「殺される理由は、彼女だけが知っています」 1
「それでも」
青虫はうんざりしたように頭を振った。
「それでもこの子はアリスだよ。いろんなもんを忘れてはいるが、私にはアリスにしか見えない。あんたも、そう見えてるんだろ?」
グリフォンは悔しそうに押し黙る。地面に生えたちいさなキノコを、彼は腹いせに蹴飛ばした。
「さて、アリス」
紫の瞳がアリスに向く。アリスは夢見心地で、青虫を、世界を眺めていた。
「あんたは、一応はハートの女王の手から逃れたことになる。私ができるのはここまでだ。あんたこれから、どうしたい? なにがしたい? そろそろなにか行動を起こしてもいい頃なんだがね」
「こいつは俺を知らないと言った。噂では自分がアリスであったことも忘れていると聞く。そんなやつがなにかできるとは思えないな」
グリフォンは近くのキノコに座り、腕を組んだ。まだ文句があるらしい。
「一応欠けている場所だからね。偶然にしろ必然にしろ、それが補われたのは当然のことだろう。あんたと議論している暇はないんだがね」
「それはこっちのセリフだ」
「なら黙っておいで。私はアリスと話してるんだ。ねぇ、アリス」
「……」
アリスは青虫に改めて向き直った。
「さあ、アリス。これからどうするんだい?」
アリスは地面を見詰めた。
……あったんだ。
あれは本当にあったことなんだ。
では何故いま自分はここにいるのだろう。
どうやって戻って来たのだろう。
確かに自分の胸を貫いた刃物。
あれの感覚は、忘れることなどできない。
「……っ」
頬が引きつり、肩が震えた。アリスはそれを黙らせるように右手を左肩に置く。やはり止まらない。
『いいえ。我々にとっての事実です。あなたにとっての嘘。あなたは死ななければならない。我々のルールに則って、アリスはハートの女王に首を刎ねられなければならないのです。一番新しいルールに則って』
ヤマネの言った通り、自分はきっとまた、殺されたのだ。
「……どぅ……し、て」
アリスは回らぬ舌で言った。
「どうして……ハートの女王は、わ、たしを……殺そうとする、の……?」
「さあ。それは知らないね。知っているはずのあんたがそれを忘れている以上、ハートの女王に訊かないことにはね。なんだい、グリ坊。そんな顔して、アリスが心配かい?」
「なっ、俺が心配なんて、そんなものするかっ!」
グリフォンは慌てたようにがなった。青虫はへらっと笑う。
「じゃあ、その顔をこっちに見せないでおくれ。柄にもないもの見て変になりそうだ」
「おまえがこっちを見なければ済むだろうが!」
「そうかい? そりゃ悪かったね。ねぇ? アリス」
青虫はアリスににこりと笑いかける。グリフォンは歯噛みしながら青虫を睨んだ。アリスは青虫とグリフォンを交互に見ていたが、また話し出した。
「ハートの女王は、わたしを……憎たらしそうに見て、いたわ……。なにかある、としか思えない。わたしは、それを……知りたいと思う」
アリスがようやく見付けた目的に、青虫は満足そうに頷いた。
「そうかい。見付かってよかった。これであんたは、空しさから離れていけるね。それじゃあ、頑張るんだよ」
「……うん」
アリスは頷き、グリフォンに顔を向けた。
「ありがとう、グリフォン。あなたのおかげで助かったわ」
アリスが素直にお礼を述べると、グリフォンは目を点にした。その様子を心外に感じたが、アリスは顔に出さなかった。
「もしかしたら、あなたの言う通り、わたしは、……アリスではないかもしれない。それでも、わたしはアリスで……ハートの女王に殺されるわ。でも、それをそのまま受け入れたら、わたしがいったいなんなのかわからないままになってしまう。それに、やっぱり死にたくはないわ。だから……仮初めでも、わたしはアリスよ」
彼がそっぽを向いても、アリスははっきりと言った。
アリスは初めて、いま、アリスでいたいと思った。
「わたし、これから行かなくちゃ行けないところがあるの。だから行くわ。確かめなくちゃいけないことがあるから」
「ああ、それはよかった。アリスらしくなってきたね。ほれ、グリ坊。なにか言ってやんな」
水タバコの吸い口をグリフォンに向けて、青虫が促した。グリフォンは忌々しそうに青虫を見て、またそっぽを向いた。
「おまえなんて、どこへでも行けばいいんだ。俺には関係ない。俺はただアリスを待っているだけだ。断じておまえじゃないぞ。いいか」
グリフォンはアリスを指差した。
「俺はおまえがアリスであることを、絶対に認めないからな」
