使ノ110話「旋風報復」
怒りが収まらない。腸が煮えくりかえる気分だった。
「苛立っているな」
獣の翁は冷静に言う。
「まぁな、次はラファエルだ。ぶっ殺す」
「そうか、居場所は分かっているのか?」
「調査によればヴィストークにいる。信用出来る諜報員がいるんでな」
「なるほど、それでここに来たわけか」
廃墟ばかりの町並みから見える海を眺める。獣の翁は静かに干し肉をかじり、スキットルで酒を煽っている。
「……アジサイもあんたくらいの年ならそんな感じで飲んでたのかな」
「アジサイという男がどんな男か知らぬ」
「仲のいい後輩だ。エンドラリーブの底に落ちて行ったがな」
「エンドラリーブ……ギリレシャラスの覗き穴か」
「なんだそれ」
「魔獣姫ギリレシャラス、海の魔獣姫だ。歌が上手く魔獣姫の仲では人間に優しい分類だ」
「魔獣姫かいつか会うことになるかもな」
「そう遠くないうちに会うことになる」
「ふーん」
「……そういいえば、ギリレシャラスが覗き穴から何か来たとか言っていたがひょっとしたらそのアジサイとか言う男の死体かもしれんな、心臓が無いとか言っていたしな」
「お、マジか、この戦いが終わったらスカイジアに行ってみるか」
「この戦いが終わったら、か……」
獣の翁は含みを持たせながら言う。
「酔ってんのか?」
「酔って無きゃこんなところまで付いてこない」
「それもそうか」
「若干の死臭を除けばこの静かな海辺も悪くは無い、現役引退したら漁師でもやるとするか」
「退職金出るといいな」
「うちの上の連中は渋るのがうまくてな」
「最悪じゃねえか」
「そうでもない、と言いたい」
「あんたも中々大変だな」
獣の翁はスキットルをミオリアの方へ掲げてから口に運ぶ。
「さて、そろそろ時間か」
扉がノックされる。それから三人の女が現れる。
「お久しぶりですミオリアさん」
「アキー、ダチュラ、ヘムロック、よく無事だったな」
「ええ、まぁ、ところでそちらは?」
アキーは獣の翁を見つめる。
「助っ人みたいなもん」
ミオリアがそう答えるが、ヘムロックが獣の翁の方へ歩み寄る。
「服を全て脱いでください」
「……発情期か?」
獣の翁は冗談交じりで言う。
「ボディチェックです」
「良いだろう」
獣の翁は酔っているせいか少し声が楽しげだった。一枚一枚全ての服を脱ぐと、鍛え抜かれた肉体に全身には入れ墨が彫られている。胸には三本爪の入れ墨、右肩は甲殻類を彷彿させる入れ墨。左肩には鱗モチーフの入れ墨、そしてそれらを繋ぐように蔦の入れ墨が全身に施されていた。
「ありがとうございます。次に口の中と左目の偽装を外して下さい」
「了解した」
「知っていますか、了解って目上が目下に言うことなのですよ?」
ヘムロックはナイフを左手で構える。右手は腰の拳銃のグリップを握っている。
「なら、問題ない」
獣の翁はまず舌を出す。木の葉をモチーフとした入れ墨がある。次に左目の偽装を外すと魚の尾ひれを象った入れ墨が光彩の中にあった。
「入れ墨だらけだな」
ミオリアはしみじみ言う。
「話すと夜が明けるぞ?」
冗談交じりで獣の翁は笑う。
「勘弁してくれ」
「さて、ボディチェックはこれでいいか? 流石にこの時期に身ぐるみ剥がされては寒いのでな」
「……怪しいところは無いですが、なさ過ぎてむしろ怪しい、そもそも武器を持っていないのが一番奇妙です」
ヘムロックは獣の翁を警戒する。
「はぁ……なら私は外で散策する。その間に要件を済ませてくれ。それなら問題ないだろう?」
「ええ、是非そうして下さい」
獣の翁は窓辺に足をかけて飛び出して行った。
「何でしょう、普通の人じゃ無いですね」
アキーはボソっと呟く。
「強いっぽいんだけどなぁ」
「あの筋肉の付き方、歴戦の使い手ですね」
ヘムロックも獣の翁を怪しく思っている。
「筋肉?」
