「彼女は、自らを選んでやって来たのです」 3
それはさながら鬼ごっこのようだったが、アリスにとっては命がけだった。
ハートの女王の城の中を走り回り、アリスは息が切れ、肩は上下に動いていた。
再び森に戻って妙な扉を開き、ハートの女王の城の庭に出たまではよかった。薔薇庭園を過ぎようというとき、ハートの女王がそこにいてアリスを呼び止めた。
かと思うと、急に刃物を出し、
「貴様など殺してくれるわぁあああっっ!!!」
と叫んで襲い掛かってきたのだ。
アリスはわけがわからずに城の中へ逃げた。
とても広い城内である。廊下という廊下には赤い絨毯が敷かれており、壁には窓でもないのにカーテンがかかっている。まあ、これは飾りみたいなものなのだろう。その証拠に、カーテンは半ばで同じ柄布によってくくられていた。
アリスはそのカーテンの裏にいた。気の休まらない現状に息が整わない。
つい先ほどハートの女王が走りながら目の前の廊下を過ぎていったのを見た。そろそろ場所を移さないと見付かってしまうかもしれない。かといって闇雲に動いたら、それこそ鉢合わせしてもおかしくない。動くに動けない。しかし動かなくてもいずれは見付かる。
アリスはカーテンを盾にしつつ、おそるおそる廊下を見た。耳をそば立てる。
足音は床に絨毯が敷かれてあるせいもあって、しない。感じ取れそうにないが、感じた限り彼女の気配はしない。それにしても給仕のひとりやふたりいてもおかしくないだろうに、まったく見かけなかった。この城には、ハートの女王以外に住んでいるひとがいなのだろうか?
腹を決めて、アリスはカーテンの裏から飛び出た。
とりあえず一階に行って外に出なければと思い、階段を探す。いったいあのときどうして城の中になど入ってしまったのか、アリスは自分に苛々した。自分から虫取り網に飛び込むようなものだと理解したのはつい先ほどのことで、アリスはそんな絶望の中をヒールで走り回っていた。特に走りにくいとは思わないのが不思議だった。
下への階段を見付けて近寄ったとき、赤と黒と白のドレスが目に入る。恐怖でこころが凍り付いた。すぐさま上への階段を駆け上った。その足音でハートの女王がアリスに気付く。
「まああああてえええええええええっっっ!!!」
もはや美しさの欠片もない表情で追い駆けてくるハートの女王をうしろに、アリスは階段を上りに上った。息などしていられない。上へ行く階段がなくなったとき、どうやらそこが最上階らしいのだが、アリスはすぐ左手の廊下へ駆けた。
足が重い。肺が苦しい。腕が上がらない。
ほどなくして、大きな扉が目の前に立ちはだかった。金で不思議な模様の描かれたその扉は、天井いっぱいまであり、開けるのに容易ではなさそうに感じた。が、よく見ると、その扉の下のほうに通常サイズほどの扉があり、見せかけであることがわかった。
アリスは慌ててその通常サイズの扉の取っ手を捻ったが、案の定開かなかった。こうしている間にもハートの女王は刻一刻と近付いてくるというのに、扉はわずかに揺れるだけで施錠が解かれる気配がない。
ダンッと絨毯を踏む音。アリスは焦りで定まらない視線のまま振り返った。
ハートの女王がいた。黒い刃物を握り締めて、十歩先に立っている。
しかし予想外なことに、顔色が悪かった。
「っ貴様ぁ、その扉から離れよっ!」
息切れ以上に、ハートの女王の気分を害するものがあるようだ。アリスは首を横に振った。離れたらそのまま彼女に首を刎ねられるのがオチだ。そんなことには絶対になりたくない。例えこれが夢であったとしても、痛いと感じることに変わりはないからだ。
痛みだけは、自分を離れない。
「離れよとゆっているであろうっ!」