アリスは、思わずくすっと笑ってしまった。
「なっ、なにがおかしいんだっ!」
グリフォンは真っ赤になって憤慨した。
アリスはそれでも笑いが止まらなかった。
まったく逆のことを言われたのに、存在を認められている気がしたのだ。
*
「え?」
アリスは我が耳を疑った。
「だから、ヤマネはもういないんだって」
野外のテーブル席に着いている帽子屋が、紅茶を飲みつつ言った。まるで『売り切れたものは売り切れたんだから仕方がない』とでも言うように、ことばが軽かった。
「そうそう。ヤマネね、死んじゃったの」
彼の隣に座っている三月ウサギもそれに倣うように言った。
「え、なん、……どういうこと?」
頭の中で、遅かった、と誰かが呟いた。
「だーかーら」
帽子屋は大きく溜め息を吐く。
「ヤマネは死んだ。ここにはいない」
「でも、だってさっきは」
まだ生きていた、ということばが喉から出てこなかった。
あれは、自分だけが見たことだ。
彼らは知らない。わからないのだ。
「確かにアリスが来たときは生きてたけど、ついさっき死んじまったんだよ。だけどいずれ代えが来る。俺たちはそれまでヤマネなしで過ごすだけのことさ。不便でもないし、なんでもない。あー、暇だ」
欠伸をかいている帽子屋を見詰めながら、アリスは呆然とした。
ヤマネなら、何故ハートの女王はアリスを殺すのか、理由を知っていると思っていた。しかし彼がいないいま、なにを頼りにすればいいのだろうか。
それ以前に彼らの態度は、いまのアリスには到底許せるものではなかった。
「……代えがきくだの、補われるだの、いったいなんなのよ! ヤマネが死んだのよ? あなたたち悲しくないの? 仲間でしょう!?」
アリスは堪らず叫んだ。帽子屋と三月ウサギが急に胡散臭く見えてきた。本当は、そんなふうに彼らを見たくなかったが、怒りがふつふつと湧いた。
「あっはははっははははっはははっ!」
三月ウサギが腹を抱えて笑い出した。
「アリスってばおかしなこと言っちゃって、だいじょうぶう? まあでも、そんなことを言うのはアリスしかいないし、やっぱりアリスはアリスなんだね。ね、帽子屋」
「そうだな」
帽子屋は含み笑いをしてみせる。アリスは驚きに目を見開いて、腹立たしさに唇を引き結んだ。踏ん付けてやりたい。
「ねえ、アリス。この世界にいる以上、この世界の〈約束〉をわからないでいるなんて、命知らずにもほどがあるんだよ?」
三月ウサギは得意げに言う。
「あたしたちはそれらをわかっている。でも知っているわけじゃない。感じられるの。なにも言わなくても、あたしたちはそれらをわかってる。でもわかってるだけ。それらを共有しているけれど、あたしたちには仲間なんていう繋がりなんてないの。わかるかな?」
彼女は満足したように笑っていた。
アリスはぶん殴りたいと思った。
しかしすぐに、なんてことを思っているんだと、思い直した。あれは本当に、あの三月ウサギなのだろうか。いまの彼女は、感情のタガが外れかけているように見えた。
帽子屋がカップの中にミルクを注ぎながら、三月ウサギのことばを継ぐように言う。
「俺たちを繋ぐものは、そんな綺麗なもんじゃない。俺たちは形の定まらないパズルのピースみたいなもんさ。合えばいい。いや、合わなきゃいけない。俺たちを繋ぐものは、パズルの枠みたいな、型みたいな、外側の囲いだけ。それが取れない限り、ずっと、ずっと、中身はどうであれ……同じままだ」
ミルクを注いだはずなのに、彼の紅茶は、透明な赤茶色のままだった。
「そんなの、割り切れない」
吐くように言ったアリスは、手を強く握った。
ヤマネは言った。アリスも例外ではないと。自分にも、代えがきくのだと。
だったら、きっと自分は歓迎されない時間を生きているに違いなかった。アリスがハートの女王に殺されるということを考えれば、アリスが生きていること自体が、この世界の〈約束〉を破っているに等しい行為のはずだからだ。
ハートの女王は必ず自分を殺しに来る。
これから、どう動けばいいのだろう。
いったい誰に、なにを訊いたらいいのだろう。
『これからどうしたいのか知りたければ、誰かに訊ねるといい。「もしもし、ここはいったいどこで、あたしは誰で、これからどうすればいいですか?」って。みんなアナタがなにかをするのを待っている』
チェシャ・ネコはそう言った。では、訊ねればいいのだ。
あのときと違って、いまの自分には、なにをどうしたいのか、なにをどうしたらいいのかわかっているのだから!
