「これは、彼女の世界なのです」 3
三人は公爵邸を駆け出た。それからふたりのアリスはグリフォンに掴まり、空から帽子屋のレストランへと向かった。森の中を行くよりも圧倒的に早く、森がつづく眼下の景色の端にやがてレストランの庭にある長テーブルが見えた。アリスは、帽子屋がレストランにいないことは考えなかった。
地上に降りると、ふたりのアリスはすぐに帽子屋を捜しはじめた。
「帽子屋! お願い、いるなら返事してっ!」
外の庭を捜し回っていた最初のアリスのちいさな悲鳴が聞こえた。長テーブルの近くの木の下で立ちすくんでいた。帽子屋の家の中に上がろうとしていたアリスは、グリフォンと共にすぐ彼女のところへ行った。
「ああ……そんな……っ」
掠れた声の最初のアリスは、その場に屈み込む。
「! ……っ」
アリスは、最初のアリスに抱え起こされた帽子屋の顔を見て、後悔した。彼の口元から血が流れ、鎖骨の下あたりのシャツが紅く染まっている。いつぞやのときよりも多く吐いたようだ。よく見るとまだ息はあるらしいが、悪いなんてものじゃない、死ぬ間際の様子に近かった。最初のアリスが何度頬を叩いても、なんの反応も示さない。
「あはははっ!!」
突然の笑い声が場に響く。
七歩ほど先に、首を傾げた、三月ウサギが立っていた。手には長めのナイフが握られていたが、血はついていない。アリスはそのナイフを見たことがある気がした。彼女の顔には、まるでハートの女王が乗り移ったかのように、狂気が張り付いていた。
「やっと死んでくれたよお。こいつ、思ったよりタフでさあ。血を吐くだけで死なないんだもん。毒を盛られてることに気付かないくらいなのに、よくレストランなんかやってたよねえ。ほんと、笑っちゃうよ。まさかヤマネのほうが先に死ぬとは思わなかったけど」
三月ウサギはケタケタと笑い、腰に手を当ててアリスたちを見た。
「まさか……あなたがヤマネを?」
アリスは驚愕した。
『結果は常に同じものによって引き起こされるわけではないのですよ』
ヤマネの台詞が記憶の底から蘇る。
「いったい……どうなって……」
あのとき、ヤマネに駆け寄り、唐突にアリスの体を貫通した刃物は、先が鋭く長いものだった。ハートの女王が持っていた、黒い花弁をあしらった刃物とは明らかに違った。
まさか、そんなことが?
「あなたは誰!? 何故このようなことをっ」
最初のアリスが涙ながらに三月ウサギを睨んだ。
「あたしぃ? あたしは三月ウサギだよ。知ってる? 三月ウサギはね、いつも狂ってるんだ。パパは帽子屋がキライだったから、あたしを創ってくれた。適任のあたしに殺してくるように言ったの。嬉しかったぁ。だから、殺したの。パパのために」
「あなたはひとを殺すことに罪悪感を覚えないのですかっ?!」
最初のアリスは震えながら、なおも挑んだ。抱えた帽子屋の顔は土色になっていた。
「ザイアクカァン? なにそれ。あたしはただパパのために存在するだけ。ほかになにもないし。あたしがいま感じてるのは喜び。それだけで充分」
三月ウサギは恍惚とした表情で空を見上げた。そんな彼女の背後から、近付いてくる影があった。ゆっくりとした歩みで、男は口元に笑みを浮かべていた。
「あ……ああ……」
最初のアリスが見たくないものを見てしまったように顔を歪め、顔面蒼白になっていた。そんな状態でよく意識を保っていられると、アリスは心配した。
「三月ウサギはいい子だね。さすが私の子だ」
「パパっ!」
彼は三月ウサギの頭を撫で、三月ウサギは殊更嬉しそうに彼を見ていた。