ハートの女王はさらに叫ぶ。アリスは怒号の威圧感に身をすくませた。扉の取っ手から手が離れなかった。
どうする。このままでいても、いずれは殺される。この、扉の向こうの部屋に逃げない限り、どうしたって窮地を脱することなどできない。
取っ手を握っていた手に、鍵が開いたような、わずかな振動が伝わった。アリスは全身の力を手にこめて取っ手を捻った。先ほどまで回らなかったところまで取っ手は回り、扉が内開きに開いた。アリスは部屋の中へ体を滑り込ませた。扉を閉め、すぐさま鍵をかけた。
直後、扉がものすごい勢いで叩かれる。
「貴様ぁぁああああっっっ!! 開けよ! 開けねば貴様の首を捥ぎ取ってくれる! 開けよ開けよっ!! この部屋に入って、生きて帰れると思うでないぞぉぉおおおおっっっ!!!」
扉は何度も乱暴に叩かれる。アリスは後ずさりし、扉から離れた。絨毯に躓いて、しりもちをついた。
随分と質素な部屋だった。調度品はすべて剥ぎ取られたように一切なく、あるといえば部屋の左側に大きな天蓋付きのベッドがあるくらいで、あとはせいぜい見苦しくない程度に部屋を存在させていた。天蓋の薄いカーテンは閉じられていた。
アリスは扉からもっと離れようと、反対側にある窓のほうへと近付いていった。そのとき、ベッドの上に人影があることに気が付いた。よもやひとがいるとは思わず、アリスは叫んでしまったが、喉が渇いてはりついていたため声が出なかった。
しばらくどうしようかと迷っていたが、好奇心には勝てず、アリスはそっとベッドに近付いていく。間違いない。確かにひとがベッドの上に仰向けで眠っている。
天蓋のカーテンをゆっくりとどけて、中を見た。
白い礼服のような衣装を着た男が、横たわっていた。目蓋はぴくりとも動かず、金の髪は薄暗いベッドの中でも清らかな光を放っていた。合わされた手は一切離れることを許さないように固く握られ、その下の胸や腹は上下に動いていなかった。まるで死んでいるかのようだ。
……本当に死んでいるのかもしれない。
そう思うと肝が冷えて、こめかみあたりが汗ばんだ。アリスはとんでもないものを見てしまったと、後悔した。しかしそう思っておきながら、その整った顔立ちに見入ってもいた。張りのある顔を見る限り、到底死人とは思えない。
男の組まれた、白い手袋をはめた手に、アリスは眉間にしわを寄せながら、右手の人差し指を近付けていった。
つんと触ってすぐに手を引っ込める。
特に反応がなかったので、アリスはもう一度、今度は手のひら全体で男の手に触れてみた。
「まさか本当にいるとは……」
溜め息がてらの声に、アリスは慌ててベッドから離れ、振り向いた。
その声は開け放たれた窓の向こうからした。ベランダになっているそこに、誰かがいた。
アリスは身構えた。
「おまえ、ハートの女王に追い駆けられているらしいが、本当にそうなのか?」
窓から入ってきたその影の正体は、背中に鳥のような翼を生やした青年だった。
「早くこたえろ。いろいろ面倒なんだよ」
アリスはことばが出てこなかったので、頷いて見せた。直感で、目の前の怪しい青年をハートの女王よりは信用できると判断した。依然として扉は荒々しく叩かれ、わけのわからない叫び声が聞こえる。
「……そうか」
後悔しきった様子で、青年は頭を掻いた。紅い髪が乱れる。
「……まあ、いいだろう。だがこれだけは言っておく。俺はおまえを絶対に認めないからな。来い!」
ベランダへ出ろと顎で指図され、アリスはイラッとしつつ従った。彼にはライオンのような太い尻尾も生えていた。あれではたかれたら痛そうである。
言われるままベランダに出ると、青年はベランダの手すりに立った。そして手を差し出してくる。掴め、ということなのだろう。その丈夫そうな翼で大空を羽ばたき、城から脱出するらしいが、青年からはなんの説明もない。
