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Our Alice-ぼくらのアリス-  作者: 近藤 回
証言五十一
11/21

「殺される理由は、彼女だけが知っています」 2

「ここは……」

 そこは、アリスが最初にいた広場だった。

 最初にこの広場で空を見たときから、随分と経った気がした。

「ここから、アナタがはじまった」

 傍らのチェシャ・ネコが言う。彼は草むらを見渡した。

「それから、時に囚われない少年がアナタを見ていた。アナタは名を与えられた」

 チェシャ・ネコの語りに耳を傾け、目蓋を閉じたアリスは思い返していた。記憶のはじまりを。

「アナタはなんらかの行動を起こさねばならなかった。理由は知らない。それでもアナタはわからなければならなかった。ワタシの与えた手がかりを抱えて、帽子を売らない青年のところへ行った」

「そしてハートの女王の庭へ行って……」

 一度、殺された。

 そこからだ。なにかがずれはじめていった。

 見上げた空はまだ青い。色を変えない、暮れることを知らない空が、この世界を覆っている。

「面白いことにね、アリス。アナタだけがここに降り立ったわけではないんだよ」

 アリスは目蓋を開けた。チェシャ・ネコは言う。

「アリスは何度もここに来た。もちろんアナタではない。皆、違った。けれど、アリスだった。アリスはこの世界を見て回った。そしていつも赤い瞳の女に殺された。……アリス、アナタは知っていたようだ」

「はっきりと聞いたわけじゃないけど、知っているわ。ハートの女王の庭に沢山のお墓があった。あれは」

 わたし(アリス)のだと言っていた、ということばが出なかったが、アリスは無視して話をつづけた。

「それにヤマネも言っていたわ。あなたは死ななければならない、って」

 そして、アリスにも代えがきくのだと言っていた。ということは目の前のチェシャ・ネコも、何人目かのチェシャ・ネコなのだろう。あるいはまだ代わっていないのかもしれない。

「そう。お墓の数ほどにアリスは殺されてきた。そのたびにアリスは来た。時に囚われない少年がアリスを呼び、そしてまたアリスは殺される。それをずっと繰り返してきた。それがこの世界の有り様」

「それは、最初からそうだったの?」

 アリスは問いかけた。

「最初から同じものなんて、なにひとつありはしない。はじまりの少女が来たとき、ルールはなにひとつなかった。ないことこそがルールだった。それなのに」

「チェシャ・ネコっ!」

 彼を一喝する声が飛んできた。四方の森の一角に女の子がひとり、すごい剣幕でこちらを見ていた。女の子は足を踏み鳴らして近付いてくる。

「あなた、ペットの分際ですこし喋りすぎじゃないかしら? あなたは傍観者でしょう? アリスにヒントを与えるなんて、柄じゃないはずよ!」

「おやおや、我が主。なんともきつい物言いで。だけどワタシは気まぐれなネコ。なにをしようと違和感はないはず。それに柄じゃないなんて、誰がワタシを決め付けた?」

「そんなの誰でもないわっ!」

 青い髪を乱し、女の子、公爵夫人は絶叫した。チェシャ・ネコは痛くも痒くもないようで、いつも通り笑っていた。

「ちょうどよかった。アリス、ワタシよりも我が主のほうがそのことに詳しい。我が主に訊いてみては? それからもうひとり、サー・グリーンも呼ぼう。グリーンも詳しいからね」

「勝手に話を進めないでちょうだい!」

 公爵夫人はカンカンになって、とうとうチェシャ・ネコの前に立ち、彼の胸倉を掴んだ。頑張って凄んではいるものの、どう見ても可愛く、チェシャ・ネコの胸というよりは鳩尾あたりの服を掴んでいた。ハートの女王の庭園で見たときの彼女とは印象が違って見えた。

