「彼女は、自らを選んでやって来たのです」 2
「ヤマネー、三月ウサギが来たのは、アリスが初めてここに来たあとだよなー?」
帽子屋がもう一度訊ねると、ヤマネは眠たそうに頷いた。
「その通り、デス」
言い終わる前に、余程眠たいのか頭がカクンと項垂れた。頭がそのまま取れてしまいそうだった。
「四月ウサギはお城からやって来まシタ。でもお金は持っていませんでシタ。ハートの女王様から追い出されたからデス。だから帽子屋は、レストランを営んでいるのデス。帽子屋なのに、おかしな話ダネ。だからあんまりイカれてないのかモネ」
キキキと笑いながら、眠さで頭が傾いていくヤマネ。
「……おーい、アリスー? 起きてるかー?」
「?」
アリスはハッとした。慌てて周りを見渡して、それから目の前で、白い手袋をはめた手を振っている、黒いシルクハットを被った青年を見た。
「どうした、ぼおっとして。ヤマネを見て眠くなったか?」
帽子屋は怪訝そうに眉をひそめた。
「え、と、……?」
あれ? と、帽子屋のそれがうつったかのように、アリスも眉をひそめた。
「で、さっきの話のつづきだけど、三月ウサギはハートの女王の娘なんだ」
帽子屋が補足説明をした。
「ああ、そうなの? というか、どうしてハートの女王様に追い出されたの? 母親なんでしょう?」
アリスは三月ウサギを見た。三月ウサギは慌てたように帽子屋のうしろに隠れた。恥ずかしいらしい。三月ウサギはちいさい声でこたえた。
「そうだけど、そうじゃないの」
「? どういうこと?」
「確かにハートの女王が母親だけど、違うってことさ」
帽子屋はこともなげに言う。アリスはわけがわからない。
アリスはこんがらがった頭を抱えながら、目の前のピザに気が付いて、お腹がぐうと鳴った。急いで食べはじめた。
そうだけど違う、だなんて、どこかの少年も言っていたことだ。
アリス以外はおもむろに席に座って紅茶を飲んでいた。良い香りだ。嗅いだことがある。キッチンのどこかにあった、紅茶の缶の中身と同じ香りだ。
はて、どこに置いてあったかな。
アリスがピザを食べ終わって紅茶に口をつけたとき、帽子屋がつと唸りながら言った。
「そういえばアリス。あんたはもうすこし髪の色が濃かった気がするんだが、色でも落ちたのか?」
アリスは首を傾げた。
「私は最初からこの色の髪をしていたけど」
「どれくらいの『最初』?」
帽子屋は訊ねつづける。
「どれくらい? 最初っていくつもあるものなの? ああ、でも確かに……」
アリスはひとり納得する。
「私がここに来て草むらで気が付いたときからだと思うけど……」
「ふーん。それより前は?」
「前?」
正直、そんな質問をされるのに驚いていたが、その問いにこたえるためのものがアリスの中にはなかった。
「そう。ここに来る前。この世界って言ったほうがいいか」
帽子屋は手首だけを上下に何度も動かして、何度もアリスを指差した。
「覚えて、ない」
アリスに言えることはそれだけだった。アリス自身、過去だの記憶だの、それほど気にならなかった。いま自分を成り立たせているものが、この世界に来たときから、あるいは『いま』からできているせいかもしれない。
彼女には、彼女自身もわかっていたが、なにもなかった。
帽子屋は仕方なさそうに溜め息をつく。
「それに、目も、そんな色をしてなかったはず……だと思うんだけどなぁ」
帽子屋はテーブルに肘をつき、掌に顎を置いた。ますます混乱しているようだ。前にウサギ耳の少年が言ったことと同じように、『自分を忘れたアリスなど前代未聞』と思っているのだろう。
「私の目はどんな色をしているの? 自分じゃ見えないから」
アリスがいくらぐりぐりと眼球を動かしても、一向に瞳が見えるわけでもなく、かといって眼球を取り出すわけにもいかない。鏡もなかったので、手っ取り早く訊いた。
「緑、だけど、青もちょっと入ってるかな。それにおかしいな。俺があげたリボンもしてないし」
帽子屋はむうと唸る。どうやら帽子だけでなくリボンも扱っているらしい。いまはレストランを営んでいるようだが、まだそれらは残っているようだ。アリスは話を流すように、紅茶を一口飲んだ。
「ちょっと待ってろ」
帽子屋はむすーっとしながら店の中へと入っていった。三月ウサギも黙って彼についていく。庭の席には、アリスと眠っているヤマネだけになった。
アリスは椅子の背にもたれて、ふうと息をついた。
髪の色か。
物心ついた頃からこんな色をしていたものだから、色落ちしたのかなんて言われたときは正直呆れた。なんとこたえたらいいのか困る。ふつうは年を取りでもしない限り色なんて落ちないだろうに、帽子屋はなんとも豊かな発想を持った御仁である。
失礼だとは思わなかったが、誰かと間違えているんじゃないだろうか?
