「そしてまた、あなたは私を殺すのです」
いつからか、液体が火にかけられ、沸き立つ音が耳に入ってくる。
ぐつぐつとすこしくぐもった音だ。
私はゆっくりと肘枕から頬を離した。ゆっくりとあたりを見渡す。
リビングならまだしも、キッチンでうたた寝をしてしまったらしい。私はなんだか情けなくなって、ゆるゆると苦笑した。額に手を添えて、ゆっくりと息を吐く。
頭が重たい。
鉛でも埋め込まれたかのようだ。
鍋をかけた火の勢いを弱くして、私はふらふらとリビングへ向かった。
ソファーに深く座り込む。ここでも溜め息が出た。
「ママ」
目の前に、娘が立っていた。腕に一冊の絵本を抱えている。その絵本を見ると、顔が引きつりそうだったが、この絵本は娘のお気に入りで、私は精一杯優しく言った。
「なあに?」
娘は口の端を上げてにこにこしながら言った。
「わたしね、アリスになったの」
「えっ?」
私はわけがわからなかった。
「わたし、アリスよ。ねえ、ママ。わたしアリスなの。あのね、とってもね、へんなセカイだったの。みんなね、わたしのことアリスっていってくれるの」
娘の満面の笑顔に、私はまた、はじまった、と思った。そう思ってはいけないと思いつつ、頬が引きつった。それでも精一杯優しく話しかけた。
「あのね、***。あなたは***なの。あなた、この間もそんなこと言ってたでしょう? グレーテルやシンデレラはもういいの?」
ああ、面倒くさい。なんでこんなことを言うようになってしまったんだろう。私のせいなの? そんなはずないわ。私は、ちゃんと育ててる。でもこの子は、在りもしないことばかり話す。私はなにを間違えてしまったんだろう。
「ちがうわ、ママ。わたしはアリスよ。みんなもそういってくれたの。ほら、ママもそういってよ。あ、わたしね、いろんなところにいったのよ? きのこがたあっくさんあるところにもいったし、ぼうしやさんのれすとらんにもいったの。おしろにもいったの。かくれんぼしたのよ、ハートのじょおうさまと」
夢中で話す娘の顔を見るたびに、苛々してくる。だめだ。ここで話を遮ってしまったら、教育上よくない。全部聞いてあげないと、肯定的に受け止めてあげないと、子どもが曲がってしまう。我慢よ。
「ねえ、ママ。ママってば、きいてるの?」
ああ、うるさい。
「わたしのいってること、わかってる?」
がまんがまんがまんがまんがまんがまん。
そんなの、くそくらえだっ!
「うるっさいわねっ! すこし黙りなさいっ!」
娘はぴたりと動きを止めた。
しかしすぐに顔を歪ませて、大声で泣きはじめた。
ああ、すぐこれだ。わんわん泣けはいいと思ってる。腹が立つ。
うるさい、うるさい、うるさい。
泣きたいのはこっちだ!
「うるせえよっ! おまえはアリスじゃないだろうがっ!」
見栄も体裁もありゃしない。子どもなんて、ほんと理解できない。
「いやぁああ! わっ、わたしはアリスだもんっ! みんな、いって……ア、アリスなのおおおおぉっ!!」
私は我知らず大袈裟に舌打ちをして、娘の持っている本を壁にぶん投げた。
こんなものがあるから!
「違うっつってんだろっ! あんた、なにに影響されたか知らないけど、いい加減にしなさいっ! あんたがそんなせいで、周りに変な顔されんだよ!」
娘はすぐに本を取りに行った。本を拾い上げて、なおも泣き叫ぶ。
「やっ、やぁだああああっ! アリスっ、だもんっ! あっ、アリ、アリスになるのぉおおおおっっ!!!」
「黙れっていってんだろっ!」
うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい。
この子のすべてが、存在が、私の中に雑音を生む。
もう、やめたい。
出たい。
この子さえいなければ、こんなことにはならなかったのに。
「! ああ……っ」
私は、いったい、自分が、なにをしたのか、すぐには理解できなかった。
娘が床に倒れて、声を押し殺している。
私の両手には血が付いていて。
娘のお腹には、そこにあってはいけないものが刺さっていて。
いったい、なにが起きたの?
いったい、自分は、なにをしたの?
「あ、ああっ!」
私はなにがなんだかわからなくて、慌てて娘を見ようと屈んだ。娘は痛みに歯を食いしばっていた。可哀相に、悲鳴すら出さない。
「ああ、なんてこと……っ」
取り乱して、頭の中がまとまらない。
「ふふっ、きゃははははははっあはっあはははっははははははっっ!!!」
私の体が固まった。
まるで悪霊に取り憑かれたかのように娘が笑い出したのだ。
私は怖気づいて、尻餅をついた。
え? 娘が笑った? こんな大きな声で? それもこんな、気持ち悪い笑い方で?
娘は口の端を、裂けるのではないかと思うほど上げて、倒れたまま私を見上げた。
「ありがとぉ、ママぁ。あっははははははあはははっ! これであんたはもうアリスでいつづけることはできない! あははははははっ! ざまあみろ! おまえは、もうアリスじゃないっ!」
おまえはやがて、アリスを殺す。
それこそがアリスでいつづけられない理由。
「わたしを殺すことで、おまえはアリスではいられない。わたしがアリスだ! おまえはアリスを殺しつづけるだろう! そういうふうにしてやるよ。もうおまえはアリスじゃない。わたしがアリスになるための、供物なんだよっ! ひゃはははっははっははははっっ!!!」
気が付けば、私は玄関に向かって走っていた。
あれは誰? 本当に私の娘なの?
わからない。いまはもうわからない。
耳の奥に張り付いた笑い声を振り払いたい。
玄関の扉を開け放った。
風が室内に流れ込んできて、私は一瞬目を細くした。
「こんにちは」
にこやかに誰かが挨拶をする。
私はびっくりして目を見開いた。
目の前に、少年がいた。
十五くらいの、礼儀正しそうな少年は、予想通り丁寧にお辞儀をした。
頭に白いウサギの耳のようなものが生えていた。
私は奇妙にも、そのことを疑問には思わなかった。
彼は白ウサギなのだから、ウサギの耳が生えているのは当たり前だ。
「お迎えに上がりました。さあ、行きましょう」
少年が優雅に手を差し伸べた。
私はにっこりと笑って、お気に入りの灰色のスカートを揺らし、彼の手の上に自分の手を置いた。手袋越しに、彼の手の熱が伝わってくる。私は手を引かれて、玄関の外階段を下り、草むらへと足を向けた。爽やかな風が私の髪を揺らす。
「どこへ行くの?」
私はこれから起こることに胸を高鳴らせながら、彼を見た。
「おや、お忘れになってしまいましたか?」
少年は嬉しそうに、くすくすと笑った。
「ぼくたちの世界にですよ、愛しいひと」
それからこう付け加えた。
「彼女に、早く会えるといいですね。ボクも、いまからすごく楽しみです」
おわり。




