「彼女は自分を忘れていました」 2
アリスは息をついた。
四方を囲むこの森のことなど見たことも聞いたこともない。
頭上の青空を懐かしいとも思わない。
なにも感じなかった。ただ、空を見上げているとしか認識できなかった。風が吹いても、近くで水の流れる音が聞こえても、気に留まらなかった。
一応スカートの汚れを払い、またぼうっとする。どこかに向かう意志もないまま、彼女は立ち尽くしていた。
「おやおや、ずっとそこにいるつもりかい?」
アリスは遠くから声をかけられた。その声は森の一方から聞こえてきたので、アリスはそのほうに向いた。
「ことばを忘れてしまったようだねぇ。そうやって口を開けているとアホの子に見える」
アリスはちゃんと口を閉じた。声は続く。
「自分の考えがないアリスなんて、変り種だねぇ。こーんな世界に迷い込んで、ワクワクしたり、ビクビクしたりしない?」
「さっき会った変な男の子には驚いたけど、特にほかはないよ」
アリスがそう言うや否や、彼女の立っている原っぱの花という花がいっせいに咲き出し、それぞれが勝手に話をはじめた。
「今日もいい天気だなあ。なんて気持ちいい風! でもなんだろう。あ、きのこの粉が舞ってるよ」
「とんだ迷惑な話だ。わたしの親戚なんかそれに寄生されたよ」
「ねぇ奥様、わたしのドレスはいかがかしら? 今日は昨日よりもより瑞々しくなりましてよ」
「なんだぁ……もう起きる時間かぁ?」
「なんか私のところは曇っていますね。誰か立っている」
「あらやだ、ちょっと足をどけてくださらない? ヒールが土に食い込んで根っこが痛いわ」
「我々は動けないのだから、動けるものに気を遣ってほしいものだな、まったく」
早口で、背中がぞわぞわするような甲高い声があたりを埋め尽くす。
「あ。ああ……っと」
アリスは跳ねるように、慌てて場所を移動した。するとそこにも花がいて、アリスはいつのまにか森のほうまで進んでいた。
「こんにちは、アリス」
声が近くなった。大人の、落ち着きのある声色だ。
「上だよ」
アリスが言われた通りに見上げると、紺色の服に身を包んだ男が頭上の木の太い枝に座っていた。
「さてアリス。アナタはこれからどうしたいんだい?」
「なにもするつもりはないよ」
アリスは悪びれもせずにこたえた。まさかそんなことを訊かれるとは思わなかったが、それでもすぐにこたえた。
「それじゃあいろいろと困るから訊ねてる。本当にアナタは、アリスであることを忘れてしまったらしいな」
男は澄ましたように口の端を上げる。皮肉であることに気付いていたが、アリスは特になにも思わず、返答した。
「私はアリスだけど、ただそれだけだよ」
「そう。それを言えるだけでも上出来、と言いたいところだけど、それだけじゃ足りないね。この世界に来たなら、ちょっと覚えなくちゃならないことがある。覚えるというよりはむしろ自然とそうするはずなのだけど、アナタは規格外のようだ。じゃあまず練習からしてみよう。ワタシの名前を訊ねたくはないかい?」
「それくらいなら……」
アリスは言われてみて、確かに訊かないのもおかしいかなと思った。
「じゃあ訊いてみて。はい、どうぞ」
「え、あ、君はなんて名前なの?」
「さて」
男は口の端を下げた。
「ワタシは自分をワタシと呼ぶけども、公爵夫人はワタシをチェシャ・ネコと呼ぶ。周りもそう呼ぶ。ハートの女王はクソネコと呼ぶよ。一応ネコがつくことは確かだね」
チェシャ・ネコは眠たそうに欠伸をした。アリスは、ひとりのひとにいくつも名前があるのかと思い、びっくりしたが、素直に受け入れた。なんとなくだが、チェシャ・ネコはどの名前も受け入れていないように思えた。
「じゃあ、チェシャ・ネコって呼ぶことにするよ。チェシャ・ネコさん」
「どうぞご勝手に。これからどうしたらいいのか、考えるようになったかい? これからどうしたいのか知りたければ、誰かに訊ねるといい。『もしもし、ここはいったいどこで、あたしは誰で、これからどうすればいいですか?』って。みんな、アナタがなにかをするのを待っているよ」
チェシャ・ネコは改めて言った。その割に期待のこもらない黄色の瞳をこちらに向けている。しかし楽しんでもいるようだ。なにを楽しんでいるかは知らないが、彼の口元は常に微笑んでいる。彼から斜め下に数メートル離れているがそれは確認できた。
