「彼女の名前は、本当にそれかはわかりません」 2
「いいえ。彼女は生きています」
皆がいっせいに扉のほうに振り向いた。
アリスだけは、振り向くのに一拍遅れた。
「勝手に中へ上がったことをお詫びいたします、公爵夫人。ですが、ぼくもまた、女王様を止めて頂きたいのです」
哀願の眼差しを向けて、白ウサギが胸に手を当てていた。
「どういうこと?」
公爵夫人が立ち上がる。
「最初のアリスが生きているってどういうことなの? アリスの存在は認められていないのよ? 有り得ないわ!」
「……それでも、彼女は生きているのです」
複雑な表情で白ウサギはなおも言った。
彼自身、ハートの女王への忠誠心というものを抱えているだろうに、それでもアリスたちに重大な情報を話した彼の意図はいったいなんなのだろう?
彼はあの扉が、釘で打たれ、鎖で覆われていることを知っているのだろうか。
「有り得ない……有り得ないわ……っ」
ソファーに座った公爵夫人は、怯えたように震える肩を抱き締めて何度も呟いた。
「彼女は、はっきりとした場所はわかりませんが、ハートの女王によって捕らえられています。おそらく、ハートの城のどこかに……」
白ウサギはそこでことばを切った。罪悪感が彼の顔を覆っていくのがわかった。アリスはそれがわかっていながら、ソファーから立ち上がることができなかった。
「それじゃあ、話は早い。彼女を助ければいいんじゃないかい?」
それまで黙っていた青虫がつと言った。
「と言うと?」
アリスの代わりにチェシャ・ネコが首を傾げた。
「ハートの女王は最初のアリスと会って変になっちまったんだ。変になった原因を知っている彼女を助ければ、ハートの女王を元に戻す方法がわかるかもしれないだろう?」
「なるほど」
チェシャ・ネコはアリスの代わりに頷いた。
「だそうだ、アリス」
「……ええ、わかったわ」
そうこたえるのが精一杯で、アリスは額に手を当てた。
「じゃあ、その最初のアリスを助けに行けば……いいのね」
アリスは気持ちが落ちていくのを感じた。
またもハートの女王に殺された彼女は、本当にこのままでいいのか、わからなくなっていた。殺されるのは、あっという間だった。しかし首に触れた刃物の冷たさは、アリスの頭に不安と恐怖を産み落とすに充分だった。アリスは二の腕をさすった。
あと何回、自分は殺されなければならないのだろうか。
「……彼女を助けに行くのは良い案だと思います。ですが、女王様はとても強いお方です。おそらくみなさんが束になっても、勝てないと思います」
白ウサギがそう言い終わるが早いか、公爵夫人は叫んだ。
「そら見なさい! ハートの女王に挑もうなんて、命知らずのすることだわっ! それ以前に、女王に楯突くこと自体おこがましいのよ!? あなたたち、自分がなにを言っているかわかってるの? 低俗であったことを忘れるなんて、身の程を知りなさいっっ!!!」
余程叫びきったのか、公爵夫人は息切れしてソファーにまた座った。小柄なその体のどこにそれほど叫ぶ気力があるのか不思議なくらい、彼女の怒号は激しかった。なんにしても気分を害することしか言わない公爵夫人である。
「そういえば……」
公爵夫人のことばなどお構いなしの青虫の軽い呟きに、アリスは耳を傾けた。
「だいぶ前だったんだけどね、ハートの王がいたんだよ。そのハートの王なら、ハートの女王に勝てるかもしれないねぇ。なんたって王様だし」
「本当にそんなひと、いたの?」
アリスは訊ねた。あの、城の最上階の部屋のベッドに横たわる青年は、ハートの王である可能性がある。しかしあの鎖のしかれた扉を前に、確かにアリスは絶望した。たとえ彼がハートの王であったとしても、そこを越えなければ意味がない。そもそも彼がハートの王なのかすらわからない。仮にハートの王本人だったとしよう。しかし本当にハートの女王に対抗できうる存在なのだろうか。
不確定要素がありすぎて、いまだ勝率は零以下に思えた。これでは万に一つの確率の賭け事と同じである。
「ああ、いたことは確かだよ。だけどハートの女王が、ほら、最初のアリスと会ってひとがかわったあとすぐにハートの王を城から追い出しちまったらしくてね。行方知れずで、どこにいるかもわからないのさ」
皆はハートの王の状況を、そういうふうに自ら知ったか、誰かから知らされているようだ。アリスは一瞬、頭の中でなにかが引っかかった気がした。だが、なにが気掛かりなのかわからない。
チェシャ・ネコがなんでもないように言った。
「でも、ワタシたちの存在を管理しているのはハートの王だったはず。いなくてはおかしいが、もしかしたら管理者が代わっていて、ハートの王はニセウミガメのように存在が不必要になったのかもしれない。つまり、存在していないかもしれないということだね」
「その、ニセウミガメって?」
アリスが初めて聞く名だった。
「ニセウミガメは、泣き虫でね。ずっと昔は本当の海亀だったらしいけれど、いつのまにかニセウミガメになってしまったらしい。翼ある青年とよく一緒にいたのだけど、いつの間にか消えてしまった。翼ある青年はひどく悲しそうだった。ワタシはいまこうして何事もなく話しているけども、実際、ニセウミガメの顔を思い出せずにいる」
チェシャ・ネコが青虫を見ると、腕を組んだ青虫も唸りながら頷いた。青虫もニセウミガメの顔を、姿を思い出せないようだ。いなくなってしまった住人は、彼らの記憶に留まれないらしい。
どちらにせよ、いま、城のベッドに横たわる青年の容姿を話したところで、ハートの王であるか否かは確認できないだろう。ここに住む彼らは、実際に会うことで相手を認識しているところがあるようだ。会っていなければ、その分だけ自分の中の相手が薄れていく。
「さっきからあなたたちはニセウミガメと言っているけど、わたくしはさっぱりだわ。そんなひと、本当にいたのかしら?」
公爵夫人に至っては、ニセウミガメの存在すらなかったことになっていた。アリスもニセウミガメのことなど知らないが、すこし薄情じゃないかと思った。
「ニセウミガメのことはとても不憫に思います。ですが、きっと王様も生きていらっしゃるはずです」
白ウサギはなおも言った。彼は確信があるようだ。
「王様を捜しましょう、アリス。彼女を助けるには、それしか方法はありません。力を貸してください。どうか、女王様を止めて、彼女を助けてください」
彼は本当に彼女を止めたいのだろう。
白ウサギの真剣な眼差しを受け、アリスは戸惑った。
「わたしに、できるのかな……」
そう。
確かに、ここに来た当初よりは、あらゆることが進んだ。
目的もできた。
こたえの出し方も、すこしわかってきた。
けれど同時に、こわくて、うんざりしてもいた。
あと何回、こんなことを繰り返さなくてはいけないのだろうか?
