「これは、彼女の世界なのです」 2
気が付くと、森の中だった。
地面にはひとつの線がつづいていた。その線はどうやら白く塗られたレンガを埋めて上だけを見せ、ひとつに繋げているものだった。
木々の葉は赤や黄や茶などに色を変えていた。すっかりはげてしまった木もある。
今度はここに戻って来たのか。
ということはこの先に二股道があって、白ウサギの家か、公爵邸に行くしかない。どちらかに行く道しか、ここにはないのだ。
だったら、公爵邸に行くしか道はない。
アリスは駆け出した。全力で走った。
公爵邸を頭に思い描いていたからなのか、ほどなくして公爵邸の玄関が見えてきた。しかし扉は開いていた。アリスのこころに不安がどっと押し寄せた。そのまま扉へ駆けた。
アリスはことばを失くした。
ソファーの近くで青虫が床に倒れていた。
公爵夫人はソファーにもたれかかり、目を閉じていた。
チェシャ・ネコは、窓際に寄りかかって、頭が俯いていて見えなかった。
彼らにいえることは、服のどこかしらに大量の血が付着しており、生気がなく、生きているとは到底思えないということだった。
そして荒れた部屋の真ん中に、当然のように彼女がいた。狂気の滲んだ口元を携えて、顔を上げ、アリスに振り返った。
「待っておったぞ」
アリスは凍り付き、そして思い至る。
あのとき自分が白ウサギの家でハートの女王に対峙したときには、すでに彼らはこんなふうに殺されたあとだった、ということだったのか。折角戻ってきたというのに、これでは……。
ふと左の目端になにかが映った。向けば、悔しさを堪えたグリフォンがそこにいた。
「どうしてここに……っ」
アリスは思わずグリフォンに訊いた。ハートの女王が下品な笑い声を立てた。
「そやつは妾の下僕でな。妾の言うことならなんでも聞くのだ。無論、ここへ連れて行くよう妾が命令したのだ。なんと便利なやつよ。そやつがそれまでなにをしてきたかは問題ではない。妾の下僕である時点で貴様の敵であることに変わりはなかろう? きひゃひゃひゃっ!」
「そんな……。じゃあ、どうしていままで……」
「そのようなこと、貴様がアリスであるからに決まっておろう? それ以外の理由があってはならぬ。アリスという名は、妾たちの気持ちを歪める麻薬のようだな。なんと忌々しい。感謝せよ、グリフォン。その理由を、いまから妾が消してやろうぞ」
グリフォンは必死そうな顔を上げ、哀願するようにハートの女王を見た。
「なんぞ? その顔は。妾が知らぬとでも思うたか? まっこと、貴様は移動手段以外の役に立たぬなぁ。妾に背く者は、どのような者でも許さぬ。黙って見ておれぇ! 鈍獣めがぁぁぁぁぁああああああっっっ!!!!」
アリスとグリフォンは、彼女の雰囲気に圧されたように一歩下がった。
アリスの恐怖心は最大に膨れ上がっていた。いままで経験してきた死が、死へのおそれがアリスのこころに積まれ、ハートの女王への恐怖へと変化した。決して減らない経験の記憶が、アリスを苦しめる。
どうしていま自分はここにいる?
どうして彼女がここにいる?
どうして自分は殺されなければならない?
どうして彼女は自分を殺す?
どうして自分はアリスなんだ?
「逃げられぬぞ。貴様は永遠に殺されるのだ。妾が断じてそれを実行する!」
ハートの女王は高らかに前口上を語り、極上の笑みを浮かべた。手に持った刃物の柄を固く握り締める。
「覚悟す――」
「だめだ」
ハートの女王のことばを、きっぱりと誰かが断った。
「だめだ。アリスを殺してはいけない」
白いマントをひらめかせ、黒い服のセリクサが、いつのまにかアリスとハートの女王の間に立っていた。ハートの女王の動きを制すように、彼女に向けて手を伸ばしていた。
アリスは驚かなかったが、ハートの女王は動きを止め、グリフォンは目を見開いていた。グリフォンはわかっていたが、ハートの女王もセリクサが見えるのだ。アリスは天の助けだと思った。
「もう終わらせるべきだ。君がアリスを殺しても、無駄なこと。ハートの王が戻ったいま、アリスを殺しても君の呪縛が解かれることはない。君が望んだ相手は、どれほど時間を費やしても、どんな手段を講じても手に入らない。彼は君に振り向かない。呪縛は君が君自身にかけたもの。君はもう、本来の君に戻らなければならない」
セリクサは切実に、しかし断じるようにハートの女王に話しかけた。
「黙れっ! このアリスもどきめっ! 妾にはわかるぞ。貴様は妾が殺してきたアリスの亡霊の集合体に過ぎぬ! 勝手に役を作りおって、そのような愚行、妾が許すはずもなかろうがっ!! 妾の世界を乱す存在は許さん。貴様もろともアリスの首を刎ねてくれるわぁぁあっっ!!!」
ハートの女王の脅しにも屈せず、セリクサは悲しそうにことばを返した。
「確かにぼくはアリスの亡霊だ。同時に、アリスと、昔の君の亡霊でもあるんだよ。ぼくはそれを返しに来たんだ。最初から、それしか方法はなかった」
「だまれだまれだまれだまれだまれだまれぇっ!! 妾に妾以外の昔などありはしないっ! 妾はハートの女王だ! それ以外の何者でもないっ!! 妾に戻れる過去などない!!」