どうしてもなにかをしないといけないらしい。
「じゃあどうしたらいい?」
アリスは素直に訊ね返した。
「ワタシに訊いても意味がない。ワタシはアナタになにも教えられないことになっているからね」
「だって君以外に訊くひとがいないし……」
「自分がいるじゃないか。自分に訊いてみるべきだよ。自分は立派な他人だ」
チェシャ・ネコの言っていることは納得できる気がしたが、他人に説明するには難しく、曖昧なイメージしか持てなかった。
「私……私……」
いったいなにがしたいだろうか。
なにもしないということがしたいというのではダメなのだろうか。
先ほどまで聞こえていた花々の声が聞こえない。また地面に埋まってしまったのだろうか。木々の影に入っているせいか、風が冷たくなったように感じる。気分も悪いほうへと傾いていきそうだ。
アリス、という名前は、あの少年に教えてもらうまで知らなかったが、自然と愛着はもてた。教えてもらったはずなのに、ずっと前からその名前を知っていた気がした。
もしかしたら、本当にアリスという名前だったのかもしれない。
君は、アリスだったね。ずっと、ずっと前から。
脳裏に甦った声に、急に悪寒が走った。
アリスは咄嗟に肩を抱いてしゃがみ込む。
全身がガタガタ震えて止まらない。胃に直接氷を流し込まれたように、冷たさしかない恐怖がこころに直接なだれ込んできた気がした。感情はこころから湧いてくるはずなのに、いったいどこから恐怖が流れてきたのか。
歯の奥がガチガチと鳴り出した。
耐え切れなくなったアリスは目を大きく開くと、森を一心不乱に走り出した。
「どこにいくんだーい?」
チェシャ・ネコの間延びした呼びかけに耳を貸さず、まるで木々が走ってきているような気がするくらいに、アリスは自分が走っているとは思わなかった。
「はっ……はっ……はぁっ」
どこまで行っても木々が走ってくる。徐々に光が遮られ、暗さが増す。夜にでもなったようにアリスに覆いかぶさってくる。
何故こんなにこわいのだろう?
いったいどこで、あの声を聞いたのだろう?
どこかで聞いたような声。どこで聞いたのか、思い出せない。
そもそも、なにも思い出せない。
体が突然うしろに引っ張られた。どうやら袖が木の枝に引っかかってしまったらしく、右の手を引っ張っても取れない。
仕方なしに目を向けるが、右手はなににも引っかかってはいなかった。
「……?」
しかし力を入れればわかるように、なにかがアリスの手を宙に留めているのは確かだった。姿は見えないが、アリスとこの草の茂る地面の手前の空間になにかが在ることは間違いないようだった。
「……誰?」
ひとであるかもわからないのに、アリスはそんなふうに問いかけていた。
かすかに、音、むしろ声のようなものが聞こえた。ひとつではなく、複数の、ざわざわと雑談するような声だ。
不安に眉をひそめ、アリスは宙に浮いた右手の先を見詰める。
ほのかに右手が熱を持ちはじめた。しかしアリスの右手自体が温かくなったわけではなく、右手の境、右手のすぐ外側が温かかった。不思議なことに、ほっと息のつける温かさで、不快をいっさい感じなかった。
そのなにかが存在する空間に、雲のような白いモヤが集まりだした。モヤは段々と一ヶ所に凝縮しはじめ、アリスの右手にも集まり、動きながら形を留めていった。
「君は――誰?」
アリスがもう一度問いかけた途端、アリスの右手を握っていたモヤが硬い音を立ててひび割れた。
待ってた、***
そこからは一瞬だった。モヤは鱗のように固いなにかになり、激流か暴風に押し流されるように剥がれていった。アリスは咄嗟に左手で目元を覆い、固く目をつぶった。
*
轟々と唸りつづけていた音が止んだのに気が付き、アリスは腕をどけた。
そこにはなにもなかった。
ただ変わっていたことは、つい先ほどまで森の中にいたはずなのに、いつの間に抜けたのか、豪勢な邸の見える場所に出ていた。手入れのされた芝生を見る限り、邸の敷地内のようである。振り向くと森があった。
その森の木からチェシャ・ネコが下りて来た。
