祟りじゃない
須永と古賀ツヨシは、十七年前
夏休みの初めの頃、結月薫と知り合った。
須永達は、<イノシシ男>を見に行こうとしていた。
大人達の噂話に好奇心を抱いたという。
「隣村の変なオッサンが、裸でイノシシの頭被って四つん這いで、走り回ってると聞いた」
赤い橋を目指して和歌山県H市から川を下った。
結月薫と出会ったのは橋の上だ。
薫は初対面にもかかわらず、開けっぴろげで話しやすかった。
噂の<変なオッサン>を見に行くのに
二人よりは三人の方が心強い。
身体が大きく強そうな薫を誘った。
赤い橋を渡って
禁断の森に、三人で入った。
昼下がりから夕暮れまで探索した。
<イノシシ男>には出会わなかった。
その替わりに、赤い小径を見つける。
偶然見つけた、
綺麗で不思議な光景だった。
光る石が宝石の原石と、知らなかった。
ガーネットという名も知らない。
余計に神秘的だった。
「近くに、赤い屋根の小さな綺麗な家があった。この森には、魔法使いが住んでるんちゃうか、って本気で思った」
三人は、自分たちの秘密の場所にしようと、指切りした。
「で、その後、また三人で行ったワケ?」
聖が聞くと、須永は首を横に振る。
「カオルとは連絡の取りようが無かった。俺たち二人は携帯電話持って無かった。家の電話で、アイツの携帯に掛けたら親に丸わかりや。行ったらアカン山に入ったの、バレルやんか」
当時、殆どの子供は携帯電話を持っていなかった。
でも薫は持っていたんだと、聖は妙なところに驚いた。
それから
須永と古賀は何回か二人で赤い橋まで行った。
薫が来ないかと、橋の上から川下を眺めていたという。
「頼りない古賀と二人では、山に入るのが怖かったんや。それで、カオルを待ってた」
そしてとうとう、あの日、薫は来た。
後ろに、片手だけ手袋をはめたヒョロイ友達を連れて。
薫は橋の上の二人を見て、足を速めた。
急いで崖を登り橋に辿り付く。
「三人だけの、秘密や、約束やろ、ボケナス」
「あいつ、ほっといて、行こ」
須永達は、薫に会えて嬉しい。
はやく、秘密の赤い径へと誘う。
聖が遠目に見た、橋の上の三人の光景は、
実際には須永と古賀と、薫のやりとりだった。
「ところがな、赤い径にな、<イノシシ男>がおったんや」
<イノシシ男>は……首の無いイノシシの身体を逆さに担いでいた。
もぎ取られて間もない首から血が、垂れていた。
<イノシシ男>の手も腰も血で、半分赤色だった。
三人は、木陰から、この異様な光景を見た。
恐ろしくて足が竦む。
「やばい、にげよ」
最初に薫が小声で囁いたのと、<イノシシ男>がこっちを見たのは同時だった。
須永は逃げた。
前にある薫の背中だけを見て。
……赤い橋が、すぐそこに見えた頃、古賀が付いてきてないと気がついた。
立ち止まって待った。
森へ戻るのは恐ろしい。
暫くして、古賀が泣きながら、もの凄い勢いで駆けてきた。
「あいつ、ガタガタ震えて、俺にしがみついた。手首に血が付いてた。どないしたんや、って聞いても黙ってる」
その場に薫はいなかった。
古賀の姿を確認すると、さっさと、
橋の上で待ってる友達(聖)と川へ降りて行った。
……森から三人帰ってきた。
……先頭は薫だった。
聖は、今一度記憶をたぐる。
薫は多分、何も説明せずに、「セイ、帰るで」と言った。
その後は、来たときと同じように、薫のあとをついて、自分は川を下ったのだ。
あの日、幼なじみに不意に置いてきぼりにされ、橋の上に一人いた。
それが事実だ。
記憶が曖昧だったのは、ちょっと惨めで嫌な感じだったから、
忘れてしまったにちがいない。
「彼は、コガは、逃げ遅れて、<イノシシ男>に捕まったのか?」
「ツヨシは、躓いて転んだ……そしたら、<イノシシ男>が腕を取って、立たせてくれた、らしい」
「……それ、優しいじゃん」
(紀一朗は立派な紳士に見えた)
吉村の言葉を思い出す。
「ああ、そうや。優しかったんや」
<イノシシ男>は
「しょーがないな。どーしようかな」
と独り言を言いながら、古賀の手首を掴んだ。
引き寄せられ、イノシシの頭が間近に迫る。
獣の目はくり抜かれている。
奥に隠れた眼は、白目が赤く濁っていた。
「おかあちゃんに、いいなや。友達にもいいなや。約束やで。悲しいことになるからな」
と空いた手で頭を撫でる。
そして、つと、手首を掴んでいた手を放した。
古賀は、当然逃げる。
その背中に大きな声が被さる。
「もう来たらアカンねんで、な、コガ、ツヨシ」
と。
「名前を呼ばれたんや。それが一番恐ろしかったと、泣いてた」
知る筈のない、自分の名前を、呼ばれた。
<イノシシ男>は人間では無いと、古賀は信じた。
「もう二度と此処へ来るのは止めようって、俺はツヨシに言った。帰り道に何回も言った」
須永は、山で見た事を誰にも話さないと決めていた。
「早く忘れたかった。喋って、思い出すのも怖い。家帰っても、もちろん、親父に言ってない。でもアイツは……」
古賀は全てを、母親に話した。
遊びから戻ってから息子の様子がおかしい。
母親は何があったかと心配する。
しつこく聞かれ、黙り通せなかった。
「それで、どうなった? 古賀の母親は、警察に通報したんじゃないの?」
須永は首を横に振る。
何が面白いのか、ケタケタ笑い出した。
聖はテーブルをパンと叩いて、話の先を促す。
「警察には届けてない。アイツの母親、死んだんや。原チャで、単独事故や……同じ日の夜中に」
古賀の母親は、息子が眠ったあと、単車で家を出た。
夜から激しい雨が降っていた。
事故現場はH市内から県道に入って最初のカーブだった。
雨の降る真夜中に、どこに行く途中だったのか、
出かけた先はわかってはいない。
「ツヨシは<イノシシ男>の祟りやと、俺にだけ言うてた。約束破って母親に喋ってしもた。それで、悲しいことになったんやと」
聖は大きなため息をつく。
呼吸を忘れて聞き入っていた。
悲しい偶然を、古賀は<祟り>と受け取ったのだ。
無理も無いと、哀れに感じる。
しかし、そんな過去があったのなら、
なぜ、古賀は、佐々木ミキに<秘密>を喋った?