「ええ、普通の兵士は腕と足が発達しているのですがあの方は腹筋背筋に加えて脇腹、首、胸、全ての筋肉がバランス良く鍛え抜かれています。普通の鍛え方ではないですし、何より見た目から推察するに六十、七十の年齢であの肉体は異常としか……」
「ヘムロック、あの姿、多分偽装よ」
「どういうこと、ダチュラ?」
「魔術で姿を偽装している可能性もあるってことよ」
「それもそうね、アキーから見てあのおっさんはどう思う?」
「あー、うーん、どうだろう悪意のある感じじゃなかったかな、信用出来ると思うよ」
アキーの一言でダチュラとヘムロックは黙った。
「どうした?」
「アキーの人を見る目は天下一品なんです、敵スパイとかも直感でわかるので」
「直感って言うか視線と顔の筋肉の動きを見れば大体わかります」
「アジサイ仕込みか?」
「あの人は説明するけど本人がポーカーフェイス出来ない方なので」
「あいつ知ってるけど実践出来ないところあるよな」
「ええ、あとあの人、体の部位欠損し始めてからの方が強かったですし」
「えぇ……マジかよダチュラ」
「特に両目と両手失ってからは臭いと音で人間を判断出来るようになってましたね」
「化粧品とかの臭いか?」
「体臭、だそうです」
アキーは呆れながらミオリアの疑問に答える。
「あー、あいつらしい」
「隠居してからも領土散策したり自由気ままでしたよ」
「なんか、久々にあいつの話したな、さてと、そろそろ獣の翁も離れただろうし本題を頼む」
「はい、分かりました。ダチュラお願い」
ダチュラは地図を広げると、ヴィストークに作られた天使軍の拠点が描かれていた。
「敵拠点というより要塞ですね。入ったらほぼ確実に死にます」
敵要塞は上から見ると六角形となっており、三重の壁に守られ、その内側には壕がある堅牢な作りになっている。櫓も六カ所あるため空からも侵入が難しい状況だった。
「うわぁやりずれえ」
「全くです、大変でした」
ダチュラはしてやったりと鼻を高くしていた。この地図を入手するための経緯を考えれば当然である。
「まぁでもこれくらいならル俺だけでも行けそうだが」
「この要塞の中にはメタトロン、ミカエル、ガブリエル、ラファエルが現在います。そして情報によればウリエルが死亡したことでスピカという吸血鬼がここの指揮傘下に入れられたので間もなく合流すると思われます」
「無理やろ、普通に死ぬわ」
「なので、クソ天使共が出てくるタイミングを狙って一体ずつ殺すのが良いかと。いつまでも上級士官が一カ所に留まっているのもリスクがありますし」
ダチュラは事細かに守護天使たちの動向を語り出す。
「まず天使達の目的ですが、ネフィリ様の身柄を確保すること、王城の有力者たちを殺害すること、この二つです、要するにネフィリ様捕まえて、円卓七騎士と懐刀を殺すということです。そこで思いついた作戦ですが、ネフィリ様の偽情報を天使族に流します。その情報を元に守護天使を少しずつおびき出し各個撃破というのはどうでしょう?」
「ダチュラ、どうやって情報を流すんだ?」
「ミオリアさんが言うようにそこがネックとなります。考えですが、巡回の天使を生け捕りにして軽く拷問した後にわざと逃がして情報を持ち帰らせるというのはどうでしょうか?」
「初手からえげつない、アキーとヘムロックもそれでいいのか?」
二人ともほぼ同時に首を縦に振る。
「わかった。じゃあそれでいこう、適当な天使族を拉致誘拐してくるか」
「お願いします。天使兵の巡回はこの要塞を起点に五百メートル圏内ならどこにでもいます。基本的に二人一組で行動しますので出来ればどちらも生け捕りでお願いします」
「わかった、三人はそれまでどうするんだ?」
「ヘムロックとダチュラと私で獣の翁について調べようと思います」
「まぁ、怪しさ全開だもんな」
「話は以上です。それでは我々はこれで、この近くにいますので」
ダチュラがそう言うと部屋を後にした。
