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「彼女は自分を忘れていました」 3

 適当に歩いていたら、本当に二手の道に行き着いた。二手の道の真ん中には木が立っていて、枝に看板がぶら下がっていた。


 右 レストラン・クラウン

 左 三月ウサギの家


 はて。

 チェシャ・ネコの話では、右は帽子屋というひとの家だったはずだが、レストランと書いてある。レストランというからには、なにか食べ物でも出てくるのだろうか。そういえばなにかが食べたい気もする。

 アリスは右の道に進んだ。しばらく経って森を抜けると、広場に長いテーブルがどんと置いてあった。種類のまちまちな椅子がいくつも置いてある。いったい何人家族の食卓なのだろうかと思ったが、レストランだということを思い出した。パーティ用の席だろうか。身内だけの結婚式が行えそうだ。

 アリスは誰も席に着いていなかったので、すこし様子を見ることにした。もしかしたら定休日かもしれない。ほかにお客さんはいないのだろうかとあたりを見渡した。

「アリスだあ!」

 うしろから抱き付かれた。相手はぴょんぴょん跳ねて、すぐにアリスの正面に立った。

「アリス、アリス、アリス! 本物だよね?! 本物のアリスだよね?! うわあ、会えちゃった。うれしいなあ」

 相手は元気な少女だった。水色の、海軍の制服もどきを着て、アリスに輝ききった眼差しを送っている。頭に茶色のウサギ耳を生やしていなければ、どこにでもいるような子だった。年下のように見受けられる。

「私がアリスって、どうしてわかったの?」

 アリスは訊ねた。会うひとの皆が、自分を知ったふうな口振りで話しかけるものだから、自分に相手の記憶がないのはどうしてなのか、アリスはすこしだけ気になっていた。別に困ることがなければ気にすることもないのだが、相手がこちらを知っているのだ。その相手に合わせるために『彼らと知り合いらしい』という記憶を思い出さないと、会話をするときになにかと面倒であることには気付いていたアリスであった。

「わかるよ、そんなこと。だってアリスはアリスだもん。絶対に間違えたりしないよ」

 少女はニコニコ笑いながら、アリスの手を握った。

「ずっと会いたかったんだあ、アリスに。パパからね、聞いてたから」

「あの、君は私に会ったことがないの? そんなような口振りだけど」

「うん」

 少女は大きく頷いた。

「でも、一目でわかったよ。アリスだって。あ、帽子屋ぁ! ねぇ見て見てぇ! 誰が来たと思う?」

 愛らしい笑顔の少女は手を大きく振りながら、家から出てきた青年を呼んだ。黒く長い、ぼさぼさの髪の青年はアリスたちに気付くと、手袋をつけた手を上げて見せた。黒のシルクハットがとても重そうに頭に乗っかっている。

 アリスは顔をしかめた。『帽子屋』とは確かチェシャ・ネコが言っていた名前だ。アリスはその名前に自分の中のなにかが反応したことに、疑問を持った。その青年が近付いてくるのと比例して、ドン、ドンと背中を強く叩かれるみたいに心臓が鳴った。冷や汗がこめかみに浮かび、足の下にサソリか蛇が蠢いているような、焦りに似た感情が湧き上がった。

 ……のだが。

「よう、アリス。元気だったか?」

 朗らかに声をかけられたアリスは、バケツの水を勢いよく浴びせられたかのように、青年に対して唐突な愛しさを覚えた。それまで湧いていた感情は流されるように隅に追いやられたが、同時に、自分が持つには不可思議すぎるその愛しさに、気持ち悪さも覚えた。相手の顔を見てもちっとも見覚えがなく、しかし相手は初対面とは思えない反応を返してくる。

 この差はなんだ?