 そうだ。

 彼女もあのときあの場にいたのだ。

 アリスは唐突に不安になった。

「まったく、踏んだり蹴ったりよ! ハートの女王に呼ばれて行けば、女王はお茶会をすっぽかすし、挙句の果てにはさっさと帰れですって? どれほど待ったと思ってるのよ! 理不尽だわ! おまけにあなたは勝手にアリスに会って、いったいなにをしたかわかってるの? あなたはあなたを壊そうとしているのよ?! って、言ってるそばから勝手に飛ばさないで!」

 アリスはハッとして周りを見た。

「うそ……」

 いつのまにか景色が変わり、三人は公爵夫人の邸の庭に立っていた。いつ来たのかまったく気付かなかった。

「ちょっと!」

 公爵夫人の不満声に振り向くと、チェシャ・ネコはすでにそこにいなかった。

「っもう!」

 ことばにならない非難を抱えたまま、公爵夫人は体の向きを変える。アリスは彼女とまともに目が合った。彼女の目は、笑えないくらいこわかった。

 急に公爵夫人とふたりきりになってしまった。

 公爵夫人と初めて庭園で会ったとき、彼女は曲がりなりにもアリスがいなくなることを望んでいた。そんな人物と同じ空間にいることに、アリスの心臓は狂いそうだった。

 公爵夫人が不機嫌を隠そうともせず、アリスをじろじろと見た。公爵夫人が顎に手を当てたり腰に手を置いたりするたびに、アリスの心臓は萎縮した。頬の痙攣が止まらない。

 やがて腕を組んだ公爵夫人は、これ見よがしに鼻を鳴らした。

「はじめのときよりは、アリスとしての自覚が出てきたようね」

 彼女は踵を返すと、公爵邸の白い扉を開けた。

「なにしているの? 早くあなたも入りなさい」

「あ、ああっ、はい」

「直にネコも帰ってくるわ。……あのオカマを連れてね」

 公爵夫人の後半のことばには多少の嫌みが含まれていた。アリスは、頭のてっぺんが見えるほど背の低い彼女のあとにつづいて、公爵邸の中へと足を踏み入れた。

 中は思っていたよりも広かった。玄関の扉を開けてすぐに大広間があり、ソファーが無造作に配置されている。壁際に暖炉、その上に肖像画が飾られていた。いつか見た、有名な将軍の格好と同じで、天然パーマにひげを蓄えたナイスミドルが描かれていた。

「わたくしの旦那様よ。一度も会ったことがないわ」

 傍らに来た給仕に何事かを言い付けて、公爵夫人は深緑色のソファーのひとつに座った。部屋全体が白を中心に統一されていたが、その色のせいでソファーだけ浮いていた。

「一度も会ったことがないのに結婚したの?」

 アリスはびっくりした。

「ええ。それは、わたくしにとっては当たり前の出来事で、それ以前にわたくしがわたくしになったときから、すでに既婚状態でしたもの。どうしたの? 早くお座りなさいな」

 座ろうか座らないかその場で足踏みをしていたアリスに、公爵夫人は溜め息をつきながら促した。

「し、失礼します」

「ええ。どうぞ」

 閉口。そして沈黙。

 なにも話すことがないアリスは、また部屋を見回した。窓は大きくとられ、光がよく入っていた。そこから見える庭の前には板の敷かれたベランダがあり、お茶会向けであることは明白だった。ここの住人も余程お茶をたしなむらしい。

「おや、アリス。また会ったね」

 声に振り返ると、しわのある顔をにこにこさせた青虫が、アリスの肩に親しげに手を置いた。つい先ほど別れたばかりの青虫は、相変わらず深緑のドレスを着て、首には薄紫のショールを巻いていた。公爵夫人が一瞬だけ苦々しそうな顔付きになった。

