赤い橋
……死んだ父が目の前に居る。
「なあ、聖、」
という。
「トウ……サン?」
普通に声が出せない。
「約束を忘れるな。川下はどこまで行ってもいい。でもな、川を上っていく時は、赤い橋が見えたら引き返すんだ。絶対に、赤い橋までは行くな」
晩年の姿では無い。
まだ若い。
白衣を着て、両手をポケットに突っ込んでる、
……これは、きっと夢だ。
続いて、微かなマユの声。
「セイ、ヘリコプターずっと飛んでるね。何かあったの?」
……これもきっと夢なんだ。
しかし、もう一度マユの声が。
今度は耳元ではっきり。
「起きてよ。眼を開けてよ」
と。
……夢ではないかもと、薄目を開けてみる。
隣に、いた。
マユ用の五脚椅子に、ちゃんといた。
数ヶ月ぶりに会えたのだ。
二度と会えないと、半分諦め、
半分は、今度の<事件>がマユを呼んでくれると期待していた。
それで
二十四時を過ぎても二階の寝室に行かなかった。
パソコンでシロと動物動画見ながら、
ふっと、
数分だけ、
眠り落ちていたらしい。
死んだ父の声を聞いた生々しい感触は、夢だった。
赤い橋まで行くなと、喋ってたんだっけ?
夢に現れた父の言葉など
気にとめないくらいに、
今はマユに会えたのが嬉しい。
シロがあくびしながらクワ、と鳴く。
遺体で発見されたのは
佐々木ミキ、四十九才。
首を切断され、橋の上に遺棄されていた。
連れの男は古賀ツヨシ二十九才。
現在のところ参考人ではあるが容疑者ではないので実名は明かされていない。
二人は同じ職場で働いていた。
「セイが見た人たちに間違いないの?」
「ワイドショーで見たから間違いない」
テレビなど見たくないが、事件現場が近すぎる。
情報は必要だ。
事件から今日で四日。
ヘリコプターは毎日飛んでいる。
マスコミ関係と<イノシシ男>を見に来る野次馬で、県道は渋滞している。
「頭から肩が、イノシシの姿をしてるのね。アニマルマスク被っていたのかな?」
「そんな、ハロウィンの仮装みたいなんじゃ、ないんだ」
聖は、ニュースサイトから取り込んだ画像をマユに見せる。
小学生レベルの下手な絵。
古賀が描いたものだった。
「なにコレ? 首から下の毛皮を剥がれたイノシシに見えるけど」
「うん。イノシシ男はね、4足歩行で現れたんだって」
古賀たちは、バス停を降りたあと、山道を下り、<赤い橋>を渡ろうとしていた。
橋には渡れないようロープが貼られ、<私有地に付き立ち入り禁止>の札が下がっていた。
古賀は、ロープを跨いだ。
その時だ。
イノシシ男は、古賀が橋に一歩踏み入れた、まさにその瞬間に
橋の向こうの森から突進してきたという。
「はじめは、身体が肌色なのは、皮膚病かと思ったらしい。毛が抜けてるんだと……でも、違ってたんだよ。首から下は人間だった。毛深い男の身体だったんだ」
「それ、怖いよ」
「うん。恐ろしくて、頭パニックになって逃げた。後ろも振り返らず、来た道を引き返した。山ん中を抜けて県道まで全速力で走った。……一緒にいたオバサンの存在をすっかり忘れてね」
古賀は道路の真ん中で、狂ったように叫んでいた。
通りかかかった宅配業者は、
道を塞がれ、仕方なく車を停めた。
「その偶然通りかかった宅配業者がね、うちによく来る人なんだ。インタビュー受けてるの見て、顔は映ってないけどさ、声で分かった。多分県道沿いが担当エリアなんだろうね」
マユにインタビューの動画をみせる。
「どうしたって、聞いたら、『赤い橋の上で、イノシシ男がでた』って言うじゃないですか。変なのに声かけたなと、その時は思いましたよ」
連れはいないのかと聞くと、
(佐々木さんと一緒だった、置いてきてしまった)と言う。
「女の人って言うから、放っとけないじゃないですか。日が、暮れかかってた。じきに真っ暗になる。普通に猪も熊も居ますからね、この山には。」
車を降り、嫌がる古賀の手首を掴んで、細い山道を降りた。
土地勘が有り<赤い橋>がどこに在るか知っていたのだ。
車では橋まで行けないことも、宅配業者の男は知っていた。
木立の間から、橋が見えたと同時に
その上に人が倒れていると分かった
足がこっちで、白いスカートがめくれてる。
急いで助けなければと足を速めた。
が、すぐに、男二人は同時に悲鳴を上げた。
横たわる女の身体に首が無いのを、
はっきり見てしまったから。
「とても、橋まで行けませんでした。車まで戻って警察と、宅配センターに電話したんです。……彼は車の中で泣いてましたよ。……彼が殺ったとは全然、思わなかったです。震えて泣いてる顔をじっくり見てね、見覚えがあると、知ってるヤツだと、気付いたからかもしれませんが。……ええ、偶然知り合いだったんです。お巡りさんにも言いました。小学校の同級生だったんです」
古賀ツヨシと、宅配業者の男は和歌山県H市内の、同じ小学校に通っていた。
つまり、事件現場からそう遠くない町の出身だった。
「セイ、凶器は何か分かってないの?」
「それがさ、遺体にイノシシの歯形が付いてたんだ。そういうのもニュースに出ちゃってるから大騒ぎなんだよ。犯人は<イノシシ男>ってことになっちゃってる。頭が猪で身体が人間の化け物が、山に居るとね」