「おうおう。俺を知らないって顔してるな。なんだ、頭でも打ったのか?」

 呆れた黒髪の青年は近付き、アリスを覗き込む。

 アリスは帽子屋をじっと見詰めながら、考えた。でもやはりわからない。

「頭は打ってないし、君のことは最初からわからない。顔も見たことない。けれど、君がすきっていうことは確かみたい。どうしてかわからないけど」

 アリスは感じたままにこたえた。

 帽子屋は先ほどのアリスと同じように顔をしかめた。おおよそ、すきだと告白された者の反応とは程遠い気がしたが、アリスもアリスで、自分も同じようなものかと勝手に納得していた。

「そーかぁ。そりゃまた難儀だな。あんたが俺を知らないのにすきっつわれても、変な感じだし。俺はあんたのことわかるけど。じゃあ三月ウサギは? ヤマネは? あいつらはどうだ?」

 アリスは首を横に振った。

「誰のことを言ってるのかすら……」

「そーかぁ……」

 青年はそう呟き、眉間にしわを寄せた。しかし二、三度頷いて言った。

「まあ、いいか。本来なら初対面のはずだし、困ることでもないだろ。俺は帽子屋だ。レストランを開いてる。なんなら飯、食ってけよ」

 帽子屋はアリスに、我が物顔で庭に存在するテーブルの席に座るよう促した。アリスは適当に椅子を選び、それに座った。ホテルのラウンジに置かれていそうな籐の椅子に、白いクッションの置かれたものだった。

「いま作ってたのはこれだけでな。ま、これで我慢してくれ」

 エプロンすらつけることなく、帽子屋は大きな木板を運んできた。そしてアリスの目の前に木板を置く。ピザだった。切り分けるためのピザカッターも乗っている。チーズの部分が、今し方まで焼かれていたことを示すように膨れてぴくぴくと動いていた。

 帽子屋がピザを切り分けようとしたとき、動きが一瞬止まった。

「ピザをどけてっ!」

 すかさず叫び声が聞こえた。

 アリスはわけがわからなかったが、咄嗟にピザの乗った木板を引いた。

「ぐぼぉはあっ……っ」

 まるでトマトジュースを吐くかのように、帽子屋の口から血が溢れ出た。

 アリスは、絶句した。

 もちろん吐血したことにだが、皿を引っ込めなければピザが被害に遭ったであろうことも考えていた。

「くはっ……っ。う~~っ、我ながら困った体になったもんだなぁ。面倒臭いったらない」

 吐血したというのにのん気な調子で、帽子屋は口元を手で拭った。どうやら日常的にあることらしい。アリスは呆然として、彼を見上げることしかできない。

「だいじょぶ? 帽子屋」

 先ほどアリスに抱き付いてきた少女が、心配そうな顔付きで帽子屋に駆け寄った。頭に生えた茶色のウサギ耳がしおれている。

「んー、気にすんなって。いつものことだ」

「でも……やっぱり無理してるんだよ。ヤマネの上にあたしまで面倒見てるから……。ヤマネも言ってた……帽子屋が血を吐きはじめたのは、あたしが来てからだって」

 少女はまるで、自分が不幸の元凶とばかりに話し、眉間に力を入れて必死に泣くことを我慢していた。泣き虫なのかもしれない。帽子屋はなだめるように少女の頭に手を置いていた。

「あの、ふたりは、ずっと一緒じゃなかったの?」

 アリスはぶしつけながら話に割って入った。

「俺とヤマネはずっと一緒に暮らしてたけど、三月ウサギはあとからだ。どれくらい前だったかな……アリスが初めてこの世界に来た、そのあとだった気がするけど。だよなー? ヤマネ」

 帽子屋は三月ウサギの頭に手を置きながら、いくつも並ぶ席の真ん中あたりに話しかけた。

 まさか椅子の名前か?

