首斬り紀一朗
翌朝、シロをつれて、聖は隣組の集会に向かった。
愛犬を連れて行ったのは、
当然のような顔つきで助手席に乗り込んでた、からだ。
県道は空いていた。
<赤い橋>へ向かう野次馬の熱が冷めたのか。
いや、月曜の朝で、さすがに皆忙しいのだろう、と思う。
県道を川下へ、町の方へちょっと行き、
森を抜け出ると、小さな集落が在る。
畑の中にポツポツと七軒。
いずれも築年数不詳の、敷地の広い、大きな純和風の家だ。
隣組の集会は、その年の組長の家で開くのが習わしだった。
今年は国道沿いに立っている楠本家が組長だ。
店の前にバス停の標識柱と、
<楠本酒店>の看板が立っている。
酒屋だが、日用品、お菓子、飲料も売っている。
かつては食堂もやっていた。
名残で、店の奥に二十畳の和室がある。
そこを、寄り合いの場所に使っていた。
「君は、剥製屋のセイ君か。なんや、おとうちゃんに、そっくりになってきたなあ」
店先の看板の支柱に、シロをつないでいたら声を掛けられた。
六十代前半の男だ。
ふさふさした白髪で背が高い。
誰か思い出せないが、久しぶりに会ったらしい。
座敷にあがると、車座に座布団が八枚敷かれ、七人座っていた。
見知った顔が一斉にセイを見る。
深刻な寄り合いの雰囲気だ。
隣組の八軒から一人づつ出ている。
一つ空いた座布団は、自分の、神流家の席だ。
では、
出迎えたオジサンは誰だ?
隣組は八軒。
主席者は、六十から七十代。
そして九十代がひとり。
聖が幼いときより見慣れた顔ぶれだった。
七軒の、生業も、家族構成もだいたい知っている。
地場産業の<柿畑>を持っている三軒、
三軒は勤め人。
そしてこの、酒屋。
聖の世代も、親の世代も仕事で出てこれない。
それで、どうしても会合には年寄りを出す。
神流家に限っては、一人所帯なので、聖が参じる。
欠席は、考えられない。
裏を返せば、多少呆けていようが、一家から一人出せばいいのだった。
それが<しきたり>だった。
でも、座布団が八枚の集まりに顔を出している、
九人目の、このオッサンは何者?
「神流さんが、来られた。これで13組のご代表がお揃いになった」
正体不明のオジサンは、輪になって座ってる八人から、若干離れた場所で正座して頭を畳にすりつけた。
「ありがとうございます」
長いお辞儀の後頭を上げる。
……何が始まる?
聖は、状況が見えなくて、隣の酒屋のお婆さんに目で訴えた。
一同の中で最長老。九十才を超えている。
お婆さんの首の横には、卵くらいの大きさの小さな顔がある。
見慣れた顔は可愛らしい。
川に流されて亡くなった子供の頭部だった。
今は目を閉じて眠っているようだ。
「隣組の、吉村本家の長男さんがな、気い使ってな、分家の紀一朗のことは、世間に黙ってて欲しいと、頭下げて回ってはるんや」
聖の視線に答えるかのように
老婆は、ゆっくりと皆を見渡し、言った。
「そんなこと、誰が言いますかいな」
「えらい心配しはってんな、気の毒な」
「うちら、孫には喋ってへんから」
と、七人のうち三人が口々に答えた。
……おい、何の話だ?