「じゃあ、なにをそんなに怯えているの?」
ハートの女王はぐっと息を呑んだ。そしておそるおそる自身の顔に触れた。
「妾が怯えている?」
ハートの女王は、歪んだ。
「妾が怯えている? 妾が……この妾が……っ」
彼女の手が端から見ても動揺していた。
セリクサがハートの女王に近付いていく。彼女は心底怯えた顔でセリクサを見ていた。
「来るな……来るな……来るな……来るな……っ」
とうとうセリクサがハートの女王の前に立ち、疲れたようにすら見える微笑みを見せた。
「いま、昔の君を返すよ」
セリクサはふとアリスに振り返った。
「アリス。さよならだ」
セリクサは包み込むように、ハートの女王を抱き締めた。
空気が弾け、アリスは咄嗟に目を閉じた。あまりの風圧に、横にまとめた髪は踊り、体のすべてを押されている気がした。
風が止む。目を開けて、見た。
死体はなくなっていた。血痕も消え、セリクサもいなかった。先ほどまで刃物を握り、憎しみにこころを歪ませていた女の姿はどこにもなかった。
その代わり部屋の真ん中には、見たことのない少女が横たわっていた。オレンジがかった金髪に、灰色のワンピース。その上から白いエプロンドレスを着ており、歳は、アリスとさして変わらないように感じた。
「アリスっ」
グリフォンが驚きのあまり声が出なかったのか、絞り出すように呟いた。アリスは一瞬自分のことを言われたのかと思ったが、グリフォンが自分をアリスと呼ぶことは絶対にないと思い直した。
アリスとグリフォンは、少女に駆け寄った。グリフォンが少女を起こした。
「まさか、本当に……?」
グリフォンはまだ信じられないようだ。
「この子が……あなたの捜していたアリスなのね」
アリスは少女の頬に触れて、ふと呟いた。グリフォンは頷いた。
「でもまさか……」
彼はそこで口をつぐんだ。信じられないのはもっともだ。アリスだって同じなのだ。
まさかハートの女王が。
ハートの女王がこれ以上アリスを殺すことを止めるために、その原因を知っているであろうと捜していた最初のアリスが、ハートの女王だったのだ。
いや、この言い方では語弊になるだろう。
彼女はハートの女王になっていたのだ。
少女がゆっくりと目を開けた。青い、海のような瞳だった。
「あ……」
少女は、グリフォンを見、それからアリスを見た。
「あなたが、最初のアリスだったのね」
アリスは下がっていく気分を抱えながら、確認するように少女に訊ねた。
「はい。私は……アリスです。あなたも、アリス、なんですね」
最初のアリスも複雑そうにこたえた。アリスは、自分が空っぽに戻ったように感じた。
「私……私は、何度もあなたを、殺そうとした……。いま思うと、なんておそろしいことをしようとしていたのか……っ。それに、ああ、償っても償いきれないほどに、沢山のアリスを殺めてきてしまった……。私……どうしたら……。それにハートの王まで……っ」
最初のアリスは、両の手を握り、泣くのを堪えていた。まあ、実際は何度も殺されているのだが。
そんな彼女をよそに、アリスは訊きたいことがあった。
「あなたは、どうしてそんなにハートの王を嫌うの? 彼が戻ってきてはいけなかったの?」
「彼は、この世界の主なのです。この世界で彼の叶わない願いなどありません。だから私は、ハートの女王になってしまった……。彼の口車に乗せられて、前のハートの女王を追い出してしまった……。そ、そうです……っ! 帽子屋は、帽子屋はどうしていますかっ」
最初のアリスは、勢い余ってアリスの腕にしがみついた。アリスはなだめるように言う。
「帽子屋なら、森のどこかでレストランをやってるわ。時々吐血しながら、楽しくやってるみたいだけど」
「吐血……?」
最初のアリスの顔色がにわかに悪くなる。
「血を吐いてるってことですか? そんな、彼の体はそんなに悪いのですかっ?」
「え? ええ、三月ウサギが来てから血を吐きはじめたって聞いた……けど」
アリスはあることに気付き、急いで訊いた。
「ねぇ、さっきの、追い出したのはハートの女王だけじゃないはずよね? ハートの王のことじゃないの。そうじゃなくて、あの、もうひとり、三月ウサギも追い出したでしょう?」
そういうと最初のアリスはきょとんとして、首を傾げた。
「どなた、ですか?」
「三月ウサギよ。前のハートの女王の娘の」
見るとグリフォンもわからないらしく、眉を寄せて、最初のアリスと顔を見合わせた。
「俺もそんなやつは知らないぞ」
「そんなはずないわ。だって、彼女が言っていたんだもの。帽子屋も、言ってた……」
落ち着け。
グリフォンも最初のアリスも、三月ウサギを知らないとたったいまはっきり言ったじゃないか。
じゃあ、彼女はいったい?
まさか、まさか。
アリスは背筋があわ立ち、二の腕を掴んだ。
「危ない……。帽子屋が危ない、かもしれない」
アリスは立ち上がり、ふたりに訴えた。
「帽子屋が危ない」
「どういうことだ」
すぐさま問い返したグリフォンだが、最初のアリスは立ち上がった。「行きます」
アリスはその真剣な眼差しを受け止めて、同意の頷きを返した。