 とアリスが疑い出した頃、テーブルの下から椅子の上へ、ひとりの少年が這い上がった。これまた頭に茶色の丸い耳を生やしている。というより、耳と思っていいのかすらわからなくなってきたアリスは、その少年をまじまじと見た。

 少年は眠たそうにこちらへ顔を向けた。

「ヤマネー、三月ウサギが来たのは、アリスが初めてここに来たあとだよなー?」

 帽子屋がもう一度訊ねると、ヤマネは頷いた。

「その通り、デス。四月ウサギは、アリスが消えたあとに来まシタ」

 言い終わる前に、よほど眠たいのか頭がカクンと項垂れた。よくあの状態で話せるものだ。

「四月ウサギはお城からやって来まシタ。でもお金は持っていませんでシタ。ハートの女王様に追い出されたからデス。だから帽子屋は、レストランを営んでいるのデス。帽子屋なのに、おかしな話ダネ。はちみつでも売れば良いノニ。そうしたら、ボクたちは一生雲の上でまどろんでいられるのニネ」

 キキキと笑いながら、眠さで頭が傾いていくヤマネ。半分開いた瞳の、その空ろなこと。アリスはヤマネを見ていたが、がらんどう自体を見ている気になった。しかしじっと見ていると、それとは違うものも感じるのだが、どうも表現できない。

「三月ウサギはさ、ハートの女王の娘なんだ」

 帽子屋が補足説明をした。

「じゃあ、王女様ってこと?」

 アリスは三月ウサギを見た。三月ウサギは、慌てたように帽子屋のうしろに隠れた。恥ずかしいらしい。三月ウサギはちいさく頷いて見せた。ヤマネが口を挟む。

「だから帽子屋が養っているのデス。愛しいひとの愛娘。帽子屋はお人好しなのデス。誰ひとり、助けられなかったのに、誰として覚えてはいないのデス。そうしてみんな、おやすみなサイ」

「また言ってるよ。おい、ヤマネ。その話は聞いていてまったくわからん。俺は誰かを助けようとしたことなんてないぞ」

 帽子屋は困ったように言った。

「それはソレ。これはコレ。帽子屋は知らないコト。ボクは知っているコト。ただそれだけデス」

 ヤマネはそう言うのが早いか、項垂れて、眠りに落ちていった。

「そうなの。王女様なの。羨ましいな」

 アリスは笑って、そして目の前のピザに気が付き、食べはじめた。

 アリス以外は、おもむろに席に座って紅茶を飲んでいた。良い香りだ。嗅いだことがある。確か食器棚の一番上にあった、紅茶の缶の中身と同じだ。場所だけは知っている。

 アリスがピザを食べ終わって紅茶に口をつけたとき、帽子屋がつと言った。

「そういえばアリス。あんたはこう……もうすこし髪の色が濃かった気がするんだが、色でも落ちたのか?」

 アリスは首を傾げた。

「私は最初からこの色の髪をしていたけど」

「それに」

 帽子屋はことばをつづけた。

「目も、そんな色をしてなかったはず……だと思うんだけどなぁ」

 帽子屋はテーブルに肘をつき、掌に顎を置いた。ますます混乱しているようだ。

「私の目はどんな色をしているの? 自分じゃ見えないから」

 アリスがいくらぐりぐりと眼球を動かしても、一向に瞳が見えるわけでもなく、かといって眼球を取り出すわけにもいかない。鏡もなかったので、手っ取り早く訊いてみた。

「緑、だけど、青も入ってるかな。それにおかしいな。俺があげたリボンもしてないし」

 帽子屋はむうと唸る。アリスは目を逸らして、紅茶を飲んだ。

「ちょっと待ってろ」

 帽子屋はむすーっとしながら店の中へと入っていった。三月ウサギは椅子に座ったまま大きく伸びをして、アリスを見た。にこにこしている。ヤマネはあれからずっと眠っていた。

「……アリス」

 躊躇ったような声が聞こえた。振り向くと、草原で会った白いウサギ耳の少年が立っていた。

「えっと……」

 アリスがどう呼んだものかと悩んでいると、少年は悲しそうな顔で言った。

「ぼくのことは白ウサギと呼んでください。あとにも先にも、これ以外の名前は存在しません。ぼくがここに来たのはほかでもありません。アリスを迎えに来たのです」

 白ウサギは恭しく一礼した。

 アリスは立ち上がった。

「行けば、いいんだよね?」

 アリスは素直に従った。

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