表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Our Alice-ぼくらのアリス-  作者: 近藤 回
証言九十九
21/21

「そしてまた、あなたは私を殺すのです」

 いつからか、液体が火にかけられ、沸き立つ音が耳に入ってくる。

 ぐつぐつとすこしくぐもった音だ。

 私はゆっくりと肘枕から頬を離した。ゆっくりとあたりを見渡す。

 リビングならまだしも、キッチンでうたた寝をしてしまったらしい。私はなんだか情けなくなって、ゆるゆると苦笑した。額に手を添えて、ゆっくりと息を吐く。

 頭が重たい。

 鉛でも埋め込まれたかのようだ。

 鍋をかけた火の勢いを弱くして、私はふらふらとリビングへ向かった。

 ソファーに深く座り込む。ここでも溜め息が出た。

「ママ」

 目の前に、娘が立っていた。腕に一冊の絵本を抱えている。その絵本を見ると、顔が引きつりそうだったが、この絵本は娘のお気に入りで、私は精一杯優しく言った。

「なあに?」

 娘は口の端を上げてにこにこしながら言った。

「わたしね、アリスになったの」

「えっ?」

 私はわけがわからなかった。

「わたし、アリスよ。ねえ、ママ。わたしアリスなの。あのね、とってもね、へんなセカイだったの。みんなね、わたしのことアリスっていってくれるの」

 娘の満面の笑顔に、私はまた、はじまった、と思った。そう思ってはいけないと思いつつ、頬が引きつった。それでも精一杯優しく話しかけた。

「あのね、***。あなたは***なの。あなた、この間もそんなこと言ってたでしょう? グレーテルやシンデレラはもういいの?」

 ああ、面倒くさい。なんでこんなことを言うようになってしまったんだろう。私のせいなの? そんなはずないわ。私は、ちゃんと育ててる。でもこの子は、在りもしないことばかり話す。私はなにを間違えてしまったんだろう。

「ちがうわ、ママ。わたしはアリスよ。みんなもそういってくれたの。ほら、ママもそういってよ。あ、わたしね、いろんなところにいったのよ? きのこがたあっくさんあるところにもいったし、ぼうしやさんのれすとらんにもいったの。おしろにもいったの。かくれんぼしたのよ、ハートのじょおうさまと」

 夢中で話す娘の顔を見るたびに、苛々してくる。だめだ。ここで話を遮ってしまったら、教育上よくない。全部聞いてあげないと、肯定的に受け止めてあげないと、子どもが曲がってしまう。我慢よ。

「ねえ、ママ。ママってば、きいてるの?」

 ああ、うるさい。

「わたしのいってること、わかってる?」

 がまんがまんがまんがまんがまんがまん。

 そんなの、くそくらえだっ!

「うるっさいわねっ! すこし黙りなさいっ!」

 娘はぴたりと動きを止めた。

 しかしすぐに顔を歪ませて、大声で泣きはじめた。

 ああ、すぐこれだ。わんわん泣けはいいと思ってる。腹が立つ。

 うるさい、うるさい、うるさい。

 泣きたいのはこっちだ!

「うるせえよっ! おまえはアリスじゃないだろうがっ!」

 見栄も体裁もありゃしない。子どもなんて、ほんと理解できない。

「いやぁああ! わっ、わたしはアリスだもんっ! みんな、いって……ア、アリスなのおおおおぉっ!!」

 私は我知らず大袈裟に舌打ちをして、娘の持っている本を壁にぶん投げた。

 こんなものがあるから!

「違うっつってんだろっ! あんた、なにに影響されたか知らないけど、いい加減にしなさいっ! あんたがそんなせいで、周りに変な顔されんだよ!」

 娘はすぐに本を取りに行った。本を拾い上げて、なおも泣き叫ぶ。

「やっ、やぁだああああっ! アリスっ、だもんっ! あっ、アリ、アリスになるのぉおおおおっっ!!!」

「黙れっていってんだろっ!」

 うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい。

 この子のすべてが、存在が、私の中に雑音を生む。

 もう、やめたい。

 出たい。

 この子さえいなければ、こんなことにはならなかったのに。

「! ああ……っ」

 私は、いったい、自分が、なにをしたのか、すぐには理解できなかった。

 娘が床に倒れて、声を押し殺している。

 私の両手には血が付いていて。

 娘のお腹には、そこにあってはいけないものが刺さっていて。

 いったい、なにが起きたの?

 いったい、自分は、なにをしたの?

「あ、ああっ!」

 私はなにがなんだかわからなくて、慌てて娘を見ようと屈んだ。娘は痛みに歯を食いしばっていた。可哀相に、悲鳴すら出さない。

「ああ、なんてこと……っ」

 取り乱して、頭の中がまとまらない。

「ふふっ、きゃははははははっあはっあはははっははははははっっ!!!」

 私の体が固まった。

 まるで悪霊に取り憑かれたかのように娘が笑い出したのだ。

 私は怖気づいて、尻餅をついた。

 え? 娘が笑った? こんな大きな声で? それもこんな、気持ち悪い笑い方で?

 娘は口の端を、裂けるのではないかと思うほど上げて、倒れたまま私を見上げた。

「ありがとぉ、ママぁ。あっははははははあはははっ! これであんたはもうアリスでいつづけることはできない! あははははははっ! ざまあみろ! おまえは、もうアリスじゃないっ!」


 おまえはやがて、アリスを殺す。

 それこそがアリスでいつづけられない理由。


「わたしを殺すことで、おまえはアリスではいられない。わたしがアリスだ! おまえはアリスを殺しつづけるだろう! そういうふうにしてやるよ。もうおまえはアリスじゃない。わたしがアリスになるための、供物なんだよっ! ひゃはははっははっははははっっ!!!」

 気が付けば、私は玄関に向かって走っていた。

 あれは誰? 本当に私の娘なの?

 わからない。いまはもうわからない。

 耳の奥に張り付いた笑い声を振り払いたい。

 玄関の扉を開け放った。

 風が室内に流れ込んできて、私は一瞬目を細くした。

「こんにちは」

 にこやかに誰かが挨拶をする。

 私はびっくりして目を見開いた。

 目の前に、少年がいた。

 十五くらいの、礼儀正しそうな少年は、予想通り丁寧にお辞儀をした。

 頭に白いウサギの耳のようなものが生えていた。

 私は奇妙にも、そのことを疑問には思わなかった。

 彼は白ウサギなのだから、ウサギの耳が生えているのは当たり前だ。

「お迎えに上がりました。さあ、行きましょう」

 少年が優雅に手を差し伸べた。

 私はにっこりと笑って、お気に入りの灰色のスカートを揺らし、彼の手の上に自分の手を置いた。手袋越しに、彼の手の熱が伝わってくる。私は手を引かれて、玄関の外階段を下り、草むらへと足を向けた。爽やかな風が私の髪を揺らす。

「どこへ行くの?」

 私はこれから起こることに胸を高鳴らせながら、彼を見た。

「おや、お忘れになってしまいましたか?」

 少年は嬉しそうに、くすくすと笑った。

「ぼくたちの世界にですよ、愛しいひと(ディア)

 それからこう付け加えた。

「彼女に、早く会えるといいですね。ボクも、いまからすごく楽しみです」




 おわり。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