使ノ112話「守護天使報復完了」
ミオリアはヴィストークの港町を塗りつぶすようにそびえ立つ要塞を見る。
雨が降っている。雲は厚く暗い。
「で、どうする? お前一人だ、ここで帰るなら見逃してやる」
雪原のような白い髪に白い肌、露出の多い一見すれば扇情的な娼婦にも見える。
スピカ・クェーサー。彼女の名前だ。
そして、圧倒的な強さと才能を持つ悪夢の吸血鬼である。
目の前にいるのは化け物だ。今の彼女を止められる者は果たしているのだろうか?
ミオリアは試しに短剣を構えるが、手が震えている。
体を翻し、スピカに背を向ける。
「次は警告無しで殺す」
スピカは低い声で言う。感情も無くただただ低い声だった。
ミオリアは気圧されて何も言えなかった。生物としての序列が違う。まるで蛇と蛙だ。
否、それ以上の差がある。
「アジサイ……」
今は亡き友の名を呟く。今の自分たちに足りていないとすればあの男の知恵と好奇心だ。そしてあの男はいつも決まって肝心な時にいない。
ミオリアは足を速めてヴィストーク郊外にある自陣営に戻る。いつになく足取りは重い。
帰路についても静かに自分に割り当てられたテントに籠る。
殺すことが怖くなったミオリアに対しアジサイならどうアドバイスしたのだろうか。
怯え、恐怖、死、死、死、死――。
死にたくない。
こんな思いをするくらいならどこか遠くへ逃げてしまおうか、ミオリアはあらぬ考えが脳内をぐるぐると巡らせる。
「随分、煮詰まっているな」
獣の翁がテントに入る。
「あんたか」
「いや、何、もうすぐメタトロンと戦うのだな」
「ああ、そうだ。あの拠点さえ破壊すりゃしばらく天使共も動けなくなるからな」
「そうか、それにしては、随分浮かない顔をしているな?」
「あー、いや、殺した後だから」
「大勢殺したな、それは今に始まったことじゃないし、そしてこれからも続く」
「分かってるけどよぉ」
「時間は無いぞ、割り切るしかない。と言いたいがそのもやに包まれた感覚が大事だ。それを背負って戦人は苦悩と殺しと生を行き来する」
「じゃあ、苦しくても前に行けってことか?」
「然り、戦士の生き様とは死者の屍山血河の地獄道だ」
「……あんたは苦しくないのか?」
「常に苦しい。殺したからな。時には激情に身を任せて暴力を振い、十万を超える人を殺した。その悲鳴は未だに鼓膜に張り付いて止まない。それどころかもっと強く響いている」
「……俺はどうすればいい?」
「戦え、キリクを倒せ、今はメタトロンを討て、それだけを考えろ」
獣の翁はゆっくりと立ち上がる。それから葉巻を取り出しながらテントを開き外に出る。
「なあ、スピカと戦った時、どうやって逃げたんだ?」
「そもそも会っていない。隠れんぼと同じだ」
あの獣の翁でさえスピカと真正面での戦闘を避けたという事実がミオリアを絶句させた。
誰があれに勝てるのだろうか。
仮にスピカを突破したところでメタトロンがいる。連戦は無謀だ。
「どうしたの?」
獣の翁と入れ違いでネフィリとエレインがテントに来る。
「あー、いや、スピカをどうしたらいいかなと」
「あの人かぁ……」
「あれは想像以上だ」
エレインは手帳を取り出すと目的のページを探す。
「何が書いてあるの?」
「吸血鬼、それも真祖に関わる話だ。四千年前の大戦で記載があった」
「内容は?」
「鬼神族の一派で太陽が弱点となる代わりに比類無き力を得た者、人の血液を好み罪人を処刑しその生き血を啜る化け物」
「太陽が弱点……そうか!」
ミオリアはスピカと対峙したときのことを思い出す。いずれの時も土砂降りで雲が黒くなっていたか夜である。
「無論、天使も対策済みだ。この雨もな」
「じゃあ、その天候を操る天使を倒せば良いんだな?」
