そして、「大人」の階段を登り続ける
不惑には程遠いかもしれないけれど、
ハッピーでい続けるために。
途中で躓いて転んだとしても、
起き上がる。
そして前へ進んでいく。
笑顔で。
子供の頃から、不可思議な願望があった。
早く「大人」になりたい
もうイイ歳なんだから子供だなんて口が裂けても言えない、
むしろ世間的にはオバちゃんじゃないか
…そう言えば確かにそうなんだけど。
この「大人」とは
子供の頃はもちろん見た目のことを指していた。
長じて見た目が「大人」になってからは
内面のことを指している。
……。
で、「大人」って、何?
という問いに今ならこう答えるだろう。
何があっても冷静でいられること。
何があってもどうにかできること。
人に優しく器の大きい人間であること。
表面的には「大人」になった、と思う。
でも果たして独りで立つことができているのか
(=精神的自立)は
正直まだ、自信がない。
愛すべーき
たーくさんの人たちが
僕を臆病者に変ーえてしまったんだー
ミスチルのHERO状態ですな。
孔子は論語で
四十にして惑わず
と言っていたけれど、まだまだ私は惑ってばかりだ。
一連のストーリーは私の人生の何分の1かであり
全てではない。
過去の思い出をよすがに生きるつもりも
未練もサラサラない。
こういう性格の自分で良かった、と思いつつ
こういう性格の自分で良いのだろうか、とも思う。
そもそも
人には伝わりにくいので、よく誤解される。
可哀想とか言われたり
悼む気持ちがないとか言われたり
する。
ちょっと、違うんだけどなあ。
そういうことではないの。
真意はなかなか伝わらない。
同じ経験をした人でないと伝わらない部分と
センスの問題で伝わらない部分がある。
確かに私が反対の立場であったとしても
相手に対してうまく立ち振る舞えるか、は
これまた分からない。
せめて自分の大切な人には分かってほしい、
という気持ちと
大切な人だからこそ、あんな思いは知らなくて良い、
という気持ちが交錯する。
そんな風にいつも心の中では
モヤモヤムニャムニャ惑い続けて
三歩歩いて二歩下がるー
を繰り返している。
惑っている。
自分は果たして何を為すべきか
千本の槍の雨をどうやって怪我せず切り抜けるか
走りながら考えていた。
止まない雨も
明けない夜も、ないと思う。
どうにかならないこと、は基本的に存在しない。
人生をフールコースで深くー
味わうためのー
いくつーものスパイスがー
誰ーもに用意されていてー
時にーは苦かったりー
渋く思うこともあるだろうー
だから、前を向いていく。
そしてこれは、卒業論文。
(ちょっと前に流行ったセンテンス何某ではない。)
いろいろ、あった。
でも納得のいくように進む。
願わくば、唯一無二の誰かに
深い愛情を持ちながら進めるように。