彼女たちが廃墟から出る頃合いに獣の翁が廃墟に戻る。
「話はついたか?」
「まぁな」
「手伝うことはあるか?」
協力的な発言にミオリアはダチュラの言葉を思い出す。この獣の翁が天使側のスパイである可能性は未だに払拭できていない。彼女の言葉を信じるならここで作戦を伝えるのは愚策である。
「いや、しばらく大きな仕事はない、天使軍の動きが判明するまでここで待ちぼうけだ」
獣の翁は目の奥を光らせた。髭面で具体的な表情は分からないが確かに今、ミオリアは心内をのぞき込まれるような感覚になった。
「ふむ……そうか……つまり暇なのだな?」
「俺は一度王城に戻って天使征伐の報告をするつもりだ」
ミオリアは嘘をつく。ここは何とか獣の翁の追跡を絶つしかない。
「承知した。頃合いが来たらまた会おう。それまでは身を潜めておこう」
獣の翁はそう言うと、窓から飛び出した。
「……スパイにしてはやけにおとなしいな、そういうもんか?」
ミオリアは小首を傾げながら廃墟のベッドに寝そべりその日は眠った。
日の出の少し前に目を覚ます。
まず、敵情をこの目で見ることには始まらない。
まだ水平線に太陽は昇らない。夜の張り詰めた空気の残滓がほのかに匂いを発する頃合いにミオリアは戦争で荒れ果てた廃墟を縫うように走る。
かつて栄華を誇っていた港は働く船の姿も無い。あるのはその歴史を上から塗りつぶすようにそびえ立つ無粋な要塞だった。
せっかくの景観がぶち壊しである。憤慨しながらミオリアは気配をできるだけ消す。
要塞はヴィストークの町の真ん中に建造されている。巡回の天使を見つけるのは容易かった。
しかし天使軍は空中を飛んでおり、上から丸見えの状態だった。ミオリアは直ぐに建物に身を潜め上からの視線を遮る。
ミオリアは対空戦闘が苦手である。空への攻撃手段が少ないということと、高所恐怖症であるということ。
特に後者は致命的なもので、数メートルの高さでさえ足がガクガクと震えてその場で動けなくなる。
そういうときはネフィリとエレインにカバーをもらい乗り越えてきたが、今それはできない。
現状ミオリアが持つ天使を撃墜させる攻撃はどれも大きな音が出てしまうため使うことができない。天使達は巡回を終えると要塞に飛んで戻る。
つまりは何か起こらなければ天使は地面に足を着かない。何かを起こしてしまうとミオリアがいた痕跡を残すという結果になる。
無線のような役割のある魔術も存在することを考えると天使の生け捕りは困難を極める。
おとなしくアキー、ダチュラ、ヘムロックの力を借りた方が良い気がした。そうと決まればミオリアが立ち上がった。瞬間、窓に天使が映り込んだ。一瞬だけ巡回の天使と目が合う。窓から姿見えないように窓の直下に即座に隠れる。
「今、誰かいたような……」
天使兵の声が聞こえる。
「どうした、何かいたか?」
二人組の天使が会話を始める。
「この中に人影のような物が見えた」
「少し見てみるか」
ミオリアは心の中で「やめろやめろやめろ」と反芻するように唱える。
だが無慈悲にも天使たちは建物に入り込む。
二人の天使が入った瞬間、ミオリアは次元倉庫から眠り薬と注射器を二本取り出す。静かに立ち上がると、一人目の天使を押さえつけ首筋に針を突き立てる。
それに気づいたもう一人の天使は、振り返った瞬間にミオリアが手で顔を覆いパニックにさせ、その隙に眠り薬を注射する。
「……意外とできるじゃねえか」
二人の天使の手足を縛り、口を塞ぐと天使の身柄を拘束する。
ミオリアは二人の天使を回収するとアキーたち三人と合流する。
「……」
アキー、ヘムロック、ダチュラはミオリアと合流するとばつが悪そうにしていた。
それもそのはずである。
何せ獣の翁が三人と一緒にいるのだから。
「ちょっと三人と話がしたい」
「席を外そう」
獣の翁は十メートルほど離れ、海を眺めながら葉巻を吸い始める。
