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(1)
バートとキリアとリィルとサラの四人は乗用陸鳥に乗ってコリンズを出た。エニィルが四人の前から姿を消してから丸一日が過ぎた朝だった。国境を越えてキグリス王国に入り、南東を目指す。国境を越えてまっすぐに南を目指せばキグリス首都なのだが、首都に寄ってからでは遠回りになる。目指す目的地は首都の東にある、ツバル洞窟と呼ばれる地下洞窟だった。
「やっぱり、最後の扉はこのへんにあったのね」
キリアは地図を広げ、ツバル洞窟のあたりを指さして言った。
「やっぱりって?」とバート。
「ほら、ここがキグリス首都でしょ」
キリアはパファック大陸の中央を指さした。
「ここが炎の扉、ここが大賢者の塔、ここがコリンズ」
「おおー」
バートは声を上げた。土火風水、それぞれの”大精霊”が眠る扉は、キグリス首都からちょうど東南西北に同じ距離だけ進んだ地点にあった。土火風水の扉を線で結ぶと大陸に巨大な正方形が描かれ、その中心にキグリス首都がある。
「正確に正方形だね。これはきっと偶然じゃないな」
リィルが感心した。
「んで、いよいよ最後の大精霊、ってわけか」
バートはサラを見た。
「エニィルさんが言っていたけれど……」
バートに見つめられてサラは口を開いた。
「”陸土”を得るにはあたしが必要って、どういうことなのかしら。まだ鍵も持っていない状態で、扉に行って大丈夫なのかしら」
「でもエニィルさんは鍵に関わるって言ってたわね」とキリア。
「案外、サラがもう持ってたりして。最初に炎の扉を開けたときだって、まさかバートの剣が鍵だったなんて思ってもみなかったんだし」
「とにかく、行ってみて開けてみりゃわかるんじゃねーか? サラが開けられりゃあ持ってたってことだろ」
「そうね、大地の扉に行ってみるしかないわね。色々不安だけど……エニィルさんいなくなっちゃったし」
「エニィルさん、一体、どうしちまったんだろうな」
「よほどのことがない限り、大精霊の力を三つも手に入れてしまった私たち四人を置いて消えちゃうなんて……」
キリアたちは大精霊についてはほとんど何もわかっていなかった。全てを知っているようなエニィルが同行していたので、大精霊のことは全て彼に任せてしまっていたのだ。まさか、四大精霊の力を得る旅の途中で、こんな風にエニィルが姿を消すなんて考えてもみなかったのだ。エニィルがいなくなって、これからどうすれば良いのか、キリアたちは途方に暮れた。
エニィルが消えてしまって戻ってこない。これは四人に突き付けられた動かせない事実。その意味を考えてみよう、とリィルは言った。
エニィルが消えてしまった日の朝、リィルが帰って来た。ちょうどリィルを探しに宿屋を出ようとしていた三人と鉢合わせした。
「リィル!」
「リィルちゃん! 無事だったのね!」
「今までどこで何してたんだよ」
キリアとサラとバートはリィルを囲んで口々に言った。
「心配かけてごめん」リィルは謝った。
「俺、眠ってたみたいで」
「眠ってた?」バートは怪訝な顔をした。
「うん。長い夢を見ていた」
「夢……」
キリアは呟いてリィルに言った。
「リィル。最初から喋ってほしいんだけど。あなたが体験したこと全部」
「そうだね……。覚えてる範囲で」
リィルは湖でバートとサラが消えたことは覚えていた。キリアと別れてボートで湖に漕ぎ出したことも覚えていた。
「そこから先の記憶が曖昧なんだ。ごめん」
と、リィルは言う。
「ええっ、覚えてないの? 私もバートもサラも『迷宮』で起こった出来事はしっかり覚えてるわよ」
「うん、なんか、目が覚めたらさっきまで見てた夢に手が届きそうで届かない、みたいな感じで。あ、でも断片的には覚えてる」
「どんなことを?」
「その夢にはキリアが出てきたような気がする。バートも」
「あたしは?」とサラ。
「サラは……どうだったかな。そして、最後に父さんが出てきた」
