「彼女は自分を忘れていました」 4
またしても森へ入り進んでいくと、先ほどは見なかった巨大な木が見えてきた。そしてその胴体部分には不自然なものが付いていた。
扉だ。
赤いペンキで塗られたその木の扉を白ウサギが開き、アリスにその中へ入るよう促した。入るとも言えたし、出たとも言えた。
扉の向こう側には、広くて美しい庭園が広がっていた。白の調度品が無造作に芝の上に置かれ、女神や壷の形をしていた。刈り込まれた低木が毬藻のようにそこにあった。すこし首を巡らすと、円形の噴水が見え、そのまた向こうに大きな城が見えた。それは途方もなく大きく見えた。
アリスが見慣れぬ周囲を窺っていると、白ウサギが歩きはじめた。
「ここはどこなの?」
「ハートの女王様の庭です」
陰気にこたえる白ウサギの様子は、ふつうにしているアリスがのん気に見えるほどだった。
ほどなくして赤い薔薇の咲く場所を横切ると、数人のゆったりとした歌声が聞こえた。
♪ 彼女の瞳は優しい青色
とても青いから、空にも海にもなれた
澄んだ瞳に、愛しいひとを映して、輝いていたよ
とても青いから、深く深く沈んでいった
女王様の瞳は鋭い赤色
ざっくざっくと斬り倒し、目に映った色をうつしたよ
きれいだね、きれいだね
いまはなにも映らない
きっとまた、彼女が殺されるよ
彼女が死ぬまでつづいていくよ
生垣の隙間からちらりと声の主たちを見たとき、その声の調子とは違って、その者たちの動きは実に大雑把で急いでいるようだった。どうやら白い薔薇を赤いペンキで塗っているらしい。体はなんだか薄っぺらい画用紙のようで不思議な模様が描かれており、手足は針金のように細かった。
薔薇庭園を過ぎたあと、城の横を通るとき、かすかに悲鳴が聞こえたが、アリスは鳥が鳴いているのと同じように感じて、気にしなかった。白ウサギも気にせずに足を動かした。
城の影に入ったときふと右手側を見ると、遠くになにかが均等に並べられていた。見たところそれは石で、長方形の石が地面に立っていた。地面にもそれと同じものが上辺だけを出して、地面に立っている石と対になるように置かれていた。地面に鏡を置いたら、きっとそんなふうに見えるのだろう。
相当の数があった。縦に四、横に十はあるだろうか。
「あれはお墓です。アリス」
ふと立ち止まった白ウサギが言った。
「随分と物騒なところで、呻き声やら喚き声やら、奇妙な声が絶えませんし、ぼうっと青い火の玉が浮いていたり、人影がいくつも見えたりして、それはもう気味が悪いので見ないほうがいいですよ。……って、あれ? いまはなんにも……浮いてないですね。聞こえもしないし……見えない。なにかあったのかな? あれー?」
白ウサギは首を傾げ、目を細めながら墓場のほうを見ていた。
「……」
アリスは、その墓場を見ていると妙な気分になった。なんとも言えないような罪悪感と優越感を覚えたのだ。自分がその墓の目の前に立っているところを何故か想像してしまい、アリスは目を背けた。白ウサギはアリスを見たあと、もう一度墓場を見て、それからようやくその場を離れた。
城の周りを半周し、また日の当たる場所に出た。そこは、城から見て裏側、裏庭に当たるところだった。表の庭よりもいくぶんか質素で、低木は中心の広場の周りを取り囲むように植えられていた。
その広場に、白い鉄のテーブルと椅子があり、ふたつ人影があった。そのうちのひとつが立ち上がり、アリスに声をかけた。
「よく来た、客人。待ち侘びていたところだ」
赤、白、黒の艶やかなドレスを着た、端麗な女性だった。黒い髪は長く、赤い瞳はガーネットの射るような美しさを放っていた。
「どうした? なにを突っ立っておる。こちらへ来るがよい」
「えっと……」
誰だろうかと訊ねようとしたとき、白ウサギが耳打ちした。
