女が食べているのは何かの肉であることがわかった。
「さぁな」
ジークは、ネックレスに視線を落とす。ミオリアは、大切なことを忘れていた事実を思い出し腕に付けたブレスレットを見る。
勿忘石は割れていないのである。
「ああ、それか、わすれなナントカとか言うやつか」
「眉唾もんだが、それでもアジサイの死体を見るまで納得はしねえ。まぁ、公には死んだと言ってるがな」
ジークは口惜しそうに答える。
「そうだな、俺も死体を見るまで諦めねえ」
ミオリアは答える。それが一縷の望みだったとしても。
「まぁ、確かに私が知る限り、ゴキブリよりも死なない男だが、さて、あいつが戻ってくる頃にお前らが生きているかっていうとそれはまた別の話だ」
薄ら予感はしていた。スピカが生き返った理由は先日のラインハルトが言っていた通り、ヴェスピーアにある女の死体に吸血鬼の血を与えた結果が今のスピカなのだろうと。
「吸血鬼……」
「らしいな、ラインハルトが言うには、十神祖っていう遙か遠い昔、スカイジアの一角を収めていた十体の神祖と呼ばれる吸血鬼がいたとかな、わかりやすく言うと神祖っていうクソ共をラインハルトはぶっ殺してその血を大事に持っていたんだと」
「そのうちの一体がスピカさんの体に……」
ジークはそう呟くとスピカは首を横に振った。
「十神祖全ての血が今私の体に宿っているらしい、この前まで体を乗っ取ろうしていたが、全員ぶっ殺して力だけ奪い取ったけどな」
豪快さは未だ健在のようだった。
「あなたらしいですね……そして今は敵、なんだよな」
スピカは首を縦に振った。
「だが、あいつの手前、魔獣庭園では人を殺さない」
「そうですが、それはよかった」
「ただ、まぁ、せっかくだ」
スピカはにやりと笑う。
「死なない程度に遊んでくれよ」
一瞬だけスピカは殺気をむき出しにする。
あまりの凄みにミオリアとジークは武器を構えてしまうほどだった。
「まぁ、掛り稽古みたいなもんだ、受けは私がやる。吸血鬼になってから体が絶好調だからな、あ、そっちは私を殺す気で来いよ、好機だからな」
煽り立てるようにスピカは笑う。
「先輩、気をつけてください、スピカさんは――」
ジークは固唾を飲んで言葉を紡ぐ。
「天才です」
「……わかった。アジサイには悪いが、ここで殺すしかない」
ミオリアは鑑識眼を使いスピカのスキルを確認する。スピカの持つスキルは十個、おそらく、神祖絡みのスキルなのはわかったが、その正体は不明のままだった。
それを恐れて、ミオリアは初手で致命の一撃を与えることにした。
第一歩から自分が出せる最速でスピカの首を狙って刃を滑らせる。
当然、普通の人間なら知覚できるスピードを余裕で超えている。雷電の如き一撃はスピカの首を落とす。
はずだった。
ミオリアの手首をスピカはしっかりと捕らえ左手で押さえる。
そして、ミオリアは次の瞬間、今まで感じたことない衝撃と共に視界が暗転する。
「あ、やべ、心臓止まった……まぁいいか」
スピカは崩れ落ちたミオリアを乱暴に持ち上げると肩の辺りに噛みつき血を一口飲み込む。
それから、先ほどミオリアにぶつけた一撃を放つ。
「鬼神演武掌型壱ノ型『弾打』――」
一見するとそれはただの平手打ちにも見えたが、繰り出された時の音と、衝撃はただの打撃とは思えないほどの一撃だった。
「かはっ、ゲホッゲホ!」
「アブねえ、危うく殺すところだった」
スピカはミオリアの止まった心臓を無理矢理たたき起こし、蘇生させた。息を吹き返したミオリアを蹴り上げて、ジークの足下まで吹き飛ばす。
「鬼に金棒とはよく言うな」
ジークは雨粒に紛れて冷や汗を垂らした。
「なぁ、これが……こんなのがイシュバルデ王国最強なのか?」
スピカは極めて呆れていた。
「クソッ! が!」
ミオリアはよろけながらも立ち上がる。
「いやぁ、ミオリア、悪かったうっかり殺しちまった。そのなんだ、あまりにも――」
スピカは肩を竦めて鼻で笑う。
「あまりも弱すぎてな」
ミオリアを見下した表情でスピカは乾いた笑いを送る。
「雑魚にもほどがある、あらゆるものが足りていない。これなら……」
スピカは唇を一瞬強張らせてから呟く。