「あのオバハン、ツヨシが和歌山の出身と聞いて、ガーネットの原石がある場所を知らんかと、聞いてきたらしい」
佐々木ミキは、
和歌山県の山間部にガーネットの原石があると、ネットの情報で知った。
「アイツ、オバハンに採取現場の画像を見せられて、『あれはガーネットやったんや』って呟いてしまったんや」
古賀ツヨシは、佐々木ミキに教えられるまで、知らなかった。
<イノシシ男>がいる森の赤い径が、ガーネットとは知らなかった。
思わず口から出た一言を、ミキは聞き逃さなかった。
「教えてくれへんかったら、二人の関係を旦那にばらす。旦那はヤクザの友達がおると、脅してきた」
古賀と佐々木ミキは、関係があった。
古賀のアパートに、佐々木ミキが通っていたらしい。
職場の食堂で毎日顔を合わせるので、ラインやメールで連絡を取る必要は無い。
二人の関係が報道されていないのは、痕跡が無いからだ。
「困って、俺の家に来た。……俺にしか相談でけへんかったんやろ」
「相談されても、何の解決方法も思いあたらん。ツヨシは自分の母親が死んだように、あの女も、秘密の場所を教えたら、<祟>で死ぬんやったらいいねんけど、って言いだした。<イノシシ男>に殺して欲しいとも。……誘いに乗って、あんなオバハンに手を出したのを、心底後悔してた」
古賀は佐々木ミキを疎ましく思っていた。
死んでくれたらいいのにと願っていた。
年の差がある不倫関係に、愛は無かった。
「そんなときに、山で死体を見つけた。それも、赤い橋の上流でや」
<イノシシ男が殺してくれたらいいのに>
古賀の言葉が頭に浮かんだ。
<イノシシ男>が佐々木ミキを殺したように装える、と閃いた。
「死体も、俺の閃きも、全て上手く運んだのも<イノシシ男>の導きがあったから。なあ、そう思うやろ?」
須永は、屈託無く笑う。
聖をすっかり仲間扱いしている。
この男には、人を殺した罪悪感が全く無いと、気がつく。
「で、アンタは、何故あの人を殺したの?」
聖は率直に聞いてみた。
殺害理由は古賀ツヨシにはある。
だから、この男には無いとは思えない。
友達の為に、人殺しまでするか?
リスクが大きすぎる。
<俺たちの聖地>を守る為と、言うのだろうか?
もしそれが理由なら、狂ってるとしか思えない。
須永は答えず、立ち上がった。
「シロ、またな」
馴れ馴れしく愛犬に触り、去ろうとする。
「全部聞いて、俺が通報するとか考えないのか?」
ドアの外まで追いかけて聞く。
「アンタが通報して、もし警察に呼び出されたら、霊感剥製士の妄想だと、俺は言うよ。
同じ話を直接聞かされたとね。嘘じゃ無いだろ? 証拠は無いんだ。絶対、何にも出てこない。俺とツヨシは連絡取るのに携帯使ってない。ツヨシは空き屋になってる実家の、うどん屋に、時々空気の入れ換えに帰ってる。そん時に、俺の家に来る。ツヨシと俺が会ってると、誰も知らない。……ちなみに俺は一人暮らし」
一人暮らしと、最後の言葉だけ、細い一重の眼が大きく開いた。
「ツヨシは親父が若死にして母子家庭やった。俺は父子家庭。母ちゃんがガンで、俺が小学校に入学する直前に死んだ。それからは三人家族。……三つ下の妹がいたんや」
須永の妹は、十七年前の冬、インフルエンザから脳炎になって、あっけなく死んだ。
父親は六年後に、肝硬変で急死した。
「親父は、妹が死んでから、浴びるように酒飲んでた。長生きできそうに無いと思ってたけどな。<イノシシ男>の祟りかもって……心のどこかで思ってるんや」
「霊感剥製士、神流聖のことは調べた。何回か荷物届けてる先が、ちょっとした有名人ってわかって、興味を持ったから。アンタは神流剥製工房の三代目で、先代のアンタの父親は五十前で死んでる。平均寿命が八十超えてる時代に、えらい若死にや。……今日、カオルの連れがアンタやったと判った。もしかしたら、アンタの父親が早死にしたのも、<イノシシ男>の祟りかも、な」
須永の、去り際の言葉は、哀れむように優しかった。
「祟りじゃないだろ、だいたいな、祟りなんて、そんなもん、無いって」
聖は叫んでいた。
去って行く<人殺し>の姿は、闇に紛れて全く見えない。
大晦日の山の夜。
静かに雪が、降っていた。
風は無い。
こんな夜には
川の流れる音が、やたら大きく聞こえる。
「親父が死んだのは、祟りじゃ無い、」
聖は絶叫した。