「なんであいついるんだ?」
「尾行がばれました……」
アキーは正直に言う。
「ミスしたのか?」
「我々は万全でした……その上で……してやられました……」
ダチュラは悔しそうに言う。
「マジかよ、あいつマジで何者だよ」
「とにかく今は、あの人が仲間であることを祈るしかありません……」
ダチュラは酷く落ち込んでいた。
「まぁでも、大丈夫じゃねえか?」
ミオリアは暢気に言う。話が片付くと、獣の翁は葉巻を切り上げて話に混ざる。
「済んだか?」
「おう、ひとまず適当な建物を探すとしよう」
「ならあの肉屋が良いだろう、中も片づいているし広い部屋もある」
肉屋に入って確認するが特に不審な点は見つからない。造りとしては一階が加工場になっておりレンガ造りの床にタイルが貼られている。二階は住居となっており部屋がいくつかあった。
加工場は広く、人の視線が入らないように頑丈な扉と壁に覆われており出入りできる場所は扉と掃除の際に水や細々したゴミを洗い流しても詰まらない大きめの排水溝だけである。
特に排水溝は格子があるものの、上手くこじ開けられれば外に出ることが出来るくらい余裕のあるものだった。
加工場に眠っている天使を放り投げるとアキー、ダチュラ、ヘムロックは直ぐに天使の状態を確認する。
ダチュラがナイフを取り出すと天使兵の衣服を裂いて身ぐるみを全て剥ぎ取り全裸にする。
天使のほとんどは女性を成しているためミオリアはつい目を逸らす。
「ここまで剥ぎ取れば外部への連絡はできないでしょう」
「布の一枚でも渡しておくか?」
ミオリアは提案するがアキーが即答で否定する。
「衣服を着るのが習慣になっている者に対して、全裸というのは不安でしかありません、しかも敵に捕まった状態であれば尚更です。拷問は肉体だけに厳しい負荷を与えるのでは無く精神的に追い込んで追い込んで判断能力を無くして情報を吸い取るものです」
アキーはにっこりと微笑みながら言う。上司が上司ならこの部下も部下ということである。
「まぁ、私たちは身ぐるみ剥がされる訓練は何回もやられているので慣れっこですけどね」
それに関してはアジサイを咎めた方が良いような気がしたが、必要と言われれば必要だし、ミオリア的には裁量が難しいものだった。
どちらにせよ彼女たちの身になっているのであれば良いかと落とし込む。
「怖ええ」
ミオリアは無慈悲な彼女たちに後は任せて加工場から出て、二階へ上がる。流石にあの三人がどんな拷問をするかは想像したくない。
「はぁなんか眠い」
ミオリアは次元倉庫からベッドを取り出し横になる。
まどろみの中、瞼が重くなる。
ゆっくりと睡魔に抱かれ始めると目を閉じる。
その瞬間、悲鳴が一階から二階へと響き、ミオリアの耳を突き刺した。
何が起こったかは一瞬で理解できたが、想像したくなかった。
何とか眠ろうとするが、許しを請う悲鳴混じりの絶叫が数分おきに続く。
耳栓をつけ、何も聞かなかったことにしてミオリアは仮眠を取った。
数時間後に目を覚まして耳栓を外すと相変わらず絶叫が響く。
「目覚めたか」
獣の翁は床に座りスキットルで酒を飲む。
「あんたか」
「あの娘たち、中々おぞましいことをする……」
獣の翁も青ざめるほどの内容らしい。
「想像したくねえ」
「……」
「……」
なんとも言えない空気が二人の間に流れる。
「スパイに見えるか?」
「おう、そりゃあな」
「無理も無いか……先日述べた通り、ただの魔獣姫の使いっ走りだ。ラインハルト、キリク、ナトライマグナを殺害するのが役目だ」
「その言葉に説得力も根拠も無い」
「そうだな、体の入れ墨が証明になるのだが、そちら側でそれを理解できる者が少ないのでな、魔獣姫の知識があるもの、冠位について分かる者がいれば証明できるのだがな」
「それならいる」
「ふむ、それならその者に見て貰えば証明となる」