「その天候を操っている天使がメタトロンなのよ」
「ネフィリ、そりゃあマジかよ」
「うん、ボクもミオリアと同じ発想になったけどここに至ったよ」
「それともう一つ悲報がある」
「聞きたくねえ」
「ミオリア、聞く義務がある」
「わーったよ」
「現在、兵として使える人間は、千人に満たない」
「……嘘だろ」
エレインは首を横に振った。声すら出すことができないほど現状は厳しい。
「対して向こうは少なくとも一万、増援が来れば際限がない」
「クソゲーにも限度があるぜ……ジークは呼べないか?」
「無理だ。ジークは西側に残っている竜の侵攻を一人で止めている」
「円卓七騎士も戦死か瀕死のため戦線離脱している。懐刀は王城を守っているルーサーとボクとミオリアとエレインの四人だけ。後はあの胡散臭い獣の翁って言う奴?」
「あの人は、大丈夫だ」
「本当?」
「ネフィリ、あれに裏切られたらもう詰みだから選択肢は信じるしかないぜ」
「ま、ミオリアの言うとおりだけどね」
「私としてはスカイジアや魔獣姫について根掘り葉掘り聞きたいところだ」
「エレインらしいや……さて、じゃあどうする?」
ミオリアの一言で場が引き締まる。
「やることは……メタトロンの殺害だ」
「だがそれには兵が」
「確かに最初は軍勢を率いて総攻撃の予定だったがそれは無理になった。だが、二人くらいを侵入させるなら可能だろう」
「二人?」
エレインとネフィリは頷く。
「これから魔術で私とネフィリの全てをミオリアにリンクさせる。これで大幅にミオリアを強化できる」
「エレインとネフィリの力を俺が使えるようになると言うこと?」
「そういうこと、じゃあ早速やろうよ」
ネフィリはミオリアを急かすように言う。
「お、おう、わかったけど随分慌てているな」
「もう時間が無いからね」
エレインもどこか焦っているようだった。
「なんか、隠してねえか?」
二人は何も言わなかった。
それから数分の静寂が過ぎた後、エレインが口を開く。
「この魔術のリスクとして、ミオリアが死ぬ時、私たちも死ぬ」
「一蓮……托生……それは――」
「ここでミオリアが死ねばどの道未来は無いの!!」
ネフィリは叫ぶ。そして泣いていた。
「チクショウ……アアッ!! こんなのって……何が……クソ! クソッ!!」
ミオリアは頭を抱えて不条理を叫ぶ。それが今更、何の役にも立つわけでも無い。ただただ自分の精神が崩れないようにするために過ぎなかった。
心のどこかにいる冷静な自分がただただそうせざるを得ないということ訴える。だがどうしても追いつかなかった。
「ミオリア……すまない」
エレインはそう言うと魔術でミオリアを眠らせた。
意識が途絶える。
ダメだ――。
ダメだダメだ――。
やめろ。やめろ。
何度も否定する言葉を叫び藻掻く。
苦しい。ミオリアは泥中の中にいる気分だった。息が出来なくて動けなくて真っ暗でゆっくりと沈む。
光に手を伸ばし、光を掴む。
目を覚ます。
さっきのは夢だろうか? 夢に決まっている。
ミオリアはそうと決めつける。
寝汗で体がぐっしょりと濡れていた。ベッドから起き上がるとタオルを次元倉庫から出して体を拭く。
そして気付く。
右腕には空色のトライバル柄の入れ墨が彫り込まれており、反対の左腕には赤色のトライバル柄の入れ墨がそれぞれ彫り込まれている。
それがエレインとネフィリであることは直感的に理解できた。
「夢じゃ……なかったか」
ミオリアは頬を叩き、気合いを入れると身支度を整え、テントから出る。
宵闇が這い寄る夕刻、拠点はもぬけの殻になっており、いるのはただ一人、獣の翁が雨に打たれていた。
「目覚めたか、他の者は王城に帰って行った」
獣の翁はスキレットを取り出し、酒を一口飲む。
「そうか、じゃあ行くか」
「了承した」