あと何回、殺されなければならないのだろうか?
誰ともこの気持ちを共有することのできない歯痒さと孤独が、アリスを蝕む。
快活な者であれば、きっと自分の使命だと言って、向かっていくだろう。
諦めを備えた者は、これも運命だと、容易く受け入れただろう。
けれどアリスは、端から受け入れようとも考えていなかったことを突き付けられ、それと対峙しなければならなかった。
「アリス」
青虫が目の前に来て、アリスの力んでいる手にそっと自分の手を置いた。
「すこし、外に出ようか」
アリスはすこし驚いたが、青虫と共に玄関から公爵邸の外に出た。ほかは誰もついて来なかった。
「……すこし疲れただろう。沢山のことを聞いたからね。私も、久しぶりにニセウミガメのことを聞いたし、ハートの王のことを話したよ。こんなふうに皆と話すことなんて、あんまりないからね。彼らのことを思い出した私も、正直驚いてるんだ」
静かに言う青虫。アリスは黙っていた。
「アリス。ついでに思い出したことがあったから、言っておくことにするよ。最初のアリスのことはさっき言ったね。いいかい? あんたはその子に名前を返さなきゃならないんだよ」
アリスは怪訝そうに眉を寄せた。
「どうして? わたしはアリスよ? アリスなのよ? それなのにどうして名前を返さなければいけないの? そんなのおかしいわ」
青虫のことばを受け入れられず、アリスは首を横に振った。
「これが〈約束〉なのか、私にはわからない。だけどね、絶対に返さなきゃいけないよ。アリスという名前は、本当の意味ではあんたのものじゃない。もし名前を返し忘れたら、向こうに行っても、その名に刻まれた理由と意味を背負うことになる。名前はね、識別番号のように思うかもしれないが、大きな存在が宿っているんだ。あんたはずっと、ここにいるつもりかい?」
青虫は気の毒そうにアリスの顔を覗き込んだ。アリスは思わず、ずるずると後ずさった。
「向こうってなに? 向こうなんていうものはないわ。ここ以外の世界があるなんて、信じられない。わたしの名前は初めからアリスよ? 白ウサギがそう言ったわ。わたしはアリスなのよ。それに、わたしはここにいるべきだわ。この世界は初めからわたしがいることを望んでいるもの」
声が震えてくる。喉が渇いて仕方がなかった。
青虫はふうと息を吐く。
「それでも、なのさ。必ずその子に名前を返して、自分の名前も思い出すんだよ。そうしないと、大変なことになる」
「大変なことってなんなの?」
「そればかりは」
青虫は首を横に振った。知らないのか、教えられないのか、それは言わなかった。
「……」
アリスは驚いていた。
自分がこれほどまでにアリスという名を受け入れていたことに。
しかし、本当に自分はアリスで、それ以外でもなんでもないと思っていた。それなのにまだこころの片隅で、本当に自分はアリスなのだろうか? という疑問が湧いていた。
『俺はおまえがアリスであることを、絶対に認めないからな』
グリフォンのことばがまだ引っかかっていた。
「急に変なこと言って悪かったね。アリス。あんたが私を求める限り、私はここにいるよ。できることはしてやるよ。だから、そんな顔をしないでくれ。私まで、悲しくなっちまうよ」
余程思い詰めた顔でもしていたのか、青虫は本当に悲しそうに笑って、アリスの頬を優しく叩いた。
「……ごめんなさい」
アリスもそんな彼女を見て悲しくなり、つい謝りたくなった。
「どうして謝るんだい?」
「なんとなく……」
「変な子だね。あんたはなにひとつ間違っていないんだ。本当は、アリス、あんたが正しいんだよ。私たちは本来……」
青虫はそこでことばを切って、ふと懺悔するように呟いた。
「謝るのは、こっちのほうだよ」