「ちょっとまて、それは魔獣姫の使いかどうかの証明であって俺たちの敵味方を区別できるものではないだろ」
「では、何を提示すればよい? 行動を伴うものであれば陽動を行ったであろう?」
「どうだろうな、結託しているなら簡単に俺と合流できたというのも考えられる。それにスピカさんは俺でも勝てるか分からないほど強い。それを考えると無傷で生きている方が怪しいもんだな」
「では試してみるか?」
「良いぜ、やるか」
ミオリアは啖呵を切るように言い捨て、表に出る。それからヴィストークの砂浜まで向う。
「ここまで遠ければ天使軍も問題ねえだろ?」
「そうだな」
獣の翁は五メートルほど距離を取ってミオリアと相対している。
「じゃあ、命までは取らねえから安心しろ」
ミオリアは砂に足跡を残す。
両手に握られた短剣が目に映る暇も無く獣の翁の肩を切りつける。
はずだった。
ミオリアは気が付くと空を見つめていた。
そしてミオリアを見下ろす獣の翁がいた。直ぐに起き上がり獣の翁と距離を取って短剣を構え直す。
「まだやるか?」
「ナメやがって……」
ミオリアは先の攻撃より加速を入れる。十分な助走に加え、確実に獣の翁の背後を取る。今度こそ仕留めるため短剣で背中を突く。
獣の翁は振り返ると同時にミオリアの右手を掴み、左手はミオリアの胸ぐらを掴む。それから上半身をぐるりと反転させて前に倒れ込むようにする。
見事な背負い投げをミオリアは貰う。砂浜とは言えまともな受け身も取れずに地面に激突すると呼吸が出来なくなった。
数十秒ほどその場に蹲る。獣の翁はミオリアの顔面に拳を放ち寸止めする。
「これで分かったであろう?」
獣の翁はやろうと思えばいつでもミオリアを殺すのは簡単であると証明した。
「クソが」
ミオリアは何よりもいとも簡単に、たったの一発ですら攻撃することができなかったことが何よりも悔しかった。
そして、これほどの実力があるということはあの陽動を成功させるに足り得るのも納得せざるを得なかった。
だからこそ、獣の翁がスパイである可能性が低くなったとも言えた。
「無力は罪、それではキリクには届かぬな」
「だったら……だったらお前がやれば良いだろ!」
「そうだな、出来るならそうしているが、出来ぬからお前に託しているのだ」
獣の翁は拳を握りしめ、拠点に戻るべく踵を返す。
「なんで出来ねえんだよ!」
「……呪いだ。キリクに昔してやられた。楯突けば魂が消滅する呪いだ」
振り返ることなく獣の翁は去って行った。
「だったら、俺を強くしてくれよ! チクショウ!」
獣の翁は立ち止まって「短いが天使達が脱走するまでの間、できる限りのことを伝える」とだけ行って帰った。
獣の翁はミオリアに体の使い方を丹念に押し込んだ。基礎の基礎もいいところなようにも思えたが、今まで授かったスキルにかまけて訓練を碌に積んでいないのが露呈した。
指導は厳しく徹底的に根性をたたき直す勢いだった。だが厳しいだけではなく日に日にミオリアの体はより兵士の身のこなしに近づいていった。
修行は丁度一週間続いた。
「ようやくクソ天使が脱走しました」
ダチュラは嬉々として話すが、ミオリアはあの拷問を一週間も耐えた天使の方に同情していた。
「明日にはこの辺りに調査隊が来るでしょう」
「ナイスだ」
ミオリアは彼女たちを労う。
「では、修行もここで一旦打ち切る」
「今日はやらねえのか?」
「明日に備えて体を休める方がいい」
獣の翁はそう言うと二階へ上がった。
「私たちも準備します」
ミオリアも特にやることは無いので二階に上がる。
しばらくしてミオリアと獣の翁のいる部屋に荷物を背負って来る。
「随分大荷物だな」
「衣服に食料、武器に弾薬……色々と必要なので」
アキーはそう言いながら荷物を下ろすと布を敷き得物のライフルをオーバーホールし始める。ダチュラとヘムロックも同様である。
獣の翁はぼんやりと外を眺めている。