「我が主。客人を連れてきた」

 チェシャ・ネコの言っていたサー・グリーンというのは、見て確認した通り青虫のことだった。間近で見た青虫は意外とガタイがよく、思っていたよりも背が高かった。

「そう。勝手に座ればいいでしょう。紅茶はまだなの?」

 すぐさま給仕が台車を押してキッチンから出てきた。公爵夫人は見るからにイライラして、手に持った扇子を開いたり閉じたりしていた。

 ガラスのリビングテーブルにティーカップや砂糖、ミルクの入った陶器が置かれていく。チェシャ・ネコはちゃっかり自分の分を受け取り、ソファーにくつろいでいた。

「チェシャ・ネコ。いったいどういうことなのか、説明してちょうだい」

 口火を切ったのはやはり公爵夫人だった。彼女がこの中で一番状況を理解していないことは確かだったし、青虫はチェシャ・ネコからなにか聞いたのか、わかったふうに笑っていたからだ。チェシャ・ネコは口元を上げたまま黙ってアリスを見た。アリスは目的を思い出し、周りの顔を順々に見た。

「わたしがチェシャ・ネコに頼んだの。わたし、知りたいことがあって、それをどうしたらいいのか訊いたら、チェシャ・ネコがあなたと青虫に訊いてみたらって。それで、わたしが知りたいことは、何故ハートの女王はわたしを殺そうとするのかということ。ハートの女王は、わたしを憎んでいたわ。すごくこわかった。でもわたし自身、彼女に憎まれるようなことをした覚えはないから……」

「そんなの、あなたがアリスだから、という理由で充分でしょう」

 公爵夫人が真っ向から切り捨てた。

「第一、そんなことを知ったところでなにが変わるというのかしら? わたくしにはただの無駄な足掻きにしか思えないわ」

「わたしはっ、ここに存在したいのっ!」

 アリスは思わず叫んだ。何故ハートの女王が自分を殺そうとするのかと疑問に思ったときから、アリスはそう思うようになっていた。

「あなたには確かにずっとここに存在できる保証がどこかにあるんだろうけど、わたしにはないのっ!」

「それが傲慢だといっているのよ」

 公爵夫人はなおも断じた。

「あなたはアリス。〈見えない決まりごと〉を変えようとするなんて、おこがましいにもほどがあるわ。第一、わたくしたちには保証なんてもの、ありはしないわ」

「でもっ」

「お黙りなさいっ!」

 公爵夫人は荒々しく立ち上がる。

「わたくしから言わせれば、あなたなんてまだ幸せなほうだわ! ここにいることがどれほど永遠で深淵か、あなたにはわからないのよ!」

 公爵夫人は閉じた扇子の先を鋭くアリスに向けた。アリスは圧倒され、呆然とした。

「確かに退屈であることに変わりはない」

 チェシャ・ネコが賛同するが、公爵夫人のことばとは意味合いが多少変わっていた。

「まあまあ、そこらへんにしておきな。お互いの言い分があるんだ。どちらが正しいかなんて、誰にも決められることじゃないだろう?」

 仲裁に入った青虫は公爵夫人を見た。

「なによ、オカマのくせに。この世界の道理を正しいと言えなかったら、わたくしたちは正しくない存在になってしまう。そんなこと、あってはならないのよ」

 公爵夫人は噛み付いた。

「頭が相変わらず固いねぇ。正しくなくたって存在はできるだろうに。正しくないってこと自体が正しいのかもしれないだろう。それに、私はオカマじゃないよ、子夫人。私に性別なんてくだらないものはないんだからね」

「あなたが勝手に変えたんでしょう!」

「さあ。それはわからない。だけどどっちにもなれるし、どっちにもならなくてもいいのは気が楽だね。ああ、それからチェシャ。サー・グリーンと呼ぶのはやめておくれと前に言っていただろう」

「しかし、以前のアナタはサーだった」

「いまはマダムだよ」

「わかった、マダム・グリーン」

「それでいい。……ああ、ごめんよ、アリス。あんたの話の途中だったのにね。あんただけ置いていってしまったようだ」

「平気よ。慣れたもの。それに青虫に性別がないなんて驚いたわ。だって、とても素敵なご婦人に見えたから」

「そうかい。嬉しいねぇ」

「いつか紳士のあなたも見てみたいわ」

「これに飽きたら、なるかもしれないね」

 青虫はなにかを思い出しているのか、含み笑いをした。しかし公爵夫人を見て、改めてソファーに座り直した。ドレスと同色のソファーは、まるで青虫の一部であったかのように青虫と存在をともにしていた。