「この方がハートの女王様です、アリス」
「……ごきげんよう、女王様」
アリスはうろ覚えの動作で、ハートの女王に挨拶した。確か、いつぞやのパーティでこんなふうにするのだと教えられた気がした。
「はようこちらへ。待ちくたびれて、そなたの紅茶が冷めてしまったぞ」
円形のテーブルの席にはほかに、ちいさな少女が座っていた。青い髪を髪留めで束ねた少女は、アリスを見てにこりと笑いかけた。仕種は大人そのものだった。
「公爵夫人だ。妾と先ほどから茶をたしなんでおったのだ。そなたも席に着くがよい。すぐにもあったまろう」
なにがあったまるのかまでは言わなかったが、おそらく目の前の紅茶の替えでも出てくるのだろう。アリスは白く塗られた、ひんやりとする鉄の椅子に座った。重たくて、動かすのに一苦労だったが、白ウサギが手伝ってくれた。
「それでは」
白ウサギは一礼して、低い階段を上がり、城の中へと消えていった。
「さてアリス。白ウサギから聞いたのだが、そなた、自分がわからぬらしいな」
いつの間にか置かれたチェス盤の駒をいじりながら、ハートの女王は訊ねた。ハートの女王の右隣にいる公爵夫人の顔が、強張った気がした。
アリスは素直に頷いた。
「わかりません。私自身、アリスであることを忘れていたので」
「なんと!」
ハートの女王は大袈裟に驚いた。
「それは実に重大な問題であるぞ。自分を忘れるとはつまり、相手すらも忘れるということ。相手を忘れるということは、世界を忘れることだ。そうなればすべてが崩れていく。妾たちが長年を費やして作ってきたものが、そなたの存在で狂ってしまうわけだ。……そなた自身は、それほど困ってはいないようだがな」
ハートの女王はくくっと嫌みっぽく笑った。アリスは確かにそうだと思った。
「のう、公爵夫人。妾の言った通り、実に由々しき事態であろう?」
「……そうですわね、ハートの女王様」
どう見ても十歳前後に見える少女は、平然と紅茶を飲んで、ハートの女王の問いかけを受け止めた。ハートの女王はすこし眉を上げた。
「ほう。妾はそなたが一番そのことについて憤慨するかと思っていたが……ふむ。それもまた面白い。しかしな、不変を盲信するそなたを誰が好き好んで賛同すると思うか? まあ、この世界がなんであれ、妾は常に面白ければそれで良いのだ。アリスは常に変化をもたらす存在。故に、それまでの掟は常に作り変えられるためにある。しかしだ。……ふむ」
ハートの女王はひとり納得顔で頷いていたが、飽きたのか、その話はそこで打ち切ってしまった。アリスはわけがわからず、話はアリスの頭をすり抜けて行った。
「よし、良い話をしてやろう、アリス」
名を呼ばれて、アリスはようやくハートの女王を見た。
彼女は嬉しそうに笑っていた。
「あるところに娘がいた。娘はあるとき不思議な世界に迷い込み、現実であって現実でない、夢であって夢でないその世界を見て回った。娘はいつしかその世界を気に入り、帰ることを惜しんだ。だがその世界には世界を統べる者がおり、その者に許しを請わなければならなかった。しかしどのような場合であっても、掟を狂わせる存在が存在してはならぬ世界。娘がその世界に存在することは許されなかったのだ」
「かの娘の名は、アリス」
公爵夫人が口を挟んだ。
「アリスはすべての存在を許されませんでした。骨を除いては」
そしてひとくち紅茶を飲む。アリスに向けた視線に、憎悪が宿っていた。
「わたくしたちが〈見えない決まりごと〉を、かのお方を無視して歪ませてはならないのです。御覧になったでしょう。あの墓場を」
アリスはハッと目を見開いた。
「喜べ、アリス。そなたもまた、そこに並ぶのだ」
四枚の花弁をあしらったような黒い刃物を持って、ハートの女王は下劣な笑みを浮かべていた。
視界が、見えなくなった。