しかし、ベランダに出て気付いたのだが、地上までかなりの高さがある場所で、ひょっとするとこの高さから飛び降りろと言っているのと同じなのでは? とアリスは思った。
血の気が引いていく。
それまでの緊張が頂点に達したのか、アリスは急に体から力が抜けてその場に座り込んでしまった。
「なにしてる。俺にこれ以上の手間をかけさせるつもりか?」
「でも、私、君に会ったことないし、なにも頼んでもないし」
「おまえに頼まれても誰がやってやるか。俺はほかのやつに頼まれたんだ。おまえじゃない。しかしおまえを助けろと頼まれたからには、助けないわけにもいかないからここにいるんだよ。アリスに頼まれたとなればまた別だが、あの老いぼれのこと。俺が助けなかったと知ればなにをしてくるか……」
「私、君のこと知らないけど、頼んだら助けてくれるの?」
「俺を知らない? ……やっぱまがいものか。まあ、おまえに頼まれても絶対動かないけどな。まったく、無駄な話をさせるな、バカが」
ぽかんと頭を叩かれた。
「いっったぁ……っ」
「そんなに言うのなら、肩に担いでいくぞ」
思いの外痛かった頭をさすりながら、アリスはその脅しの内容を想像した。もし肩に担がれたら、結局は地上に降りるまでずっと下を見つづけなければならない。
この高さをずっと? 耐えられない!
アリスは青ざめて、青年の右手を強く掴んだ。随分と筋肉質な腕だった。
「それでいい」
半ば怒ったままの表情で、青年はその場で一度翼を強く羽ばたかせた。次には、アリスと青年の体はすでに空中にあった。ことばにならない悲鳴を上げ、アリスは意識を保っているのがやっとだった。
どうしてだろうか。
先ほどまで、そう、チェシャ・ネコに会ったくらいのときは、こんなふうにこわさを感じたり、それほど驚いたりもしなかったはずだ。それなのに、ようやくこころが還ってきたように感情が湧く。
ハートの女王に黒い刃物を向けられた、というもやもやとしたイメージ。
やはりあの光景は、実際にあったものだったのだろうか。
そう思えば確かにあったことのように思えたし、かといってどうかと考えると、夢の中の出来事にも思えた。
確かなのは、そのときのことを考えると恐怖が湧いてくることだけだった。
真下の風景は、ハートの女王の庭を過ぎて森へと変わった。森はそれほど大きくはなかった。実際その中へ入ったときの感じよう、あと数歩で出られそうなのに出られず、遥か向こうのように見えるのに目的地が数歩先にあったときのあの感じようとは、かけ離れて見えた。迷い込んだ人間のこころを映しだす鏡なのかもしれない。
高度が徐々に下がっていく。どうやら森の中に降りるらしい。ふと森の中に、キノコが群生している地帯があった。途方もない大きさのキノコだ。
そのキノコ地帯の中が目的地らしく、ゆっくりと地上に降りていった。飛び立つ前とは裏腹に、アリスの足が地面に着いてから青年は手を離した。そのあと彼も包帯の巻かれた足で地面に立った。
「おい、老いぼれ。連れてきてやったぞ。感謝しろ」
青年はその中の一際大きなキノコに向かって言った。その上に、足を組んで座っている人物がいた。深く暗い緑色のスレンダーなドレスを着た、いい塩梅のご婦人だった。顔にはハリが失われて久しく、歳はとてもいっているようだ。スリットの入ったドレスゆえ、組んだ足は痩せた太ももまで見えている。
「やあ、ようこそ、お嬢ちゃん」
ハスキーな声でこたえ、婦人は不敵に微笑む。
「私はね、青虫ってんだ。ここらで隠居している身だ。毎日の日課は水タバコを吸うことと、瞑想。なにをするにも体が重くてね。あんたの助けに、そこのほれ、グリフォン坊やをやったのさ。坊やは身軽だからねぇ」
