「これは、彼女の世界なのです」 1
目は開いているのに、なにも見えていないように窺えた。
あまりにも衝撃が強すぎたのか、彼女は抜け殻のようになっていた。
「あやつが……いない……いなくなった……」
ハートの女王は頭を抱え、ふらふらと歩きベッドの上に腰掛けた。頭が重そうだ。
「……女王様」
様子を見かねた彼は、声をかける。ハートの女王は顔を向けず、座ったまま言った。
「なに用だ。妾は貴様など呼んではおらぬぞ……」
「ですが……」
彼は声に心配の色を混ぜながら、ゆっくりとハートの女王へ近付いていった。
「妾のことは放っておけと言っておろう……! 愚劣な」
「ですが……」
彼は同じことばをつづけた。すぐ目の前に彼女の背中が見える。
ハートの女王はついに堪りかねて立ち上がり、うんざりしたように口を開こうとした。
「……ふふ。折角心配してあげたのに、相変わらずきついなぁ」
彼は困ったように眉尻を下げ、楽しそうに口の端を上げた。
ハートの女王はすぐさま、彼に振り向いた。彼がすぐうしろにいたことが信じられなかったのか、顔から表情と血の気が引いていた。
「あ、はっ、しっ、白ウサギはどこに」
「最初からいないよ」
陽気な声で彼はこたえた。
彼女との久しぶりのやり取りに、彼は表情が綻ぶのを抑えられなかった。
ああ、楽しい。
「何故……何故貴様がここにおるのだ……っ!」
顔を青くさせて、ハートの女王はカタカタと震える指で彼を指す。彼はそんな反応すら嬉しくて、笑った。
「何故って、ここは私の城だもの。いてもおかしくはないはずだ」
「しかっ、しかしっ」
ハートの女王は呂律が回らなくなり、すこしずつ後ずさった。
「やっぱり彼女が来ちゃうと、すぐに終わっちゃうね。もうすこし長びくかと思ってたけど、まあどっちでもいいか。彼女が死ななければ、それ以外がどうなろうと私は構わないし。さあ、約束はとっくに破れたよ。君は負けたんだ。彼女を殺しにいこうとか見当違いなことを考えてないで、大人しく言うことを聞いてもらいたいところだね」
彼女のこの意固地な性格も、困ったものだ。彼は子どもの他愛のない間違いを見たときのように、苦笑した。
「妾は負けてなどいないっ! 約束も、破れてなどっ……っ! わ、妾は……っ」
「じゃあ、いま目の前にいる私はなんなのかな? ちゃんと見えてるかい? 私はもうみんなの意識に戻ってるよ。君みたいにみんなは天邪鬼じゃないから、私をちゃんと認めてくれるだろうね。やっぱりアリスは私の王子様だ。私を見付けて、触って、ちゃんと起こしに来てくれた。本当はキスしてほしかったけど、あのときは喋れなかったしな。うん、残念。でも私にかかっていた魔法は結果的に解けたから、それですべては解決だよ」
ハートの女王は何度も口を開いてはことばを発しようとしているようだが、彼女の喉から出てくるのはちいさな呻き声ばかりだ。ますます気味がいい。
「なに? いまさら約束を反故にするなんて言わないよね? だって君がやってきたことなんだよ? 君がハートの女王になったのも、アリスを殺しつづけてきたのも、君が勝手に突っ走った結果だよ。私はそんなこと、約束に入れてないよ。違うかい?」
「わ、妾はこのようなこと、したくなかった!」
「いまさらそんなことを言うなんて、おかしいなぁ。私がみんなの中からいなくなったのだって、君のためだったのに、忘れたふりはよくないよ。彼の気持ちを掴めなかった君がいけないんだ」
彼は、彼女を壁際まで追い詰めて、肩を掴んだ。彼女の顔が恐怖で歪む。
「さあ、チェックメイトだよ。素直に認めなよ」
いきなり突き飛ばされた彼は、うしろに数歩下がった。その隙にハートの女王は部屋から逃げていく。彼は目で追うだけで、足では追わなかった。それから腕を組む。
「お楽しみは最後まで取っておくべきだ、ってことかな」
もうすぐ終わりだ。
彼女に会える。
彼女がまたこたえを持って、私に会う。
今回はどんなこたえだろうか。
もしかしたらこたえを見付けられていないかもしれない。
それでも構わない。それもこたえの形のひとつ。
彼は、楽しくて仕方がなかった。