「これならテメェが死んでアジサイが生きてる方が戦争のし甲斐があったな。話にならねえ、雑魚だよ、今まで自分の身体能力がなかったから言わなかったが、なんでこんな男をお前らは慕う? 意味がわからねえ」
「クソが!」
ミオリアは煽りに乗り、前に出ようとするが、先ほど受けた衝撃、激痛を思い出し、足を竦ませた。
その一瞬の隙を見逃さずスピカは一気に詰め寄りミオリアの右手首を掴み、引くと同時に右足でミオリアの左膝を右足の踵で砕く。
言葉で表すことさえ躊躇うほどの激痛がミオリアを襲った。
「はい、自慢の健脚もこれで終わり、どうせ回復するんだ良い経験だと思えよ」
ミオリアは当然激痛に足を抱えてスピカの言葉など耳に届くわけもなかった。
「先輩」
「おい、ジーク、なんだこいつ、判断も鈍けりゃ、半人前の駆け出し冒険者みたいに取り乱している」
スピカは首を斜めにしてしばし黙考する。
「あー、そういや、アジサイが言っていたな、異世界から来たって、そしてそのとき様々な力が与えられる。なるほどそういうことか」
乾いた笑いをこぼしながら、スピカは肩を落とした。
「スキル、加護、与えられたものだけを使って自分のやれる範囲のことしかしてこなかった。キツい鍛錬も厳しい状況で迫られ、初めて身につく冷静な判断、そして気構え……足りてねえ訳だ。そんな半端な心で、上っ面だけの覚悟で無駄に力だけはあるもんだから持ち上げられていい気になっていた差し詰めそんなところか」
スピカは蹲るミオリアの髪の毛を掴み頭を持ち上げる。
「お前ほんと雑魚だよ、お前なんかを助けたあのバカがどうしようもなく可哀想だ」
スピカは先ほど感じていた強者との戦いがこんなにも呆気なく崩れ、冷め切っていた。
「シラけた、おいジークお前はどうなんだ、さっきから一撃入れようと狙っているが一歩動けてねえぞ」
「そりゃあ……スピカさん、一撃入れたところで返しが来る未来しか見えなくてな」
「じゃあ、私から行ってやるよ」
ジークは絶句した。
瞬きも、ましてや目を離すなどという愚行もしていない、竜眼を発動し、確実にスピカの動きを追っていたが、スピカの掌はジークの目と鼻の先にあった。
竜殻を展開しながら、鼻先を掠めるほどギリギリでスピカの一撃を回避する。
「鬼神演武掌型弐ノ型『打々乱々』――」
ジークのボディに正拳突きが炸裂する。ジークは殴られた感触だけが肉体を貫通した。
一撃に思えたスピカの拳はジークに五回打ち付けられていたのだ。最初の四発で竜殻を粉砕し、最後の一手で柔らかい下腹部、膀胱を狙って鋭くそして重く速い拳を繰り出した。
「嘘だろ、まじ……」
「これで倒れないのは流石だよ、お前はそれなりに戦っているな。安心して次の技が試せる」
スピカは両手を構えて呼吸を整える。
「鬼神演武掌型参ノ型『流星』――」
獣の様な咆哮と共に踏み込み、掌底をジークに打ち付ける。踏み込みの衝撃は地表の水分を弾き、水を吸った土は波紋のように浮かび上がり、雨は掌底の向きに合わせて水滴が流れる。その衝撃と破壊力はあくまでジークから漏れ出したものでしかなく、当然ジーク自身、内臓がミキサーにでもかけられたかのようにグチャグチャに破裂している。
「なんだよこれ……」
ジークはにわかに信じることができなかった。
「第四神祖だったかな、そいつは食らった者のスキルを模倣する」
スピカはジークの肩を掴むと首筋に噛みつく。肋骨も内臓も全てが破壊され切っているジークは抵抗する余地がなかった。
スピカは突き立てた牙から滴る血液を少し舐めるとジークから離れる。
「流石に、竜の力までは無理か、だがお前もスキルを持っていたようだな」
スピカはこの短時間でミオリアの神速とジークの肉体強化スキルを手に入れたのである。
ひとつだけ幸いなのは、ジークはスキル以上に竜から受け継いだ力の方が強く、それらはスピカにコピーされていないことである。
しかし、それ以外に幸いなどはない。
膂力が無かったために芽を出すことができなかった天才が、本当に必要だったパズルのピースを手にした事実は変わりないのである。
吸血鬼、そして天使軍の総司令――。
彼女の名前はスピカ・クェーサー、アジサイの妻である。
GからJになったスピカバスト、皆さんは大きな胸の女性は好きですか?
私? 言うに及ばず!