「彼女の名前は、本当にそれかはわかりません」 4
「アリス!」
地下牢から抜け出て、すぐに名を呼ばれた。そこはまだ城の中で、呼んだのは白ウサギだった。彼は慌てて駆け寄ってきた。
「ああ、よかった。すごく心配していたんです。あなたが地下牢に連れて行かれるのを見てしまいまして。でもぼくは女王様の御付きで、女王様に背くことはできなくて……」
白ウサギはしょんぼりと項垂れた。アリスは彼を見て、怒りが消えていくのを感じた。彼は初めから、アリスをアリスだと言ってくれた存在だった。
アリスはいまさらこわかったことを思い出して、ぼろぼろと泣き出した。拭えども涙が溢れてくる。白ウサギがハンカチを差し出してくれた。アリスは素直に礼を言った。
「ここにいては危険です。女王様はいま抜け殻のようになっておいでですが、もし正気に戻ったら、きっとあなたの首を刎ねに来ます」
白ウサギは心配そうにアリスを見た。
「だいじょうぶですか?」
アリスはズッと鼻を鳴らして、頷いた。
「だい、だいじょうぶよ」
「ここからそう遠くないところにぼくの家があります。アリス。そこに逃げてください。女王様が気付く前に。だいじょうぶ、行けばわかります。ね? だから泣かないでください」
アリスはまた鼻を鳴らした。
「あなただけよ。わたしをこんなに心配してくれるのは」
「そんなことはありません。みんな、アリスを心配しています。みんなアリスがだいすきなんですから」
「嘘だわ。グリフォンは少なくともわたしの心配なんか、これっぽっちもしてくれてなかったもの」
「そんなことありません。さっき彼が地下牢に行くのを見ました。そういえば彼とは一緒じゃなかったんですか? アリスが出てきたってことは助けてくれたんですね。アリス。もし彼が心配をしてなどいないのなら、そもそもアリスを助けにここまで来るはずがないのです。どうです? その通りでしょう」
白ウサギはニコニコと笑い、アリスを和ませた。確かにその通りだと思った。
「そうね……その通りだわ。わたし、グリフォンにひどいことしちゃった」
「あとで謝ればだいじょうぶですよ。さ、いまは早くここから出てください」
*
アリスは毎度お馴染みの森へ向かった。いつかハートの城の庭園に来るときに使った扉のことを思い出したが、なんとなく、それを使わないで白ウサギの家に行ける気がした
またしてもハートの女王の手から逃れたアリスは、早歩きで木々の間を通りつつ、ぼんやりとハートの女王の顔を思い出していた。
ハートの女王は、打ちひしがれたように床に座り込んでいた。顔色は、いま思えば蒼白で、感情をコントロールできていない様子だった。
ハートの女王は、あのベッドに横たわる青年をおそれていたようだった。
そしてその青年がいなくなった。
それは果たして、彼は自分の存在を取り戻した、ということになるのだろうか。もし彼がハートの王だとしたら、確実にハートの女王に対抗できるだろう。
しかし、彼はいったいどこへ行ってしまったのだろう?
それがわからなければ、結局意味がなかった。もとはといえば、ハートの王ではなく最初のアリスを見付けだし、ハートの女王の野望を阻止して、アリスの存在を認めてもらうことが目的なのである。これでは対抗馬を見付けだしたにすぎない。ついでにその対抗馬も失踪したわけだが。
気が付くと、森の中だというのに地面にはひとつの線がつづいていた。その線はどうやら白く塗られたレンガを埋めて上だけを見せ、ひとつに繋げているものだった。アリスは、時折落ち葉に隠されて見えなくなるその白いレンガを辿って進んでいった。落ち葉を見て気が付いたのだが、木々の葉は赤や黄や茶などに色を変えていた。すっかりはげてしまった木もある。やがて帽子屋のレストランに行く前に見たような、二股道に当たった。思ったとおり二股がはじまるところには、太く低い木が枝を伸ばして居座り、その枝に案内板が打ち付けられていた。
右 白ウサギの家
左 公爵邸
ああ、ここから左に行くと公爵邸へ行けるのか。アリスはなんだか納得してしまった。
そういえば一度もちゃんとした道から公爵邸に行ったことはなかった。一度目は、無我夢中で走り、妙なモヤに捕まったあと、何故か公爵邸が見えるところにまで来ていた。二度目は、チェシャ・ネコにいつの間にか連れていかれた。公爵夫人のことばを借りるなら飛んだというところだろうか。
アリスは迷わず右の道へと進んだ。白いレンガはなかった。
すぐに森は終わった。足元に光が当たる。アリスは顔を上げた。
ロッジ風の家と庭を囲む丸太の塀。庭にはちいさな畑があり、なにやら細長い緑の草がピンと空に向かって立っていた。均等に並んでいる。
