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Our Alice-ぼくらのアリス-  作者: 近藤 回
証言七十六
14/21

「彼女の名前は、本当にそれかはわかりません」 1

 グリフォンの青い瞳には、青い海と青い空が映っていた。

 崖の下のほうから、波の砕ける音が響く。絶壁の上、草原の広がる場所に座っている彼に、風は時に優しく、時に激しく吹き付けた。

 どれくらいぼうっとしているか見当がつかないが、グリフォンは相当ぼうっとしていることは自覚していた。けれどこうしている間だけ、なにも考えずにいられた。貴重な、それでいて、彼が昔、アリスと別れてから多大に増えていった時間だった。

 いや、この世界には、時間がないのだという。

 暮れることを忘れた空は、青い色が変わらずに漂いつづけていた。

 崖下の波も、ただその動きと音を繰り返しているだけだ。

 ふと視界の端になにかが映り込む。グリフォンはその定まらないなにかを明確にさせようと首を向けた。

「ぼくが、見えるんだね」

 空ろな赤い瞳が、安堵の微笑に細まった。

 グリフォンは奇妙な驚きが、這うようにこころを覆うのを感じた。畏怖や尊敬、恐怖、哀感、それから歓喜の入り混じった複雑なものだった。

 向こうにいるのは、未だかつて一度も見たことがなかった存在だった。

 考えれば考えるほど、相手の輪郭が、姿がはっきりとしてくる。

 相手は、白いマントを羽織り、黒い服を身につけ、赤黒い頭巾を被った、少女だった。

 グリフォンは慌てて立ち上がった。得体の知れないものを見定めようとするように、彼は眉間にしわを寄せて、少女を見遣った。

 しばらくグリフォンがことばを出せずにいると、少女は首をすこし傾けて言った。

「君に頼みたいことがあるんだ。聞いてもらえるかな?」

 グリフォンはこたえることができなかった。口が半開きになっていることすら気付かなかった。

「アリスのことでお願いがあってね。また彼女を助けてあげてほしいんだ。たぶんまた、ハートの女王に捕まってしまうだろうから。あ、でも、この前は捕まってはいなかったよね」

 少女はなにを語るにも物悲しそうにしていた。

「……おまえが、あの老いぼれに話したのか」

 グリフォンは辛うじて言う。

「なにを?」

 少女はわからないようだ。グリフォンは苦しさで唸るように、補足する。

「あの女がハートの城にいるから助けに行けと、俺は老いぼれに頼まれた。老いぼれは、確かになにもかもを知っているかもしれない。だが、あの女がいまどこにいるかまではわからないはずだ。俺たちはそこまで万能じゃない」

 少女はなにかを思い出したように無表情になると、すぐに笑みを模って、頷いた。グリフォンは、その一挙一動に何故かこころを揺さぶられていた。

「そのことなら。確かにぼくが青虫さんに伝えたことだ。ただ青虫さんは、自分で思い付いたことだと思っているだろうけどね。実際には君が助けに行くことも想定していたんだ。ありがとう。あんな、必要以上に、アリスをあんなふうにはさせたくなかったから……」

 少女はそこでことばを切り、俯く。『あんなふう』というのはいったいどんなふうなのか、まったく理解できないが、グリフォンは腹を決めて、一歩一歩少女に近付いていった。

 近付くにつれて、目の焦点がぶれてきた。興奮して手が震え、足取りもふらついた。なんとか少女の前に辿り着く。おそれ、かしこまって、目の前の少女に触れた途端、その影が霧散してしまうのではないかと、グリフォンは躊躇っていた。

 ようやく、少女の肩を掴んだ。強く、強く。

「おまえ……アリスなのか?」

 グリフォンは戸惑っていた。

 目の前の少女が、彼にはアリスにしか見えなかったのである。

 髪の色も目の色も服装もまったく違うというのに、目の前にいるのは彼が望んで止まなかった最初のアリス、と同じ少女。

 少女は寂しそうに笑う。

「君には、そう見えるんだね。確かにぼくは、ぼくを形作る上でこの世界の住人であるみんなを参考にしたよ。でも形を作ることができたのはアリスのおかげなんだ。彼女がいるからぼくがいる。君はぼくを認識できるんだね。嬉しいよ。ほかの住人にはぼくを認識できる意識すらないから、きっと君はアリスを認めて、愛してくれているんだね」

