命懸けの山越え
夏は日が沈むのが遅い。
だんだんと辺りが薄暗くなってきて、周りの兵らが松明を灯す。
里を出て二日が経ち、一行は二つ目の山の中腹辺りまで来ていた。
山の中には人が通れるような道はあるが、少し外れると草木が生い茂っている。
「急な山道ね」
敬子が言うと、傍にいた下働きの娘が答えた。
「そうですね。でも敬子様、この先の道がもっと厳しいのです。来る時に通りましたが、更に酷い山道です」
そう言って目を細め、可愛らしく笑うのは、空という名前の少女だ。
空は敬子より二歳年上の十四歳の娘で、妹の海と二人でこの隊列に参列していた。
彼女達は、麗華に仕える予定の下働きだ。
二人とも気だてがよく、年が近いこともあって敬子とはすぐに仲が良くなった。
海は十一歳で敬子の一つ下だが、年下だとは思えないくらいにしっかりしている。
この姉妹は大変仲が良く、仕事中もいつも一緒に行動していることが多かった。そこに、敬子も混ぜてもらう。
「もう少し進んだら集落がある、今日はそこで休むぞ」
黒鵜が指示すると、周りの者達から同意の声が上がった。
巫女を運んでいる途中なので、なるだけ野宿は避けたいのだろう。
一行は山道を黙々と進む。集落まで辿り着くのは、まだ少し時間がかかりそうだった。
それにしても大所帯だ。馬の兵士、徒歩の兵士、下働きの男女。
神楽の里とは別の場所にも待機していた人間がいたらしく、途中で合流して徐々に人数がふくれ上がっている。
※
険しい山道の中腹にさしかかったとき、ふと、何か奇妙な鳴き声が聞こえた気がした。
キィキィと甲高く鳴く不快な声。鳥にしては濁った音だ。
すると、その声に反応したかのように、急に敬子の馬が暴れ出した。
「こら。どうしたの」
手綱を引いて馬を静める。
敬子の馬だけじゃない。他の馬も、荷物を運ぶために連れている牛までもが暴れ出し、ただならない様子を見せている。
そのうち、数頭の馬が乗り手を振り払って逃げ出し、隊列に動揺が走った。
敬子は嫌な予感がした。肌がゾワゾワする。
鳴き声は止まず、徐々に距離が近くなってくる。
キィキィという耳障りな音が今度は、間近にはっきりと聞き取れた。
「走れ!」
突然、黒鵜が叫んだ。
彼は輿から麗華を降ろし、急いで自分の馬に乗せる。
馬を持っている者達は一斉に駆け出した。鳴き声はすぐ間近に迫っている。
「ま、待ってください。黒鵜様、私達徒歩の者はどうすればいいのですか」
下働きの男が悲痛な声で叫んだ。
しかし、黒鵜は意に介さない。
すぐに、近くの藪がガサガサと動いた。
残された徒歩の兵士達が、その周辺を松明で照らし、剣を抜いて構える。
それと同時に茂みから黒い塊が飛び出した。女達が悲鳴を上げる。
その塊は一瞬にして手前に立っていた男の喉笛を切り裂いた。
鮮血が飛び散り、降って来た生暖かい液体が敬子達の顔にもかかった。空と海は目を覆っている。
黒い塊の正体は、不気味な鱗に覆われた巨大な蜥蜴だった。
人間の大人の倍はある大きさだ。異様に鱗が逆立っており牙と爪が長い。
巨大な蜥蜴は、不気味に血走った赤黒い目で獲物を狙っている。
「妖蜥蜴だ!」
誰かが叫んだ。
妖蜥蜴は山に住み、夜になると家畜や人を襲う妖だ。狼などよりも凶暴で知能が高く、その牙には毒があると言われている。
ガサガサとまた近くの茂みが揺れ、今度は別の蜥蜴の群れが現れた。
十匹以上はいる。
下働きの男が持っていた松明が消えた。
空と海は抱き合って震えている。二人とも、自分の馬を持っていないのだ。
二人だけじゃない。同行している者達の半数は馬を持たず、逃げる術がない。
彼らは次々に運んでいた荷物を降ろし、身一つで逃げようとした。
「急げ。追いつかれるぞ」
黒鵜達は、彼らを無視して集落へと馬を走らせる。
「待ってくれ!」
残された者が必死に追い縋るが、無情にもその背を妖蜥蜴の鋭い爪が抉った。
「ぐあぁぁっ!」
「うあぁ!」
しかし、彼らの声を無視して、馬は去っていく。
敬子も黒鵜らに倣って、馬に跨がろうとした。
だが、その瞬間、自分を見つめる空と海と目が合ってしまった。
二人は何も言わない。一人で逃げようとする敬子を批難しない。
自分の運命を覚悟しているかのように押し黙り、ただまっすぐに敬子を見つめていた。寂しさと諦めがない交ぜになった視線で。
敬子は戸惑い、思わず馬に乗ろうとする手を止めた。
「空、海……」
二人は里長の娘という身分に関係なく、初めて出来た敬子の友人だった。
子供三人なら……速度は落ちるが、馬で逃げられるかもしれない。
敬子は、二人に向かって手を伸ばした。
「こっちへ来て! 一緒に……っ」
「どけ!」
その時、近くにいた一人の男が敬子を突き飛ばし、馬を奪った。
敬子は突き飛ばされた勢いのまま地面に転がる。
一瞬の出来事で、敬子には何が起こったのか分からなかった。
地面に手をつき起き上がると男の顔が見えた。昼間に敬子達と仲良く話していた下働きの男だった。
男は敬子の馬に乗って、来た道を一目散に駆けて逃げて行く。
擦りむいた両手を握りしめ、敬子は唇を噛んだ。
突き飛ばされて転んだ時に切ったのだろう、口の中に鉄の味が広がった。