「黙れ、老いぼれ。俺をバカにするな。気色悪いものを着やがって、反吐が出る。おまえにはプライドってものがないらしいな。青虫だからってなにをしてもいいわけじゃないぞ」
グリフォンが唸り、口から牙を覗かせた。
ふーっと煙を吐いた青虫は微笑んだまま、グリフォンを無視してアリスを見た。
「あんたが、アリスだね?」
アリスは頷いた。
「そうかい。それはまた大変なもんを背負っちまったね。望んだこととは思うが」
「俺はこいつがアリスだと認めないぞ」
グリフォンは話に割って入る。
「アリスはもっと可憐で愛らしい娘だった。こいつはそれのどこも備えてない。アリスはひとりしかいない。こいつはアリスじゃない」
「それでも」
青虫はうんざりしたように頭を振った。
「それでもこの子はアリスだよ。いろんなもんを忘れてはいるが、私にはアリスにしか見えない。あんたも、そう見えてるんだろ?」
グリフォンは悔しそうに押し黙る。
「さて、アリス」
紫の瞳がアリスに向く。
「あんたは、一応はハートの女王の手から逃れたことになる。私たちにできるのはここまで。あんたこれから、どうしたい? なにがしたい? そろそろなにか行動を起こしてもいい頃なんだがね」
「こいつは俺を知らないと言った。噂では自分がアリスであったことも忘れていると聞く。そんなやつがなにかできるとは思えないな」
グリフォンは近くのキノコに座り、腕を組んだ。
「一応欠けている場所だからね。偶然にしろ必然にしろ、それが補われたのは当然のことだろう。あんたと議論している暇はないんだがね」
「それはこっちのセリフだ」
「なら黙っておいで。私はアリスと話してるんだ。ねぇ、アリス」
「え、あ、はい」
近くのキノコを観察していたアリスは青虫に向き直った。青虫はにんまりと笑った。
「さあ、アリス。これからどうするんだい?」
アリスは地面を見詰めた。
危険から脱したことは事実だった。ここにはハートの女王はいない。善人であろう人物がふたりいるだけである。
キノコの胞子が風に吹かれてあたりを埋め尽くした。
「私、なにをしたらいいのか、わからない。私は望んでここに来たわけじゃないのに、どうしてもなにかをしなければいけないの?」
「ああ。……それが、ここに来た者の運命なのさ。あんたには、アリスの運命がある。私には青虫の運命がある。それだけのことだが、まっとうするのは難しい。それでもやらなければならないんだよ。誰に求められたわけでもないのにね」
青虫は溜め息をついた。しわのある顔が、憂いに沈む。
「……私、帽子屋たちのところに戻るよ」
アリスが考え付けたのはそれだけだった。
「そうかい。じゃあ、気を付けるんだよ。困ったことがあったら、私のところに来るんだよ。いいね」
「はい」
釈然としない気持ちのまま、返事をする。
「おい」
グリフォンがぶっきら棒に言った。
「俺は絶対におまえを認めないからな。おまえなんて、所詮はまがいものだ。おまえはアリスじゃない。よく覚えとけ」
「それは……難しいと思う」
アリスはついそう返してしまった。言うんじゃなかったと思った。
「なんだと?」
グリフォンは当然噛み付いた。
「だって……なんでもない」
言い返す気力もないアリスは、すぐ先の不毛な言い争いを打ち止めにした。
「なんでもないとはなんだ! はっきり物も言えないのか!」
「……」
アリスは黙って、彼のことばを受け流した。
こんな、自分が誰であったかも覚えていないような自分が、アリスであることを否定されてなにを感じるというのだろうか。感じないのだから、覚えておけというほうが難しかった。しかしそんなことを言ったら、きっとグリフォンはもっと怒るだろう。それだけはわかった。
だから、なにも言わないことにした。