マユの心配
赤い橋を渡った事がある。
一度だけ
父の戒めを破ったのだ。
「どうしてかな。親父は口うるさく無かった。メチャ自由にさせてくれてたよ。宿題しろとか言われた事無いし。そんな親父が絶対駄目と何度も言ってたのに、俺はなんで、」
思い出せない。
「何故赤い橋を渡ったのか、そして、橋を渡って何処に行ったとか、その先のことも記憶にない?」
重要な事のようにマユに聞かれて、
聖は遠い記憶を辿る。
「あ、なんか、すっごく、叱られたのを思い出した。頬をピンタされた」
一度だけ
父に頬をぶたれた記憶。
それは赤い橋を渡った日の事だと
記憶が繋がった。
隣には結月薫がいた。
カオルは「駐在さん」だった父親に頬をぶたれ、尻も叩かれていた。
「間違いない。後にも先にも父に叩かれたのは、あの時だけだ。俺はカオルと赤い橋を渡って、それからナンカやらかしたに違いない」
何をして、二人の父をあんなに怒らせたのか? まるで思い出せない。
「思い出せないのも重要な事実よ」
マユはつかみ所の無い話に、満足そうだ。
「そうなの?」
「記憶に残るような、何事も無かったのよ」
「えっ?……どういう事かな」
「赤い橋まで行って、一回渡ってみて、直ぐに引き返したの。親の言いつけを守って橋の向こうへは行かなかった。それだけ。何も悪いことはしなかった」
「じゃあ橋まで行った、それだけの理由で、叩かれたのか?……でも何でバレた? ここの吊り橋の下でぶたれたんだよ」
「手に赤いペンキが付いてたから、バレたのよ」
「あ、そっか。……でもさ」
罰が重すぎはしないか?
ただ橋まで行っただけだとしたら。
「とても危険だって事になるわ。赤い橋を渡るのが」
マユは、父が橋まで行くなといったのは、
橋より遠くへ行くなと言う意味では無い。
禁じたのは橋に近寄る事だと推理する。
「つまり、橋を渡って私有地に入ってはいけないと。……よっぽど危険な何かが橋の向こうにあったからよ」
「もしそうなら教えてくれるだろ? 多分、五年の夏休みだ、あれは。説明すればわかる年だよ」
聖の反論にマユは微笑む。
「十七年前ね」
「うん」
「所有者が亡くなったのは十五年前だったわね。じゃあ、その夏休みには、橋の向こうに、居たんじゃ無いの?」
「そう……かも」
「とっても恐ろしい人だったとか」
「……侵入者にライフルで威嚇するとか? それなら尚更話して聞かせるよ」
「どんな風に怖い人か、子供には話せなかったとしたら? 」
「なに、それ……、」
「たとえばね、全裸で切断したイノシシの頭かぶって、人を襲うとか?」
「イノシシ男?」
聖は、マユがここで<イノシシ男>を持ち出すのは強引すぎると思う。
「それでも言うだろ? <イノシシ男>が居るから行くなって」
「五年生の男子がね、<イノシシ男>が出るって聞いたら、怖がって行かないと思う?」
マユの眼が大きい。
推理が始まったのなら、話の腰を折りたくない。
自分が子供の頃、一回赤い橋を渡ったことが、
今度の事件に関係がある筈が無いと思うが。
「一人では絶対行かない」
「集団なら、どう?」
「……面白がって、見に行くかも知れない」
現実に<イノシシ男>を見に野次馬が集まっている。
マユは、子供に話せば見に行くに違いないから
<怖い人>の存在を隠していたのではないのかと
推理するのだ。
「ただ危険な怖い人じゃなくて、何か異様な人だった。とても子供に見せられないような。話せば、好奇心を刺激するだけ。……赤い橋まで行くなと言うしか無い」
聖はだんだんと、マユの推理が当たってるような気がしてくる。
「カオルさんと二人だけで橋まで行ったの?」
「うん。……あ」
思い出した。
橋の上に、同い年くらいのが三人、居たんじゃなかったか?