「折角ワタシが案内しようと思っていたのに、アナタは勝手に見付けてしまったね。この邸は誰にでも見付けられるから、一向に構わないけれど」
チェシャ・ネコが日の当るところまで来ると、アリスはまじまじと彼を見た。
「ワタシの顔になにかついてるかい?」
笑顔を崩さずにチェシャ・ネコが訊くと、アリスは素直に頷いた。
「そうね。右目には縦に傷が走っているし、左目の下になにか模様がある。眼鏡をかけていたんだね」
「そうだね。眼鏡はかけるものだから、かけないと意味がない。だからかけているだけのことさ。ご覧。あれが我が主の邸だ。外ほど中は広くないが、まあ上がっていけばいい」
「君の御主人は誰なの?」
「ワタシの主は公爵夫人。何事も枠にはめて考えないと気が済まない。決められた通りにしないと気が済まない。だからワタシはいつも怒られている」
「そうなの。とてもこわいひとなの?」
「ワタシはそうは思わない」
チェシャ・ネコは邸へ歩き出した。アリスはそのあとを追った。チェシャ・ネコは玄関に立つと、動きを止めて扉を見詰めた。そしてくるりと向き直り、アリスに言った。
「すまないけれど、主はいま、留守のようだ。代わりに別の場所を教えてあげる。もともとこれを教えるためにワタシがいるからね」
「本当に、いないの?」
アリスはなんとなく訊いた。チェシャ・ネコは頷く。
「また森の中に戻ることになるけど、そこから適当に歩いていくと二手の道に辿り着く。右に行けば帽子屋の家に。左に行けば三月ウサギの家に行ける」
チェシャ・ネコはそう言うと森のほうを指差した。
「さあ、お行き。そうすれば、アナタのしたいことがきっと見付かるよ」
アリスはしばらく瞬きをしていたが、頷いて、森のほうへ向かった。
*
「どうして中に入れなかったの? チェシャ・ネコ」
アリスが森に入ってすぐ、公爵邸の扉が開いた。そこから出てきたのは、冷めた目付きの、十歳ほどの少女だった。
「それは、気まぐれ以外のなにものでもない。そうしたほうが良いと思っただけさ」
「……そう」
少女はしばらくチェシャ・ネコを見ていたが、目を伏せて、無理やり納得したようだった。
「それでいいの。あなたは傍観者。彼女にヒントを与えるなんて、柄じゃないもの」
少女は外見に似つかわしくない溜め息をついた。
「ワタシは気まぐれ。なにをしようと違和感はないはずさ。だから主になにを言われても、ワタシはワタシをするだけ。それこそが決められた枠の中の、想定内の行動だとわかっていてもね。それに『柄じゃない』なんて誰が決めたんだい? ワタシはしたければ、アリスにヒントもこたえも出す。ただ、したいと思わないからやらないだけ」
チェシャ・ネコは大きく欠伸をし、少女の脇を通って邸へと入った。
「確かに誰も決め付けていない。だけどわかるでしょう? わたくしたちには〈見えない決まりごと〉がある。もちろんアリスにも」
少女はチェシャ・ネコの背中に話しかける。
「確かにあるけど、本当は、守る必要なんてないのさ」
チェシャ・ネコは立ち止まったが、振り返らなかった。
「あなたは役目を放棄しようというの?」
少女はチェシャ・ネコの背中を睨んだ。チェシャ・ネコは首だけを少女に向けた。
「いったい誰がワタシに役を押し付けたのやら。この世界は確かに面白くてバカげてる。けれど、所詮は向こうと同じ。実に退屈だよ」
少女はふんっと鼻を鳴らす。
「そんな派手な頭の色をしておいて、よく言うわね。充分に楽しんでいるように見えるわ。ネコの風上にも置けない。風下にだって置きたくないわ」
チェシャ・ネコは自身の前髪をつまむ。
「それを言うならアナタも随分な姿だ」
「わたくしはいいのよ。幼くても誰かのところに嫁ぐことは可能だもの。それにこの姿は望んだわけではないわ。誰かが決めた『公爵夫人』を模しているだけ。ただ、本当のことはわからない。一番輝いていたときの姿かもしれないし、あるいは過去か未来の姿かもしれないけれど」
「それならワタシだってそうさ。この姿を望んだのかもしれないし、望んでいなかったかもしれない。気が付いたらこうなっていたのさ。気が付いたら、ね」
チェシャ・ネコは首を元に戻し、邸の中に消えた。
「わたくしたちは、仮定の中でしか生きられないものとは違うのよ……」
少女は、苦々しげに呟いた。