聖には、酒屋のお婆さんの話も、老人達のやりとりも、全く意味不明。
「キイチロウって、誰?」
聖は呟いていた。
「あ、えらいことや、神流の、この子は何にも知らんやんか」
誰かの声。
八人の視線が、自分に集まってるのを感じる。
「そうや、この子のお父さんは、よお分かってたけど、この若いボンは知らんやんか」
「ほんまや、ちっこかったから、なーんも知らんのや」
皆が知っているという前提で始まった話を自分だけが知らない。
居心地が悪い。
いっそ欠席すれば良かったのかと思う。
吉村の長男は、
フルネームが吉村淳之介で元高校教師だと、
改まって聖にだけ自己紹介した。
「お恥ずかしい、えげつない話やけど、知っておいてください」
と、語り始めた。
「紀一朗は先代、私の父の、弟です。生まれは大正十年。死んだのが平成十三年です。八十過ぎるまで……、生きとったんです」
生きとった、と忌々しげに言った。
「紀一朗はんは、元々は賢い人やってんで。旧制中学をでて、税務署に勤めてはったんや。背が高いええ男やったのにな」
酒屋のお婆さんは、紀一朗をよく知っていたらしい。
「戦争が、紀一朗を、狂人にしてしまったんです。外地で……首切りの役目を与えられて、そんで、おかしなったんやと、私は、親から聞かされてました。立派な紳士に見えるけど、怖いねんから、逃げとくんやでと……、」
言葉はそこで止まり、<恐怖>を思い出したかのように、ブルリと身を震わせた。
その様子が、なんだか怖い。
不意に、指だらけでイソギンチャク状態の手が、頭に浮かんだ。
空想ではない、遠い過去に見た手だ。
なんで、今この瞬間に
今まで見た中で、一番恐ろしい<人殺しの印>を思い出してしまうのか?
「こ、怖いって、どういう意味ですか? へんな事言って子供を脅すとか?」
「……紀一朗は誰も脅したりしません。生涯を通じて、叔父は常に穏やかで、温厚な気性でした。怒ったり、怒鳴ったりしたこと、一度も無かったそうです。そんな男がね、終戦で運良く生きて戻ってきて……暫くしてからね、正座して手をついて、『自分は狂人と成り果てました』と、言ったらしいです」
時折、無性に……首を落とさねばと、使命に駆られるんです。
戦争は終わったと、分かってるのに……。
家族は、一時的に心を病んでいると、最初は捉えた。
<戦争>を忘れていいのだと諭した。
「元々優秀やった叔父は、税理士の試験に挑戦するといい、数年掛けて着実に科目試験に合格しました。……だからね、兄で在る親父も何の心配もしてなかったらしいです」
なのに、数年後、紀一朗の<狂気>が出現した。
桜が満開で、温かい夜風が心地よい満月の夜に
紀一朗は
吉村家の飼い犬の首を、出刃包丁で切断した。
「叔父は、『また、やると思うけど。……どうしよっか? 考えはあるんやけどね』と、優しい声で、犬の頭いじくりながら、ね、」
紀一朗は、吉村家所有の山の土地に、小屋を造って欲しいと言い出した、
あの山にはイノシシが沢山居る。
自分は、<首切り>をしたくなったら、山へ行く。
そしてイノシシの首を切る。
誰にも迷惑は欠けない。
家の為にも、それがいい、と。
「山の土地って、赤い橋の向こう、ですか?」
聖は聞く。
そうに違いないと確信しながらも。
「そうです。紀一朗は、おかしくなると、山へ行って、イノシシの頭を、日本刀で切り落としてたんです」
「日本刀で?」
そんなもの、所持するのは法律で禁じられてはいないのか?
「昔から、家の床の間に飾ってあった刀です。骨董品として相当値打ちのある、家宝というやつです。鞘に収まったまま何百年ですわ。紀一朗は、こっそり、さびた刃を磨いで、自分のモンにしたんです」
聖は
語られた事実を整理する。
紀一朗は、狂うと、赤い橋の向こうの山で、イノシシの首切りをしていた。
だから、父は、あの橋まで行くなと言ったのだ。
マユが予測したとおり
なぜ赤い橋まで行くのを禁じられていたかの、謎は解けた。
イノシシの頭を切り落としたい狂人が、
子供には危害を加えない保証はない。
父と、結月薫の父親が案じるのは自然だ。
吉村家は今回の<イノシシ事件>で、一族の狂人の存在が、明るみになるのを危惧したのだ。
うっかり誰かが喋れば、面白おかしく肥大して拡散されそうな<事実>には違いない。
「あ、だいたい事情は分かりました。俺は、今聞いた話、忘れます」
脂汗をかいて、一族の恥を語る吉村は気の毒に見えた。
「そう言ってくれたら、安心です。けど、まだ、ありますんや。紀一朗は、普通の死に方では無かったんです。……素っ裸でイノシシの頭を被って、」
家宝の日本刀を喉にあて
自害していたという。
「裸で、イノシシの頭?……それじゃ、まるで、」
<イノシシ男>
そのままではないか。