「獣の翁さん」
アキーが声を掛ける。
「なんだ?」
「どうして尾行に気付いたのですか?」
「同じ道を二回通った」
獣の翁は静かに言う。
「あー!」
ヘムロックは堪らず声を上げる。
「どういうこと?」
アキーがヘムロックに聞く。
「足跡よ、例えば、同じ道を通った時に、一回目と二回目で足跡の量が変わっていたら怪しいでしょ、それにこの辺りは廃墟ばかりで人はいない。天使達は空を飛んでいるから足跡が付かないのよ」
「「あー……」」
二人は簡単なミスに気付いて意気消沈していた。
「だが尾行の腕はなかなかだった。普通なら気付けない」
獣の翁は髭面の下で笑う。
「じゃあ、気付かないでください」
ヘムロックは自分に呆れながらぼやく。
「相手が悪かったな」
「なぁ、俺からも聞いていいか?」
「なんだ?」
「魔獣姫って強大な力を持っているんだろ、それこそ神みたいな」
「然り」
獣の翁はミオリアの質問に即答する。
「じゃあ、死者を蘇らせる方法、あったりするか?」
「限られた条件でなら存在する」
「というと?」
「魔獣姫の試練というものがある。それを全て超えることで命の権利を受けることができる。これを使うことで一度だけ死人の魂を呼び戻せる。それを魔獣姫に頼んで入れ物を作って貰うことで蘇生することが出来る」
「なるほど」
「ただし、魔獣姫の試練は想像を絶する苦痛と恐怖が伴う。最も自分が苦手とすることに立ち向かい超越する覚悟と鋼の精神が必要だ。生半可な覚悟では最後まで試練を終えることは出来ない」
「今までその試練をクリアした奴は?」
「挑戦できた者は十人、全てをクリアしたのは二人だ」
「少ないな」
「十人の中にはラインハルトも含まれる」
「待ってくれ、あのラインハルトでさえクリアできないのか?」
獣の翁は頷く。
ミオリアは一縷の希望に縋るつもりで聞いたがその過程を聞いて絶望するしかなかった。
「全てではないが、その試練を受けることはできる。わしは腐っても魔獣姫の使い、試練を受けさせるかどうかの裁量権を持っている。そう慌てずともここでの戦いが終われば魔獣姫に会わせる」
「試練を受けさせてくれるのか?」
「無論だ。少なくとも一つは乗り越えて貰う」
「やってやる」
アジサイが蘇ればこの絶望的な状況に繋がる一手になる。ミオリアはこのチャンスを逃す訳にはいかなかった。
「そう来なくてはつまらぬ」
獣の翁はそう言って立ち上がるとアキーの方へ歩み寄る。
「その銃、誰が作った?」
「えっと、そこのダチュラが」
「私ですが」
「良く出来ている。弾丸を見せてくれ」
「企業秘密です」
「そうか、残念だ……」
獣の翁は邪険にされると、すんなりと諦めて窓近くに戻ると床に寝そべり眠りについた。
他のメンバーも日頃の疲れが溜まっていたのかやることを終えると眠り始めた。
翌朝、ただならぬ気配を感じ取りミオリア達は目を覚ました。天使達の魔力が近づいていることを察知すると、それぞれが動き出す。
ヘムロックが偵察から戻ると作戦会議が始まった。
「守護天使ラファエルが十人の兵を連れて向っております。まず、今我々がいる場所までおびき寄せてから私たちと獣の翁さんで天使軍を抑えます、その間にミオリアさんはラファエルをお願いします」
「わかった」
ミオリアは頷く。
「わしは何をすればいい?」
「獣の翁さんは私と来て下さい」
ダチュラの指示に獣の翁は頷く。
「それではご武運を」
アキーの言葉で会議は終了し各々が動き始める。
ミオリアは準備運動を始め、心を落ち着かせる。
『ダチュラです。私の狙撃が合図でミオリアさんはラファエルをお願いします』
『ミオリアだ。了解』
無線術式でミオリアは全員と意思疎通を取る。
天使たちが降り立つ。
『ダチュラです。撃ちます』
勝負は一瞬、首を取る。
それ以外のミスはミオリアに許されない。万が一失敗すれば誰かが死ぬだろう。