「さて、そろそろ子夫人がまた怒り出しそうだ。アリス。すまないけれど、もう一度私たちに訊きたいことを話してくれるかい?」

「ええ」

 アリスは頷いた。

「わたしは、ハートの女王がどうしてわたしを殺そうとするのか、その理由を知りたいの。どうしてあんなに憎々しそうにわたしを追い駆けてくるのか」

「そうだねぇ。なにを話したらいいのか……。ハートの女王がアリスの首を刎ねることは、皆、そういうものだと思っている。ふつうのことだとね。だからその理由まで考えたことはなかったよ」

 本当に青虫の言う通りなのだろう。公爵夫人はそのことを疑ったり考えたりすることすら冒涜だと考えている様子だし、ヤマネもまたその事実を受け入れていた。帽子屋たちにいたっては、そんなことにすら気付いていない感じだったが……。

「ヤマネもチェシャ・ネコも言っていたけれど、アリスはわたしだけじゃないんでしょう? でもグリフォンは、アリスはいつもひとりだと言っていた」

「この世界に存在できるのは常にひとりだからだ、アリス」

 今度はチェシャ・ネコがこたえた。

「ワタシたちは常にひとりしかいない。同じ役はふたりも要らないからだ。だから翼ある青年はそう言った」

「ああ、なるほど」

 納得できた。誰かがアリスという役をやっている間は、同じ役を誰も担えないということだろう。役に空きが出てようやくほかの誰かがアリスをすることができるのだ。だから常にアリスはひとりしかいない。

「じゃあ、やっぱりわたしより前に、アリスはいたのね」

「その通り」

 充分に冷め切った紅茶を飲むチェシャ・ネコは、とても嬉しそうだった。

「じゃあきっと、そのわたしより前のどれかのアリスが、ハートの女王を怒らせるようなことをしたのね?」

「いや、むしろそれらのアリスも被害者に過ぎないだろうね」

 青虫が言った。

「どうして?」

「私の記憶では、ハートの女王が豹変したのは最初のアリスが来たあとだからさ」

「最初? 最初ってどういうこと? アリスは最初からいたんじゃないの?」

 頭が混乱しそうだった。アリスという存在は、ここにいる皆と同じように、最初から在るものだとばかり思っていた。アリスはぐいーっと頬を引っ張った。痛いし、ちょっと伸びた。

 青虫は神妙に話し出す。

「この世界に来た、最初のアリスのことだよ。私たちははじめから、それこそ自分の意義を持たされたときから彼女を知っていたわけじゃなかった。わからなかった。彼女はこの世界に来た最初の『変化』だった。彼女は自分から名乗った。自分はアリスというのだと。そしてこの世界の住人たちに会い、自分の存在を知らしめた。こんなにへんてこで、おかしくて、面白い世界はほかにないと言っていた。私たちも、最初は彼女の存在を認めるのには抵抗があった。新しいものだからね。それでも彼女を何度も見て、感じたら、いつしか彼女を認めていた。認めたと気付かないまでにね」

「……だけど彼女は、ハートの女王に会いに行ったきり、帰ってはこなかった」

 公爵夫人は仕方がなさそうに、しかし悲しみを湛えた目をティーカップの中に向けていた。

「それからよ。ハートの女王はひとがかわってしまったように、それまでとはまったく違う、傍若無人なひとになってしまった。アリスとの間でなにがあったかはわからないわ。けれど言えることは、最初のアリスはすでに存在していないということよ。ここにアリスがいるんですもの。それに最初のアリスとか前のアリスとか言っているけれど、わたくしには皆、同じようにしか見えないもの。当然あなたも最初のアリスと変わらない。アリスとしか思えない」

 悲しそうな公爵夫人は、アリスを苦しそうに見た。

 アリスは噛み締めた。自分がアリスである限り、アリスがここにいる限り、ほかにアリスは存在できない。そしてまた、自分がアリスでなくなったとき、自分ではない別のアリスが存在しているということで……。

「いいえ。彼女は生きています」

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