アリスはそのミニチュアのような家の庭へ行き、それから玄関の扉の前に立った。扉もほんのすこしちいさい気がした。目線の高さには、菱形のガラスがはめ込まれていた。目だけを動かして探したが、あるはずの呼び鈴か敲き金が見当たらない。
すると、なにもしていないのに扉がほんのすこし内開きに開いた。
「まあ、あなた」
アリスは息を呑んだ。
「初めまして、アリス」
相手は、形式上というふうに頭を下げた。アリスはその態度にさらに驚いた。
「わたしもあなたも初めましてじゃないわ。あなた、自分を忘れでもしたの? 公爵夫人そのひとのくせに、ここでなにをしているの?」
相手はアリスの言うとおり、公爵夫人であった。しかし公爵邸であったときとは違い、いまは黒の給仕の格好をしている。目は半分ほどしか開かれていなかった。
「いいえ、アリス。確かに私は、この家の敷居を跨ぐまでは公爵夫人であったでしょう。ですがいまの私は、この家の侍女を勤めさせて頂いているメアリー・アンです」
そう言って、また一礼した。淡々とした口調が、アリスはかえって気になった。
「旦那様から聞き及んでおります。さあ、中へお入りください」
「えっ……あ、っと」
大きく開けられた扉の向こうへ、アリスは足を踏み入れた。
家の中はやはりというか、木の匂いがぷんぷんした。部屋の隅に暖炉があり、その前にひとつだけ椅子がある。ほかは本棚が壁際にあり、二階への階段が奥に見えた。
「そちらの椅子にお掛けください」
アリスは促されるままに座った。それから口を開く。
「ねぇ」
「はい」
「あなた、やっぱり公爵夫人よね。さっきあなたが言っていたけど、公爵邸にいるときは公爵夫人ってことなの? ここにいるときは?」
「そうなります。ここにいるときは、先ほども申しました通り、旦那様の侍女のメアリー・アンです」
「そんなのおかしいわ。確かにあなた、全然性格も格好も違うけど、そんなのおかしいわ」
アリスは首を振った。
「何故ですか? 私はただ役をまっとうしているに過ぎません。ただの穴埋めをしているだけのこと。直にこの役目に誰かがあてがわれるかもしれませんし、そうはならないかもしれません。いつに補われようと、私たちには、遠いとも近いとも感じる時間などありませんから、なにも感じません」
「それじゃあ、公爵邸でもこの家でもないとき、あなたはどっちなの?」
「役目を任されていないのであれば、どちらでもありはしません。ただそこには名もない存在があるだけのこと。いいえ、名のない存在など、ありはしないのです。そこにはなにもありません。舞台袖に居る者には、役名などありはしません。そこには誰もいないのです。役を奪われた者が追い出されるのは、この世の理なのです。少なくとも私は、それを拝見いたしました」
メアリー・アンは目を伏せ、白いエプロンの前で手を合わせたまま立っている。それ以外になにもしない。それとも、もうすべて終わってしまったのだろうか。
「劇のこと? そんなのますますおかしいわ。役者さんには必ず役名が与えられるものよ。例え一言も喋らなくてもね」
「我々はそうではありません。決まった通りに動き、その名に似つかわしくないことはいたしません。我々には各々決められたことがあり、その範囲の中でしか動きません。互いにそれを間違っていないかどうか見張りあっている。個々の世界の中で、決められたことをまっとうするだけです。ほかはどうでもいいのです。我々の世界を維持できれば、それでいいのです」
アリスは奇妙な感覚に陥った。自分を置いていくように、周りの時間が早送りにされているような、耳を塞ぎたくなるような不快な感覚が一瞬のうちに起こった。ヤマネがべらべらと喋り出したときも、似たような不快を味わっていた。
「そういえば」
メアリー・アンはなにかを思い出したように、視線を宙に漂わせた。
「あのお方がお目覚めになられたようですね。なんと喜ばしいことでしょうか。あのお方こそ、この世界の主に相応しい。女王は、所詮はまがいものに過ぎません。あのお方こそが、すべてを司るべきなのです」
「いったい誰のことをいっているの?」
「ハートの王、そのひとでございます」
「……どうしてそれを知っているの?」
「知ったのではありません。わかったのです」
メアリー・アンはひとつ間を置いた。
「あなた様がそれをご存知なように、私もまた、感じたのです。あの方は永い眠りから帰ってまいりました。いいえ、眠ってなどいなかったのです。あの方は、すべて、わかっておいでです」
そのとき、玄関の扉が叩かれた。
アリスはすぐ身構え、扉の向こうにいるのはトランプ兵だと思った。
メアリー・アンは声を低くしてアリスに言った。
「いったん、二階へお行きください。旦那様の書斎がございます。そこへ」
アリスは頷いて、部屋の奥にある階段を早く、それでいて音を立てないように上がった。一階から扉が開く音がした。