まずダチュラの狙撃が火を噴く。ライフル弾が天使を貫いた瞬間、ミオリアは廃墟の街の大通りを疾走する。
風を縫い、音を置き去りにするが如く、ミオリアの体は前へ前へと加速する。
狙撃され、意表を突かれたラファエルをミオリアは捉える。右手の短剣がラファエルの首に滑り込む。
空中にラファエルの首が舞う――。
ラファエルの死亡と同時にアキーがポイントマンとなってヘムロックと制圧射撃を行い、一瞬で残りの天使兵を掃討する。
『アキーです。作戦成功しました』
『ヘムロックです。こちらも無傷です』
『ダチュラです。問題発生、天使兵の増援が二体……ミカエルとガブリエルです! 天使が向ってきてます。早急に撤退をお願いしま――』
炸裂音がした。
ミオリアは恐る恐る音の方を視線で辿ると、ダチュラがいた狙撃ポイントが爆炎を挙げていた。
体を翻して、アキーとヘムロックを肩で抱きかかえると、ミオリアはパッツァーナまで一気に走り、追っ手を巻いた。
焦燥、絶望、怯え、恐怖、消失、色々な物が脳内を駆け巡る。
今はただ、逃げるしかなかった。
ダチュラは目を覚ます。視界がぼやけている。やけに赤黒い物が見える。
走馬灯が過ぎる。ぼんやりと自分の体を見ると腹に深々と木片が突き刺さっていた。
最悪なことに木片は肝臓を見事に貫通していた。
「ああ、私、死んじゃうんだ」
掠れた声で呟く。治癒魔術でもこの怪我は治せないことはダチュラでもよく分かった。
壊れた屋根から青空が広がる。
人影が見えた。
懐かしい命の恩人、アジサイの姿だ。
あの白い髪はきっとあの人に違いないとダチュラは都合良く解釈した。
アジサイと解釈した男は木片を引き抜くとダチュラの傷口を手で塞いだ。
「アジサイさん……ありが……とうござい……ます…あの…日……救って……て」
ダチュラの意識はそこで途絶えた。
その顔はそこが戦地であることを忘れてしまいそうなほど穏やかで静かだった。
ダチュラは目を覚ます。
「目覚めたか」
「獣の翁さん」
「まったく、世話が掛かるな」
しわがれた声でゆっくりと葉巻の煙を吐き捨てる。
「さっきアジサイさんに会った気がしたんです。走馬灯かな……」
「そいつは死んでいるのだろう?」
「そう、ですね」
「過去に囚われるな、残された者たちでしか前に進めない」
獣の翁はゆっくりと立ち上がる。
「あと、あの状態からどうやってここまで完璧な回復魔術……それもできないはずですよね?」
「と言うと?」
「回復や治癒の魔術を使えば魔力を感知されてしまいます。かと言って天使が去るまで待っていれば出血多量で死亡します」
「かもしれんな、世の中には奇妙なことは多い、さてそろそろ動くか」
「話を逸らさないでくだ―― あ、ちょっと!」
ダチュラはバックパックを背負い、ライフルを手に取って獣の翁を追いかける。
ふと、ライフルへ視線を落とす。銃身は折れ曲がっており瓦礫が当たったせいか至る所が傷だらけだ。ただ肩にあてがうストック部分はまるで新品のように綺麗だった。
それに自分の服を見ても血の一滴も着いていないし穴も空いていない。先ほどの怪我が幻影だったかのようだ。
「どうした?」
「……何でも無いです」
使い物にならないライフルを放り捨てるとダチュラは獣の翁に着いていった。
「良いのかライフルを捨てて」
「あれじゃあただの重りにしかならないので」
「そうか」
「ところで獣の翁さん」
「どうした?」
ダチュラは獣の翁の前に立つと肩に着いた埃を払う。それからゆっくりと胸襟の辺りに手をかけた瞬間、隠し持っていたナイフで左手の甲を浅く削ぐように切りつける。
「おっと」
「…………」
「何をする?」
「すみません、皮膚が呪われていたので」
ダチュラはムスッとした表情で言う。
「年頃の女はよくわからん、嫁の貰い手あるといいな」
獣の翁はダチュラの奇行を静かに笑った。