「やあ、久しぶりだね、アリス」
柔らかく微笑むハートの王は、ふたりのアリスに恭しく一礼した。
「彼は死んでしまったね。君はとうとう帽子屋を振り向かせられなかった。まあ、いずれ代わりが来るから、悲しむ必要はないんじゃない? そのひとも帽子屋だよ」
最初のアリスの腕の中にいた帽子屋は、すでに姿を消していた。
「あ、あなたの言うことなんて、聞かなければよかった……!」
最初のアリスはおいおいと泣きだした。
「私がなにを言おうと、なにをどうするかは君の意志じゃないか。だって私は本当のことを言っただけだもの。どうせなら、よこしまな気持ちを私の妻に持った帽子屋を恨むんだね。まあ、形だけの夫婦だ。そこは譲ろう。でも君がハートの女王になれば、帽子屋はハートの女王を愛することになるはずだろう? 違う? いいや、合っているはずだ」
「そうだけど、そうだけど……違ったわ……」
最初のアリスの声は掠れて、消え入った。
あのハートの女王は、彼女がなる前のハートの女王だった。
白ウサギの家の鉛筆画を思い出して、アリスは悲しさに目を細めた。
ハートの王は顎に手を当てて、にやりとした。穏やかな風が彼の紺のマントを揺らす。
「もちろん私にも企むところはある。私は方法を教えただけ。するかしないかは、アリスの自由だ」
ハートの王は澄ました顔で、アリスのうしろにいるグリフォンを見遣る。
「アリス。そう、アリスだよ、グリフォン」
グリフォンはそう言われて、口元を震わせ、何故か動揺しているようだった。
「君も、もう気付いているんだろう? アリスは常にひとりだよ、グリフォン。いま君の中にいるアリスが、本当のアリスだ。それに知ってるかい? 最初のアリスは本当の意味では最初ではないんだよ」
グリフォンはハートの王の気に圧されたのか、額に汗を浮かべて食い入るように彼を見返していた。よく見ると彼の眼球は小刻みに揺れ、視線が定まっているようには見えなかった。
「おやおや、ことばを失くしてしまったらしい。憐れだね。見ているこっちが悲しくなってくる。三月ウサギ。もう飽きたから、仕上げに取り掛かってくれるかい?」
三月ウサギはこの上なく幸せそうに頷いた。
「うん。パパ」
ひゅっとアリスの耳の横で風の音がした。ちいさい呻き声がふたつ聞こえ、ドサッと倒れた音。アリスは信じられなかった。
「グリフォンっ! アリスっ!」
グリフォンは仰向けに倒れ、目を開けたまま事切れていた。最初のアリスは、地面に突っ伏した。ちょうど腕があって顔が見えない。
きっと、金輪際動くことはないのだろう。
三月ウサギは嬉しそうに両手をあげた。
「さあ、これで終わり。あたしも、終わり」
彼女は持っていたナイフで喉を切り、アリスの前で息絶えた。
一連の出来事に、アリスは口を半開きにしたままだった。
ひとが三人も死んだのに、あっという間すぎて、なにも感じない。
静まり返ったその場に、拍手が鳴った。まるで仕切り直しでもするかのように。
「さあ、これでようやくふたりきりになった」
ハートの王は手を止める。口元の薄ら笑いが気持ち悪い。
「お帰り、アリス。私との約束は思い出してくれたかい?」
「……なんのこと?」
緊張したアリスは、訝しそうに眉を寄せる。
「また忘れてしまったんだね。残念だ。でも簡単な話。この世界が、君の夢か、私の夢か、はっきりさせようって言ったじゃないか。経験が邪魔するからと、記憶まで手放したのに」
「知らない、そんなの知らない!」
この世界が夢?
この世界のどこが夢なんだ?