「<イノシシ男>が本当にいると、セイも思うの?」
マユは眼をまん丸にして、唇にすこしの笑みを浮かべて聞いた。
好奇心全開。
この事件に興味を覚え、
推理が始まってるに違いない。
「まさか。目撃した男が幻覚を見たのじゃ無いとしたら、人間の男が、イノシシの頭部の中をくりぬいて被ってたと、思う。歯形は、イノシシの歯があれば後から付けることも出来そうだしね。そんな事くらい、誰だって想像できるんじゃないかな? 人間の仕業って判ってるくせに、クリーチャー出現って、騒いでるんだよ。面白がって」
「そうだよね。事件現場の写真撮ってツイッターにアップしたいんだよね」
ネット上で話題になってるのも、
人が集まっているのも理解できる。
しかし、<イノシシ男>がどういう奴なのかは、想像もつかない。
同じ人間の男として、到底理解出来ない。
「異常者としか思えないね。裸でイノシシの頭被ってイノシシみたいに走ってオバサン殺したんだよ。この殺人事件は動機も手段も ……常人では全く、わけわからない。そう意味ではクリーチャーには違いないけどさ」
「セイ、橋には、立ち入り禁止の札が、あったんだよね。橋の向こうは私有地だったんでしょう。被害者は私有地に入ろうとした結果、殺された訳だから、私有地の所有者が疑わしいじゃないの?」
マユの推理は尤もだ、
しかし、
「それなんだけど、ニュースでやってたけど、あの山は県がオークションに出してるんだ。差し押さえ物件ってやつ。元の所有者は15年前に亡くなってる。税金滞納したまま死んじゃったらしい。相続人は相続放棄だって」
「そうなんだ。オークションに出てるなら、安い金額で入札したい誰かの仕業かも?」
「それも、あり得ないみたいだ。現在入札ゼロ。森一つ買う人はいないよ。何の利益も生まないからね」
ちなみに聖が父から相続した土地は登記上、約三千坪だ。
工房のまわりの土地だが、はっきりした私有地の境界を知らない。
知る必要も全くない。
資産価値は広さに比例しない。
使い道の無い森は換金できない。
「<赤い橋>のむこうは、誰のモノでも無い、ただの森なのね。そんなとこに、被害者と連れの男の人は、何しに行ったの?」
「まだそれは、分からないみたいだ」
「男の人が、ショックで錯乱状態なのかしら?」
「ちょっと待って。最新情報だすから」
<イノシシ男事件>のニュース速報を検索する。
「Aさん(二十九才)への、事情聴取は困難。質問に答えず『祟りや、これは祟りや』と呟いている、だって」
被害者の佐々木ミキは、
巷で流行しているモンスターをゲットするゲームの話を周囲に語っていた。
その情報から、当初はモンスター目当てに事件現場を訪れたのでは無いかと推測された。
「そんなゲームが出来たんだ。凄いね」
マユは、単純に感心している。
「でも、それは、あり得ないんだって。あの辺りにモンスターは居ないから。そんなのゲームしてたら知ってる筈なんだって」
ゲーム好きの聖だが、そのゲームに関しては無知だ。
ゲームはひっそりと、こそこそとプライベート空間でしたい性分だから。
「<イノシシ男>に<首無し死体>そして<祟り>。まるで、江戸川乱歩か横溝正史の怪奇推理小説の世界じゃ無いの」
マユは両手のひらを合わせ、白い細い指を唇に触れる位置で組む。
爪は綺麗で淡いピンク。
マニキュアを塗ったようにムラが無い。
手も綺麗。
僅かな染みも傷跡も皺も無い。
間近にある横顔と同じだ。
久しぶりに会い、側で見たマユは
とても美しい。
あり得ない綺麗さに、この世の人では無いと、
今更ながら
思う。
「それに、事件の舞台は山の中の<赤い橋>。此処と同じような奥まった森の橋が、なんで赤なの?」
マユは、橋が見たいようだ。
聖は画像を見せる。
「赤っていうより、赤茶かな。鉄の橋だよ。幅が狭くて車は通れない。昔は真っ赤だったんだけどね。ペンキが剥げたみたいだな」
「ちっちゃい橋なんだね。セイは、近くだから、この橋を知ってたんだ」
「……。」
聖は答えられない。
(昔は真っ赤だった)と口からスルリと出たが、
なんで<赤い橋>を知ってるか、心当たりが無い。
駅前とは反対側で、行く用事が無い。それに車で行けない場所だ。
行った理由が思いつかない。
……俺は何故、あの橋は、昔は真っ赤だったと、知っている?
自分に問えば
得体の知れない、軽い恐怖感に捕らわれた。
「ずっと前に、子供の頃に行ったんでしょ? 昔は真っ赤だった、って今そう言ったから」
確か、
村の子供は、
あの橋まで行くのを禁じられていた。
<赤い橋が見えたら引き返せ>と
大人たちが言うのを聞いて育った。
ほとんど掟のようなモノだった。
遠くへ行かせないように、行動範囲を制限する目印なんだと
子供心に、なんとなく理解していた、
「セイは、言いつけをちゃんと守って、赤い橋が見えたら引き返してたのね。緑の中に赤でしょ。遠くからでも目立つよね」
違う。
遠くから眺めた、だけじゃ無い。
鉄の橋はペンキ塗り立てのように、
艶々していた。
……柵に触れた右手に赤い塗料が付いて、とても嫌だった。
「橋を渡ったの?」