夢じゃなかったのかもしれない、とリィルは確認するように呟いた。上着のポケットの中から小さな鏡を取り出す。それを見て三人は息を飲んだ。
「リィル、それって」
「例の、大精霊の鏡だよな」
うん、とリィルはうなずいた。
「父さんが、俺にこれを渡して、後のことは頼むよ、って言って」
「リィル……」
キリアは口を開いた。
「私が見た夢の中ではね、あなたとエニィルさんが大精霊”流水”の力をめぐって戦ってたのよ」
「俺と父さんが?!」リィルは声を上げた。
「……ああ、でも、うん、わかるな……。で、どっちが勝った……って聞くまでもないか。父さんだろ?」
「確かにあなたが一方的にボコボコにされてたわねー」
無事な本人を目の前にして、キリアは苦笑した。
「でも、あなた達の戦いは最後まで見届けられなかったの。私もエニィルさんの攻撃を受けて気を失っちゃったから。それで気がついたら、ベンチのところに座ってて」
次にバートとサラが迷宮で体験してきたことを語った。サラは最後に、エニィルとレティと穴のことを話した。
「エニィルさんは大精霊”流水”の力を手に入れてきたって言って、あたしにその鏡を見せてくれたの」
「で、サラとエニィルさんとレティさんが迷宮から帰ってきて、」
と、キリアが続ける。
「私聞いてみたんだけど、私が見た、あなたと戦ってたエニィルさんは幻だったっていうのよね。……だから私が見たあなたも幻だったのかもしれない」
エニィルさんが嘘言ってて、両方とも本物だったのかもしれないけれど、とキリアは言う。
「肝心のあなたが記憶無くしちゃってるんなら……どうしようもない、か」
「…………」
リィルはしばらく黙り込んで考えてから、父さんは今どこに?と尋ねた。
「俺が朝起きたら部屋にはいなかったぜ」
と、バートは答える。
「エニィルさんいなかったけどあんま気にしなかった。俺たちは三人でお前を探しに行くつもりだったから」
バートは昨夜のエニィルとのやりとりをリィルに話した。
「そうか……」リィルは呟いた。
「嫌な予感がする。父さんを探そう。とりあえずレティさんのところへ行こう」
嘘だ、とリィルは思った。予感ではなくて確信だ。エニィルは多分、『ここ』にはいない。あのとき、エニィルはリィルに「さよなら」、と言ったのだ。永遠の別れみたいな言い方で。
四人はレティスバーグ博士の研究所を訪ねた。そこにエニィルの姿はなかった。四人はレティに彼がいなくなったことを話し、彼の行方について心当たりがないか尋ねた。レティは唇を結んで黙っていた。
突然、その両の瞳から透明な涙が流れ落ちた。
「すまない……」
レティは苦しそうに言った。
「混乱しているんだ。あまりに突然で、私も、受け入れられなくて……」
しばらくレティは声もなく涙を流し続けた。
「知っているんですね、エニィルさんのこと」
キリアは静かに尋ねた。レティはうなずいた。
「何故泣いているんですか? ……悲しいことが、起きたのですか」
サラが尋ねる。
レティは黙っていた。何と答えれば良いのか、という表情だった。
「今まで俺たちと一緒に旅してたんだ。リィルの父ちゃんなんだ。話してくれ、一体エニィルさんはどうしたんだ!」
「私の口からは、言えません」
「……何っ?」
「待ってバート」
バートが感情を爆発させそうになったのを察して、慌ててキリアはバートを止めた。
「レティさんを責めないで。話したくないことは話さなくたって良いと思う。その権利は誰にでもある。それを無理やり聞き出しちゃったら、きっと辛くなる。話すほうも、聞くほうも、お互いに」
「でもキリア、状況が状況なんだぜ」
「それはレティさんだってわかってるはず」
「リィルちゃんは?」
サラがリィルに問いかけた。
「リィルちゃんは、良いの? それで」
「うん」
リィルはすぐにうなずいた。
「俺は、父さんのこと信じてるから。いつか、きっと、それがわかるときがくる。それは今じゃないんだ」
伝言があります、とレティは言った。