そうだ、きっとそうに違いない。
「キミも大変ですね。アリスに選ばれて。いや、アリスを自分から選んだも同然でしたかね、確か」
急に声がして心臓が飛び出るかと思った。首を巡らすが、この場にはヤマネしかいない。
「こんにちは、アリス。自らを選びし者」
薄っすらと目を開けたそのヤマネが、こちらを見て微笑んだ。
「しゃべった!?」
先ほどもしゃべっているところを見たというのに、アリスは思わず声を上げた。
「ワタシは喋りますよ。なんてったって口がありますし、折角ある口に申し訳がありませんから。口がなければ申し訳もできないわけですが」
ヤマネはくつくつと笑った。まるで、うまいことを言ったと言わんばかりの。
アリスはようやく次のことばを吐き出した。
「驚いた。ちゃんと話せるなら最初からそうしなよ。みんなの前にいるときも」
心臓に悪いことは事実だ。
「残念ながらそれはできません。ワタシは終始眠たそうにしていなければなりませんし、口を開けば二、三のデタラメしか出ないことになっているのです。フリをするのは大変ですが、騙すのはこの上ない愉快と緊張を味わえる娯楽。手放すのは惜しい」
ヤマネは澄ましたように目を伏せて、口元を袖で隠した。所作がとてもなめらかで、柔らかかった。
「つまり、みんなの前では演じてるってこと? どうして?」
「楽しいから、と言いたいところですが、そういうわけではありません。演じているのは、ワタシに課せられた役目であるから」
そう言っているヤマネは、先ほどまでの『寝ても寝足りない』というような様子は露ほどに見せなかった。澄ましているが、呆れているような眼差しでアリスを見ていた。
「じゃあどうして私の前では演じないの? 信頼されるほどの仲になったとは思えないもの」
アリスはその眼差しがこわかった。自分以上に、自分のことを見透かされている気持ちになった。底を、見られている気がした。
「もちろん演じていますよ。アリスの前でのヤマネを、ね。信頼などというものはこの世界では皆無に等しい」
「わけがわからない」
アリスは思わずつぶやく。するとヤマネは薄く笑った。
「キミもそのわけがわからないものに支配されているのですよ。まったく悲しいことですけれど。いや、楽しいことかな?」
「君はいったいなんなの? 誰なの?」
「ワタシはヤマネ。それ以上でもそれ以下でもありません。ワタシが、あるいはキミたちがそう認識している限り、ワタシはヤマネで在りつづける」
「お願い、やめて。わけがわからなすぎる。寝ててよ、さっきみたいに。ずっと寝ててよ」
アリスは俯いていたが、目は見開いていた。手に力が入る。
「前にも同じようなことを言われた気がします。しかし、嘘は真実になり、事実に至る。範囲を超えた言動も、慣習になれば新しい決まりごとになる。これからあなたの身の上に起こることを思うと、こころが痛みます。なにせ死んでしまうのですから」
ヤマネは手の出ない袖を胸に添えて、ほんのすこしだけ寂しそうにしながら首を振った。
「……死ぬ? お、脅しているの?」
「いいえ。我々にとっての事実です。あなたにとっての嘘。あなたは死ななければならない。我々のルールに則って、アリスはハートの女王に首を刎ねられなければならないのです。一番古く新しいルールに則って」
「や、やめてっ! そんなことを言うために君がおかしくなったのなら、もうしゃべらないで! わからないものはわからないの!」
アリスは頭を抱えて叫んだ。
真実? 嘘? ルール?