ミオリアは足早に天使たちのいる要塞の正門に立つ。
もうやるしか無い。
「ここに来るって事は分かってんだろ?」
スピカは殺気だけで十人は処理できそうなほどの剣幕だった。
「わかってる。だが相手するのは俺じゃ 無い」
その瞬間、獣の翁は前に飛び出すと正門に向って拳を叩き込む。鋼鉄で出来た正門がけたたましい炸裂音と共に外れ吹き飛ぶ。
道が出来さえすれば、ミオリアの出来ることは一つだけ。
「獣の翁、スピカを頼む!」
「老いぼれを酷使しよって全く」
「ハッ、うちの家訓じゃあ、使えるものは親でも使えだ!」
風を追い越し、音を残し、誰の目にも写ることが無い。
要塞の構造は把握出来ているため後はメタトロンの首を取るだけである。
風景は線のように細く流れていく。
焦点が僅かに合う目でメタトロンを捉えると右手に創造の短剣、左手に奇跡の短剣を構える。
そして首を落とす。
パシャン。
無慈悲な程、水が飛び散る音が良く聞こえた。
謀られた――。
ミオリアは自分が一番攻撃されたくない背後を確認するために体を翻す。それと同時に左手に持った奇跡の短剣で横に刃を振う。
メタトロンはミオリアの攻撃に反応し翼を羽ばたかせて後ろに跳ねる。
「チッ! 上手くいかねえか」
「そう易々とこの首取らせてなるものかッ!」
槍を構え直しメタトロンは呪文を唱え始める。
ミオリアはメタトロンの高速詠唱より速く、距離を詰めて右手で短剣の刃を流す。メタトロンも詠唱を続けながら槍で短剣をいなしていく。
攻撃の手を休めぬミオリアが徐々に懐へ王手をかける。
「メガーリ・ネロー」
水の直径一センチほど、長さは三十センチほどの先が細く鋭い円柱がおびただしい数展開される。
それらがまるで槍の雨のように一斉にミオリアを目指して飛ぶ。
執務室のような狭い部屋でこの水の槍が飛ぶのはミオリアにとって最悪の事態である。
だが、ミオリアは動じない。
「頼むぜ、エレイン」
水の槍が一斉に凍り付き、制御下に置かれる。
氷の槍と化したそれらはくるりと半回転してメタトロンへと収束する。
「何ッ! 貴様は魔術が使えぬはずだ! それに――守護天使であるこのメタトロンの魔力を超えるほど力を持つ魔術師はいないはずだ!」
狼狽えるメタトロンに答えることなくミオリアは短剣を突き立て、牙を剥く。
メタトロンは建物を飛び出し、逃げる。
だが、この選択は幸か不幸かメタトロンの一命を取り留めることとなった。
ミオリアは逃走するメタトロンを走って追従する。
例えこの足が千切れようとミオリアはメタトロンを追い回す。
夜が明け、日が沈み、また夜が明ける。
一週間、時間にして百六十八時間もの間、ミオリアはメタトロンを追い回し疲弊させた。
そして、ダンプトエルにメタトロンは降り立った。
寄りにもよってジークのいるダンプトエルに。
ミオリアが到着する頃には、心身共に辟易したメタトロンが命乞いをしてジークに翼を全て切り落とされていた。
ミオリアはメタトロンを拘束すると担いで移動を始める。
「命を助けて頂きありがとうございます」
「流石に、降伏した奴を殺すのはちょっとな」
「お礼では無いですが、キリク様の能力について少しお話させて頂きます」
「なぁ、そこまで従順になるのは良いが、そんなにジークが怖かったのか?」
「私の攻撃が全て意味を成さない。それだけでした」
「あー、うん、負けイベだな」
「はい……ではキリク様の能力を」
メタトロンは自分可愛さにミオリアに知りうる限りの情報を話した。
間もなく、最後の戦いの火蓋が落ちる。ということも意味している。
荒涼とした空気がイシュバルデ王国を静寂に包む。それは嵐が来る前の静けさとしか言い表せなかった。
いよいよ、皆様とお別れの時が近づいて来ました。
 