「カオルさんの他にもいたんだ。 同級生?」
「いや、違う。知らないヤツだ」
ぼんやりと当時の記憶が蘇る。
「カオルは、時々遊びに来た。あいつの家からは川伝いに来るのが近道なんだ」
駐在所は川下の集落にあった。
距離にして三キロ。元気な男子には遠い道のりでは無い。
「普段はこの下で泳いだり、家の中で遊んだりするんだけど、あの日は、あいつが、どんどん川を上って行くから、何となく付いていったんだ」
浅瀬の岩を踏みながらいった。
「そっか。セイはなんとなく付いていったのね。ねえ、川の地図が見たい」
マユが言う。
聖はマップ画面にして拡大図を見せる。
「川はこの上で蛇行してるのね」
「そう。橋まで直線で四キロちょっと。だけど、見えるのは二十メートル手前だな」
「橋が見えたから戻ろうって、セイは言わなかったの?」
「橋と一緒に上にいる三人が見えて、それで、俺たちにケンカ売ってきたような気がする」
真夏の太陽はまだ高い位置にあった。
彼らの顔は陰になり、見ていない。
「あほ、ぼけ、とかさ、叫んでたんだよ。ふざけて。良くある事だろ。同じ奴らかどうか解らないけど、ここまで知らない連中が遊びに来てた事もあった。アイツラも出会ったらアホとかボケナスとか叫んでたな。挨拶みたいなもんだろ」
「橋の上には三人いたのね。からかわれて、次にセイとカオルさんは、どうしたのかしら?」
「カオルが斜面を登って行ったのかな。俺は、付いていった」
「どっちの斜面? 立ち入り禁止のロープが張ってる方?」
聖は地図で確認する。
「此処から北西に川を上って行って、左側だった気がする。右は上れなかったんじゃないかな」
橋が映ったニュース画像で確認する。
橋の右側は広範囲、コンクリートで固められていた。
「赤い橋を渡ってしか川の右側へ行けないように、したみたいね」
地図画像に戻す。
「まわりは深い谷と深い森だ。ここと似たような感じかな」
工房から川まで、丸太で造った階段が二カ所ある。
ソレが無ければ、簡単に河原へ降りられない。
シロも、その階段を使っている。
「橋の向こうの森に建物があるね。川から遠い森の中だね」
「ホントだ。元の所有者が住んでた家なのかな」
「この家から一番近いのは東側の小さな建物。その次が……此処だね」
「小さな建物は、給水塔だよ。ここの水道水は、この給水塔から貰ってる。上流の綺麗な水を濾過してるんだ」
「じゃあ、一番近い家は、此処だよね。お隣さんなんだ」
確かに地図上はそうなる。
「でもさ、地続きだけど、人が通れる道は無いんだよ。古い森で、全く整備されてないんだ。シロでも、森の奥へは行きたがらない」
<だって、あっちはイノシシの森だから>
その言葉を口には出さなかった。
工房の西からイノシシはやってくる。
住処が
そっちにあるからだ。
イノシシの森と
<イノシシ男>出没地点が近い。
それがどうした?
でも、マユは重要視しそうだ。
「セイ、三人の知らない男子は、カオルさんを橋の上で待ってたの?」
と、聞かれても、聖はすぐに答えられない。
覚えていないのだ。
橋の上で、三人とケンカした覚えは無い。
なんとなくカオルに付いていって、橋を渡り……。
「赤いペンキが手について嫌だったのは思い出したんだよね。その時、橋の上にはカオルさんもいたの?」
「わからない」
赤い橋から下を見て、その高さに足がすくんだ覚えがある。
怖くて柵を掴んで固まってたような……。
「橋の上に立ってから親父に叱られるまで、何があったのか全く思い出せないよ」
がっかりさせても仕方ない。
今回の事件と、あの夏休みの一日と
なんら接点はないのだから。
「そう、なんだ」
マユは立ち上がり優雅な足運びで、剥製棚の前をいったりきたりする。
「謎だらけね、ほんと全然わかんないよ」
と嬉しそうだ
「まだ、情報が少ないから。だんだん事実がわかっていくよ、きっと。まだ被害者の頭も見つかって無いんだから」
セイもパソコンの前の椅子から腰を上げ、
つったって、マユを眺める。
「明日の夜には、新しい情報が出ているよ、きっと」
だから、明日も来て欲しい。
「そうね、セイが、とても心配だから、明日も来るかも」
と、マユは顔を見上げて言うのだ。
距離が近すぎる。
頬に触れてしまいそう。
肩を抱いてしまいそう。
これはマズいと、半歩後ずさる。
「どうして俺の事心配してくれるの? 被害者と偶然バスで一緒になっただけなんだけど」
心配されて嬉しい。
しかし、喜んでいいのか? 心配される理由はないぞと理性が働いた。
「被害者の二人連れと同じバスに乗ってた剥製屋。それは巷で心霊剥製屋と噂されている人物。……何より、事件現場の近くに住んでいる」
マユは真顔で、言いにくそうに、ぽつりぽつりとかたる。
「捜査対象になりそうじゃない?」
「あ、ホントだ。……ハハ、全然、考えてもみなかった、」
思いがけないマユの言葉に、笑ってしまった。
「そっか、剥製屋ならイノシシの頭の細工出来るし、それに鉈で首を切断した後にイノシシの歯形を付けるのも……色々方法を知ってるもんな」
片手にいつも手袋してる変人。
母親の愛情を知らずに育ったので人格形成にリスクあり。
「俺って、怪しいじゃん。プロファイリングだっけ、推定される犯人像にばっちりかも」
「なんで喜んでるワケ?」
マユが呆れてる。
「別に喜んでないけど、」
ちょっと面白いだけ、と言いかけたとき、スマホにメールの着信音。
「読めば。こんな時間に……きっと大事なメールよ」
時計を見れば、十一時を過ぎていた。
「自治会のお知らせメールだ」
「……何て?」
「近隣で発生した殺人事件について、だって」
「新しい情報?」
「いや。緊急集会だって。……明日の朝九時、ってホントに急な話じゃん」
「何かあったのよ。自治体が住民を招集するなんて、よっぽどの緊急事態ね。夜に緊急メールでしょ。しかも明日、月曜じゃない」
マユの反応が、大きすぎて聖は戸惑う。
「そんな大げさな集会じゃないんだ。隣組の集まりだから。」
「……隣組?」
「うん。全部で八軒のね。みんな暇だから、何曜日でも関係ないし」
「お年寄りが多いのかしら?」
「うん。ただ集まって喋りたいだけかも」
きっとそうだと聖は思っている。
「ねえ、赤い橋に行って何故叱られたのか、それはわかるかも」
「……なんで?」
明日が楽しみだと、
最後に微笑んでマユは消えた。