わからない。ヤマネがなにを言っているのか。
それ以前に、どうしてこんなにも彼のことばを聞きたくないのだろうか。
まるで足元を泥で固められていくような、そんな錯覚を覚える。
「ワタシがアリスの前にいる限り、それはできません。このことを言うためだけに口を開いたのは事実ですが、それはヤマネの役には無い事柄。有益な情報をアリスに伝えるために、ワタシは危険を冒しているのです」
「いや、聞きたくない! もうなにも言わないで! 誰か来てっ! お願い……っ」
これ以上、余計なことを知りたくない。
「どうしたー?」
帽子屋と三月ウサギが慌てた様子で駆け付けた。目に涙を浮かべているアリスを見て、一歩後ずさった。
「なに、どうしたんだよ? なんかこわいことでもあったか?」
「ヤッ、ヤマ、ネがぁ……っ」
アリスはつっかえながらどうにかことばにして、ヤマネのほうを指差した。
「ヤマネ?」
帽子屋が目を向けると、そこには頭をぐらぐらさせて眠っているヤマネしかいなかった。アリスは愕然とした。
「眠ってるじゃないか。なんかデタラメなことでも言われたのか? こわがるほどのデタラメなんてあったかな?」
帽子屋は顎に手を当てて唸った。
「ちが、違うのっ。さっきまでヤマネは」
「まーまー、気にすんなって。ヤマネはああいうやつだから、気にせずに聞き流したほうがいい。ほれ」
と帽子屋は手を差し出した。黒いリボンがその掌にあった。
「これでもつけて、元気だしな」
アリスは目元を拭ったあと、まだしゃっくりがつづいていたが、黙ってリボンを受け取った。しかし、いったいどこにつけようかとしばらく悩み、一応髪を結んで、そこにあとからつけようとしたが、なかなかうまくいかない。いつも自分では髪を結ったことがなかったし、リボンも自分ではつけたことがなかった。
「あーもう、見てられん。三月ウサギ、くしと鏡」
「はーい」
帽子屋が三月ウサギに頼み、彼女は家の中へと入っていった。帽子屋は指示したあと、アリスの座っている椅子のうしろに立った。とても苛々している。
「ほら、それ貸せ」
「……はい」
アリスは観念してリボンを渡した。
「ったく、このくらいできるだろう」
戻って来た三月ウサギがくしを渡した。アリスは、帽子屋にされるがままに髪をとかされた。やがて、ふつうに結ぶのもつまらないと思ったのか、帽子屋はアリスの髪を右側に集めて、サイドテールにした。とても手馴れている。やはり帽子を扱っているだけに、被る頭のほうにも気を遣うのかもしれない。その割に彼の髪の毛はぼさぼさだが。
そしてそのサイドテールにするために使った髪ゴムの上から黒いリボンを結んだ。キュッと音がして、完成の合図となった。
「はい、終わり」
と帽子屋は手鏡を渡した。アリスは自分の綺麗に整った髪型を見て、おおっと感動した。そして改めて鏡に映った自分を見る。
初めて自分の顔を見た気がした。
「俺にはこんなことしかできないが、まあ、ヤマネのことは許してやってくれ。たぶん、悪気はないと思うし」
帽子屋は溜め息をついて席に戻る。
「かわいいなぁ、アリス。髪が長くて羨ましいなぁ」
三月ウサギがひょっと顔を出した。キラキラとした目があった。
「あたし短いから、髪型、変えられなくて」
ひょこひょこと茶色のウサギ耳が動く。割と速い。
「そんなことないよ。ちょっと重いし」
髪のほぼすべてが右に寄っているから。
帽子屋がショックを受けたように項垂れた。彼としては、褒めてもらいたかったようだ。
と背後に気配を感じて、アリスは振り返った。しゃっくりはいつの間にか止まっていた。
「……アリス」
戸惑った声で、ウサギ耳の少年がそこにいた。
「申し訳ありません、アリス。ぼく自身の名を名乗ることを忘れていたなんて、お恥ずかしいです」
「白ウサギ、でしょう?」
アリスはさらりとこたえた。アリス自身、あれ? と思った。
「そうです、その通り。って、アリス、まさか思い出してくれたんですか? ご自分のことも?」
「それはまだ……」
白ウサギは途端にガックリとして、しかしすぐに頭を上げた。
「いえ、すみません。取り乱してしまいましたね。アリスがご自分やこの世界のことを忘れたのは、きっとなにか大きなことがあって、そのショックで忘れてしまったのでしょう。焦ることはありません」
白ウサギは何度も頷いた。
「それでアリス、その、ぼくがこちらに伺ったのはほかでもありません。あなたを迎えに来たのです」
白ウサギは恭しく一礼した。
アリスは一瞬躊躇った。あるはずのない記憶が、経験が、行ってはいけないと警告していた。それでも、アリスはなにかに促されるように立ち上がった。
「わかった。……行く」
手が、震えていた。