いや、確かに夢かもしれない。
夢にだって感覚はある。
現実で体感したかのような、同じ感覚を備える夢。
気持ち悪いほどにリアルな夢。
しかし、本当に夢なのだろうか。
現実だと証明するものもなければ、夢だと証明するものもない。
「あの頃はあんなに楽しんでいたのに、君は変わってしまったね。経験や記憶というのは、やはりとても大切なものなんだね。よくわかったよ」
悲しそうに微笑むハートの王は、ふうと息をついた。
「何度やってもはっきりしないね。でも運がいいとも言える。もしかしたら私たちのどちらの夢でもなかったかもしれないのだから。君にとっては最初に死んだ、あのヤマネの夢だったかもしれない。けれど私たちはまだここに存在している。彼の夢を引き継いだのかもしれないし、彼の夢の中に閉じ込められた可能性もある。青虫や公爵夫人、帽子屋、そしてアリスが死んでも、まだここにいる。私たちはまだ自由でいられる」
「あたしは、わからない。この世界以外に世界があるなんて、……考えられない。だってあたしはアリスだもの」
アリスは錆びついた蛇口のように、ちいさく首を振った。
夢ではないと否定しても、もし夢だったらと考えてしまう。夢だったら、本当に覚めることができるのだろうか? この、悪夢のような現実から。
現実。
もし、覚めることができたとしても、ここよりマシだと、言えるだろうか。
「そ、そういうあなたは、いったいなにをしてきたの? あなたはここが、仮に夢だったとして、あなたの夢であることを証明することができたの? できてないんでしょ? ハートの女王にアリスを殺すように持ちかけたのも、あなたなんでしょ? やってることが無茶苦茶じゃない。あたしが死んだら、夢だの現実だの、考える必要がないじゃない! あたしを殺すのが目的なんでしょ!」
アリスが叫び切ると、ハートの王は声に出して、嬉しそうに笑った。
「まさか。君をむざむざ見殺しにしたりしないよ。ちょっと誤算はあったけど、また君に会うことができたし、また違う過程を見られてとても面白かったよ」
アリスは寒気に肩を抱き、毛穴が塞がれる思いだった。彼のことばが呪いのように体に絡み付く。
顎に手を当てながら、ハートの王は空を映したような瞳を世界に巡らせた。
「この世界は私のためにある。少なくとも私はそう思っている。私の望み通りになる世界。でも、ひとつだけ望み通りにならなかった」
そう言って、アリスに目を向けた。アリスはその視線の意図に気付く。
「……あたし?」
ハートの王は頷く。
「君だけは私の思い通りにはならなかった。何故か。ここは私の世界のはずだ。それなのに、うまくいかないなんてことがあっていいのだろうか? 私は何度も考えた。けれど一向にこたえが見付かる様子はない。賭けに勝っても、勝負では負けた。それは惨めだ。アリスだけは永遠に私のものにはならない。それ以前に、私の望みは本当に私の望みなのだろうかと思うことがある。この私ですら、望みの中の一部なのかもしれない。私が私を認めても、意味がない。君が君を認めても、同じこと。あるいはこの欲求は、君を求めることは、そうすることで私を存在させているのかもしれないね。外側に存在意義を置くことは、常套手段だ。危険なものではあるけど」
アリスは頭を抱えるように耳を手で塞ぎ、目を閉じた。それでも彼のことばが耳に届く。手をすり抜けて、身体中に反響する。
「君と初めて会ったとき、私は考えた。もしかしたら、君の世界なのかもしれないこの世界の、真実を知りたいと」
聞きたくない。真実なんて、いま見えているものだけで充分だ。
「ある程度は私の望みのままになったこの世界で、君はこの世界にとってなんなのだろうね? 神様かな? 創造主? それともただの異分子? イレギュラー?」
言わないで。
あたしはただのアリス。
それ以外のなにものでもない。
世界に動かされていようと、世界を操っていようと、そんなものは関係ない。
「ここはいったい、なんなのだろう。いったいなんのために存在するのだろう。私は私の理由をこの世界に与えられるけど、同時に、君は世界に、どんな理由を与えたんだい?」
あたしは知らない。なにも与えていない。
だってこの世界は、みんなのものでしょう?
「私がこの世界での死を迎えたとき、目蓋を閉じた瞬間に君はいったいどうなってしまうのだろうね? そして君がそうなったとき、私はどうなってしまうのだろうね? そのとき確かに、君の夢は確かに終わるだろう。だけどね、私の夢はまだ終わっていないんだよ」
終わるはずのない世界で、世界が、終わってしまう。
見たくない。そんなもの、見たくない。
俯いていた顔に、手袋をはめた手が触れた。アリスはその温かさに、気持ち悪さに、心臓が押さえ付けられた。顎ががくがくと動いて止まらない。悲しくもないのに目元が濡れている。
ゆっくりと顔を上げさせられた。しかし、目にはなにも映らない。ほかの感覚はあるのに、視覚だけが機能を断った。
「ねえ、愛しいひと。君は本当に」
アリス、だったかい?