「チェシャ・ネコ! いるんでしょう? わたしの問いにこたえて!」
アナタはこれからどうしたい?
突然、雲の漂う青い空の全体から声が響き、地面が揺れた。テーブルもその上のティーカップも、帽子屋と三月ウサギも揺れた。
アリスだけは、揺れなかった。
「わたしは、ハートの女王が何故あれほどわたしを殺したがるのか、その理由を知りたいの! でもそれを問えるヤマネが死んでしまった。わたしはこれからどこに行けばいいの? そこでなにをすればいいの?」
なるほど。アナタはアリスへの階段を上りはじめたわけだ。
それなら、ワタシもこたえを言える。
まだ声の響き終わらぬうちに、チェシャ・ネコが空中にパッと姿を現し、猫よろしく何事もなく地面へ着地した。
「やあ。待っていたよ、アリス」
立ち上がったチェシャ・ネコが、眼鏡の位置を調節しながら微笑んだ。何故か、アリスは泣きたくなった。
「アナタはこれから、アナタのために行動する。そしてこたえを見付ける」
「見付けるだけじゃダメなの」
「もちろんだ。アナタがしようとしていることは、〈見えない決まりごと〉への挑戦。それを破るために?」
「ええ。わたしは……知りたいから。こたえの先を」
「それじゃあ、ほら、着いた」
「え? ええっ!?」
*
いま、確かに手がぴくりと動いた気がした。
それを見た途端、どす黒い絶望が彼女の頭を支配した。ハートの女王は血相を変えて部屋から飛び出た。
まさか、まさか、そんな、有り得ない。
まだ時間はあるはずだ。まだあれが眠りから覚めるときではない。
それとも、約束はとっくに破れてしまったというのだろうか。
だめだ。
考えるな。
考えたらやつの思う壷だ。
負けを認めるようなもの。
砂を噛み締めるような絶望がどこからともなく溢れてくる。
思うな。
考えるな。
とまれ!
不安ばかりが身を覆ってくる。雪のように確実に積もっていく。不安は冷たくはないが、気持ちの悪い温度を保っていた。丁度、ひとの体温のように。
震える手で扉に鍵をかけた。鍵がうまく引き抜けなかった。それでも、施錠した、という事実が彼女に一時の安らぎを与えたのは確かだった。内側から開けてしまえば意味がないというのに。
「~~っ、帽子屋ぁっ、ぼうしやあぁあっ……ここに来てぇ。いますぐ、ここに来てぇっ……っ」
ハートの女王は扉の前でへたり込むと、泣きながらシルクハットを被った青年の名を呼んだ。声は廊下を反響し、あたりを満たした。
「女王様っ! どうされたんですか」
やはりそれほど間を置かずに、白ウサギは血相を変えて駆け付けた。
「女王様……」
「……しろ、白ウサギぃ、わ、妾はいったい、どうすれば良いのだ。どうすればあやつを起こさずにおける? さっき動いたのだ。指が……指が……。妾にはわからぬのだ……っ。妾は、嫌だ……もう嫌なのだ……っ」
石の数が増えるたびに、自身の手は穢れていく。彼女の目には、未だに赤い色がこびりついているように見えていた。いつしかその色を見ていた瞳も、色を変えた。
憎しみが消えない。どれだけの数を殺そうとも、逆に増えていくばかり。
きっかけは、些細なものだったのに。
ただ、振り向いてほしかっただけなのに。
「……鎖を持ってまいります。それから、釘を打ちましょう。ほかにも沢山の鍵をつけておきます。女王様は部屋に行ってお休みください。ぼくがすべてやっておきます」
ハートの女王は何度も涙をぬぐい、少年のことばに何度も頷いた。
哀れんだのか、白ウサギは彼女の肩に手を置こうとした。しかし触れるのを躊躇い、宙に浮いていた手を下ろした。
ハートの女王は不安と寂しさでどうにかなってしまいそうな気持ちを抱えたまま、ふらふらと立ち上がった。もう声を出すことすらできなかった。
「……気休めですが、どうぞお許し下さい」
なにかを堪えるように目を伏せて、白ウサギはその背中に頭を下げた。