「ご機嫌麗しゅうございます」
それからメアリー・アンの声。
アリスは階段を上がってすぐの扉を開け、その部屋の中に体を滑り込ませた。階下からの声に耳を澄ませた。しかしいくつもの壁を経由してくる声はくぐもり、メアリー・アンの声すら判別できなかった。誰と話しているのかもわからない。
しばらくしても誰かが家の中へ入ってくる気配がなかったので、アリスはとりあえず息を吐いた。それからふとうしろを見た。
書類やら本やらがぐちゃぐちゃと散らかっていた。ベッドの上も机の上も床の上も、同様の状態である。扉とは反対側の方角に大きな窓があった。おそらくベランダがあるのだろう。部屋の真ん中にベッドがあり、向かって左寄りに置かれていた。机は扉を開けてすぐ左にあった。可愛らしい薄桃色のクローゼットが窓の横に置かれていたが、服がはみ出ている。
白ウサギは、片付ける、という行為自体を知らないらしい。アリスは呆れながら机のほうに向かった。本と紙がうず高く積まれている。アリスは適当に紙を引っ張ってみた。
「わわっ」
たった一枚の紙を引き出すことすら叶わないのか。そのひとつの山がアリスのほうに倒れてきた。アリスは慌てて押さえたが、結局その山は土台の一、二冊の本を除いてすべて崩れた。絨毯が敷かれているとはいえ、思ったよりも派手な音を立ててしまい、アリスは焦った。どうしようどうしようと部屋の中を走り回った。
と床に落ちていた紙に足を取られ、するっとうしろに倒れた。ベッドのほうに体が倒れたのはいいが、ベッドの上にある硬い装丁の本に頭を打った。ことばにならない痛みが頭の中まで響いた。
頭を押さえながら起き上がり、いったいなんの紙を踏んでしまったのかとその紙を探した。と足のすぐ横にあった紙に目が留まった。
写真、かと思ったがよく見ると鉛筆かなにかで書かれた絵だった。それほどに写実的な絵だった。
白ウサギがいた。座っているハートの女王のうしろでかしこまっている。それからハートの女王の座る椅子の背もたれに手を置いている青年がいた。
「え……これって」
ハートの城の最上階の、あのベッドに横たわっていた青年と同じだった。顔も、服装も。違うのは、この絵が白黒であり、青年には表情があったことだった。穏やかに笑っていた。もちろん実際に見た青年は白黒ではなく、眠っていたために無表情だった。金髪で、赤と白の服を着ていた。
アリスは眉をひそめた。ハートの女王に違和感を持った。青年と同じように穏やかな表情をしていたが、そのことではない。
じっとその絵のハートの女王を見た。
確かにどれほど見てもハートの女王にしか見えない。
しかしいまのハートの女王とは、別人だった。
白黒ゆえに断定はできないが、黒髪、であることは変わりないようだ。しかし、顔立ちや体格が微妙に違った。美人であることは同じだが、顔に至ってはまるっきり別人だった。
「どういうこと……?」
いったいこのハートの女王は誰なのだろう?
いまのハートの女王はいったいなんなのだろう?
どちらもハートの女王である。そうとしか見えない。しかし、どうして違いがわかるのだろう? 何故違うのだろう?
アリスはふとある考えに至った。
いまのハートの女王は、補われたほう、ということなんだ。つまり、はじまりからいたハートの女王ではない。
ふつうに階段を上がったときに鳴るであろう足音を聞いて、アリスは我に返った。
足音が、焦ったこころにはっきりと届く。そしてそれは、扉を挟んだ向こう側の廊下で立ち止まった。アリスは思わず息を止め、扉を食い入るように見ていた。
そして扉がわずかに開いた。と同時に窓ガラスが盛大に割れ、なにかが部屋に飛び込んできた。
「ああ……っ」
飛び込んできたものを見て、アリスは後ずさった。
「くふふ、ふははははっ! よもやここに来ているとは思いもよらなかったぞぉ、アァァァアリィィイイス」
とうとう頭までいかれてしまったのではと、ハートの女王は口の端を極限まで上げていた。目はカッと開かれ、赤い目がぎらぎらしていた。アリスは全身の血が内側へ逃げていくのを感じた。
「まだ、諦めてなかったんだね」
背後から朗々と声がした。初めて聞く、若い男の明瞭な声だ。アリスは振り返ろうとした。
「一足遅かったなぁああああっ! 貴様の負けだぁぁぁあああっっ!!」
どうっと背中を斬り付けられ、それから首を斬られた。アリスは一回転して、床に崩れ落ちた。首と背中に焦げるほどの熱さを感じながら、アリスの五感は妙に澄んだ状態になった。
ハートの女王が勝ち誇ったように叫んだ。
「あはははははははっははっははははっっ!!! またしても妾の勝ちだ! 貴様には永遠の夢をくれてやるよぉぉおおおお、ハートの王めがぁあああっっ!!!!!」
アリスはそれきり、なにも覚えていない。