「彼女は自分を忘れていました」 1
引っ付いていた目蓋が勢いよく開いた。
彼女が見たものは、あらゆる水色がたゆたう空だった。
いつから仰向けになっていたのだろうかと、疑問の頭がゆっくりともたげた。
絵に描いたようなむくむくした雲がゆっくりと空を滑っていく。地表から見るとゆっくり動いているように見えるが、その実ものすごい速さで動いているのだという。いまならそれを理解できる気がした。
ああ、随分とのどかなところだ。妙に心根が安らぐ。一抹の不安も無いのが不思議だ。
いったいここはどこだろうか?
「あ、あーっ! なんで、どうしてここにアリスが……っ!?」
幼さの残る聞きなれない叫び声にハッとし、勢いよく起き上がると右手側に、恐らく少年、が走り寄って来ているところだった。
「こんなところでなにをしていたんです? 寝ていたんですか? いけません。風邪を引いてしまいます」
地面に片膝をついたその少年は「ね?」と言いたげに笑顔で首を傾げて見せた。
「いや、いえいえ、それよりも、どうしてここにいるんですか?!」
少年の必死さを無視して、アリスはというと、その少年の頭部に生えた白くてピコピコ動くものを見て、固まっていた。アリスはおそるおそるそれを指差した。
「それは……生えているの?」
「え?」
少年は指差されたものを見上げたつもりだったが、なにぶん自分の頭に生えているものを指差されたとは思っていなかったようで、キョロキョロと空を見上げた。
「なにかいましたか?」
「あ、いや、君のその頭に生えている、白くて先ほどからピコピコ動いているものなんだけど」
アリスが右手で軽くそれをつまむと、少年はようやく気付いた。
「ああ、これですか? これはぼくの耳です。どうです? 立派でしょう」
少年がニコニコ笑う手前、突っ込む気が失せてしまったアリスは、そっと手を離した。確かに血の通った耳のようでほのかに温かかったが、逆にそれが気持ち悪く思えた。
「でもおかしいですね……ぼくはアリスを呼んだ覚えがないのですが……」
少年は眉をひそめて腕を組んだ。と、彼の白いウサギ耳はくたりと垂れた。
「呼ぶ? 君が私を?」
アリスにも眉ひそめがうつる。
「ああ、いえ、そうだけど違うんです。あれ? そうだけど違う、そうだけど違う……あれ? どうしてぼくは肯定しておいて否定したんだろう?」
少年がますます眉間にしわを寄せて唸る。アリスは呆れながら言った。
「君が君に対して質問してもこたえは出ないから、私が君に質問するよ。いい? 君は私をここに呼んだの?」
「いいえ。あなたを呼んではいません。ですが、アリスをこの世界に呼べるのはぼくだけなんです。でもあなた――アリスはこの世界に来てしまった。由々しき事態です」
少年は眉間のしわを深くした。
「その『アリス』って、私の名前?」
「そうですよ! ご自分の名前も忘れてしまったのですか?! ああ、なんということだ! ご自分の名前すら忘れてしまったアリスなんて前代未聞です! あなたはここに来た。それだけでアリスであることを証明しているのですよ!?」
少年は狂ったように頭を抱えて叫んでいたが、ぴたりとやんだ。かと思うと、また叫んだ。今し方思い出した、というような様子で。
「ああ、大変だ! 女王様のもとに急がなくては! 遅れてしまいます!」
「女王? それはもしかして、えーと、ハートの女王のこと?」
アリスは訊ねた。どこでその名前を覚えたのか思い出せないが、ついこの間その名前を見た気がした。
「よかった。女王様のことは知っておいでなのですね。説明する手間が省けました」
「でもどんなひとかは知らない」
アリスはすかさず返した。
「そうですか。そうですよね。だって会ったことはないんですから。ぼくはもう忙しい身なので説明はできませんが、ハートの女王はハートの女王の城の主で、とても美しい方であることは確かですよ、はい」
少年はチョッキのポケットから出した懐中時計を、いかにも急いでいるというようにチラチラ見た。もしかしたら本当に忙しいのかもしれないが、あからさま過ぎてアリスには胡散臭く見えた。アリスはふと、少年がチラチラと見ている金の懐中時計を指差した。
「ねぇ、君。いまは何時?」
「いまですか? 時間はいまも二時五十五分ですよ」
「……いまも?」
「はい。ぼくの時計はずっと二時五十五分です」
音が出そうなほどにっこりと笑った少年。彼の持つ時計は、なるほど、二時五十五分を差していた。秒針は見当たらないようだが、どういうことだろう。
「どうして時計が動いてないの? ずっと、ってどういうこと? 時計が壊れているの?」
そのことばに、少年は驚いたようにこたえた。
「壊れている? いいえ! そんな、壊れているだなんてとんでもない! この時計は壊れていません。それに動いていたら、ぼくは時間に遅れてしまいます。そうなったら女王様に首をちょん切られて、ぼくが動かなくなっちゃいますよ! でもこうやって決められている時間の五分前に止めておけば必ず五分前に着きます。どうです? 便利でしょう」
えっへんと胸を張る少年は得意満面だが、アリスは言った。流石に言った。
「それじゃあ時計の意味が無いよ」
アリスが思うよりも、自分の口から出たことばに、声に、呆れの色が滲み出ていた。少年はなおも笑っていた。誇らしげな様子は消えない。
「これはぼくの時計ですから、どう扱ってもいいんです。アリスの時間に干渉することもないですし、ぼくにもアリスにも女王様にも、いろいろなひとにも優しい時計なんです」
少年はすくっと立ち上がり、小柄な体でさらに大きく胸を張った。背丈はアリスと変わらないと思いきや、アリスも立ち上がってみると彼はアリスよりも背が低かった。アリスの履いているブーツのヒール分を差し引いても低かった。
「それじゃあアリス、またお会いしましょう」
少年は恭しく一礼すると「急がないと遅れてしまう」と連呼しながら、四方を囲む森の奥へと消えていった。
「あ、ちょっと……」
名前を聞きそびれてしまったと思ったが、アリスはすぐに諦めた。白いウサギ耳を生やした少年なのだから、安直に考えて白ウサギとかホワイトラビットとか白とか黒とかそこらへんだろう。ちょうど髪も白く、目も赤かったし。