 少女の言うことの欠片も理解できないグリフォンは、なおも願うように言った。

「おまえはアリスなのか?」

 そうであってほしかった。

「それは、ぼくが決めることじゃない」

 少女は軽く受け流した。

「それにぼくには名前があるよ。セリクサだ」

 グリフォンは信じられなかった。目の前にずっと待ち焦がれたアリスがいるというのに、その少女にアリスを否定された。そして彼女は別の名を名乗った。到底認めることができないことだった。

 潮の香りが鼻につき、ふと我に返る。

 ここは崖の上の草原で、崖下には海が広がっている。

 自分はグリフォンだ。

 大きく立派な翼とライオンの雄雄しい尻尾を持つ者。

 気高い存在。

 そして考える。

 このセリクサと名乗る存在は、いったいなんなのだろうか。

 この世界に存在しているということは、存在を許された存在なのだろうか。

 セリクサの空ろな赤い瞳や紫の髪を見ても、見たことも無ければ懐かしいなどと感じもしないのに、愛情と無関心と許容と反発が同時に湧き上がってくる。

 海岸近くの岩場に座ってニセウミガメの話を聞いていた、あの頃のような愛しさ。

 アリスが来るたびに繰り返した落胆。その間のニセウミガメの消失。

 あの娘をアリスではないと否定したときの満足感と、軽く笑い返されたときの憤り。

 セリクサを見ていると、これまで見てきたアリスの顔が頭をよぎった。

 そして最後には。

 グリフォンはその幻想を振り払おうと歯を食いしばった。

「グリフォン」

 ぽん、とセリクサがグリフォンの肩に触れた。

「アリスをよろしくね。きっとまたハートの城にいるよ。今度は……地下牢あたりかな」


 それじゃあね。


 グリフォンの瞬きひとつの間に、セリクサは消えた。

 いま自分が触れていたものは、いったいなんだったのだろうか。

 あんなふうに一瞬にして消えるものが、この世界にあっただろうか。

 すくなくとも、ニセウミガメのときは違っていた。徐々に姿が薄らいでいったが、すぐには消えたりしなかった。触れなくなっても、見えていた。

 それなのに、消えた。

「ったい、なんなんだよ……なんだってんだよっ!」

 留めておきたかったからこそ強く掴んでいたのに、悔しさでやけくそに腕を振った。

 何故忘れていたのだろう。

 いままで何気なく見ていた空と海。

 そこに広がっている色は、アリスの瞳の色だったのに。

 それなのにいま、一瞬見えた色は、緑だった。



 どうしようもない渇きが、彼女のこころを支配していた。

 憎くて、憎くてたまらないはずなのに、憎しみが働かない。

 ハートの女王は扉にまかれた鎖を断ち切り、打たれた釘のせいで開かなくなった扉に黒い刃物を振り下ろしていた。木製の扉はやがて破片を飛ばし、熊の爪で引っかかれたよりも酷い跡が増えていった。

 何度も、何度も、打ち付けては、何度も、何度も、手を止めようとした。

 ああ、だめだ。開けてはいけない。この先に行ってはいけない。

 黒い髪を振り乱して、彼女は無我夢中で刃物を振り下ろす。憎い者の首を刎ねるように、必死になって誰かを助けようとするように。

 扉は音を立てて壊れた。荒い息に肺とこころを苦しめてまで、ハートの女王は追い詰められていた。

 目を見開いたまま、震える足で部屋に入る。

 そこには、天蓋付きのベッドがあった。

 その向こうにいる者のことを思っただけで、ハートの女王は凍るほどの憎悪と、焼かれるほどの愛しさを感じた。相反する感情が、彼女の行動を疑わしくさせた。どのように行動をしていいのか、彼女自身混乱していた。

 一歩進んでは一歩戻り、逡巡の歩みを繰り返しながら、ハートの女王はベッドに近付いていった。

 呼吸が浅くなり、体が震えた。絨毯に一歩一歩踏みしめるようにして、足を動かす。

 天蓋から垂れ下がった薄い布が、ハートの女王とベッドに眠る者を隔てる。彼女にとってはそれが自身を守る鉄壁に思えたし、同時に、忌々しいものにも思えた。

 震える右手でその布を掴む。左手で、右手から布を外そうとしたが、できなかった。

 迷いが迷いを生んでいく中、ハートの女王はその布を開けた。

「あ……ああぁ……っ」

 彼女は頭を抱えるように掻きむしり、その場に座り込んだ。

 歪み切っていなかった顔が、目が、こころが、歪んだ。

「あああっぁぁああああぃいやあああああっぁぁあぁぁぁぁああっっ!!!!!!!」

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