『本気で会おうと思うのなら、会えないことは、ない』
「レティさん……」
「今はそれ以上は、言えません。……健闘を、祈ります」
四人は研究所を後にした。これからどうしよう、ということになった。
「私たちに、できることと言ったら……」
キリアは声に出して言ってみた。
「大地の、扉?」とサラが言う。
「うん、それしかないと思う」リィルはうなずいた。
「それが、父さんが残してくれたメッセージ、というか、俺たちが進むべき道、なんだと思う。サラが鍵と関わりあるってヒントも残してくれたし」
「てことは、大地の扉に行けば、エニィルさんに会えるかも、ってことか?」
バートはリィルに問いかけた。
「うーん。会えるかどうかはわからないけれど……、父さんが消えてしまった謎は少しは解けるかもしれない」
四人はコリンズで一日だけ待ってみることにした。ひょっとしたらエニィルが気が変わって帰ってくるかもしれない。可能性は限りなく低いが。それに、四人には大地の扉に急ぐ理由もなかった。
しかし、やはりエニィルは現れなかった。エニィルの手掛かりは全くつかめないまま、誰も何の夢も見ずに次の日の朝がやってきた。エニィルに近付くためには、こちらから大精霊に近付いてみるしかない、ということなのだろうか。
それがきっとメッセージなんだとリィルは受け取った。
(2)
ォォーーーン、と。荒野にオオカミの遠吠えが響き渡る。高く、長く、悲しげな声。
見渡す限りの荒野だった。土色の大地が広がっている。緑も、水の気配もない。この世の果てのような光景。生命あるものが立ち入るのを拒むような。
遠くの前方、東の彼方から、土ウルフたちがこちらに近付いてくるのが見えた。くすんだ毛並み。一匹一匹がかなり大きい。キリアは数を数えてみる。少なくとも、五匹。
「リィル、止めろ」
バートは乗用陸鳥から飛び降りた。迷っている暇はなかった。あいつらをヴェクタに近付けてはならない。ヴェクタは自らの身を守るだけの戦闘力を持っていない。ヴェクタが襲われたら、戦うことのできる誰か、つまり自分たちで守ってやるしかない。今ここで、移動手段であるヴェクタを失うわけにはいかないのだ。そして、もちろん、この場にいる誰をも失ってはいけない。
「ちょっと離れてろ。なるべく食い止めるけど、数が多い。食い止めきれないかもしれねー。そしたら全速力で逃げろ」
「だってさ」
と言って、リィルはキリアを見た。
「俺も戦うよ。キリアとサラは状況見て、ヴェクタのこと、たのむ」
「わかった」キリアはとりあえずうなずいた。
「状況見て、なんとかする。あんたらが危なくなったらちゃんと助けるから」
「了解。じゃあいくぞ、リィル」
「オッケー」
バートとリィルは駆け出した。リィルは水の精霊を呼び、土ウルフにぶつける。バートは剣を抜き放ち、斬りかかる。土ウルフたちは二人を囲み、次々と襲いかかる。
「あたしも降りて加勢したほうが良いかしら」
サラが言う。キリアは周囲の状況を見回して息を飲んだ。後方からも、土ウルフが二匹、迫ってきていた。サラもそれに気付く。キリアは少し考えてから、心を決めた。
「ちょっと賭けだけど、私の『風の刃』の射程まで近付いちゃいましょう」
キリアは言って、手綱を握ってヴェクタを走らせた。
「私がギリギリのところから『風の刃』を放つから、あとは」
「ええ。まかせて」サラはうなずいた。
二匹の土ウルフとの距離を測りながら、キリアはヴェクタの速度を落とした。意識を集中して、風の精霊を呼び、刃として土ウルフたち目がけて放つ。刃は一匹の土ウルフに命中した。土ウルフは高い声を上げて地面に崩れ落ちる。その後ろからもう一匹の土ウルフが駆けてくる。腹を減らして、ヴェクタを、キリアやサラを食らうために。
サラはもうヴェクタから降りていた。土ウルフが地を蹴って飛びかかってくる。サラはその動きを見据えて、自分も動く。
「やあああっ!」
サラは気合の声を上げ、土ウルフに拳を打ち込んだ。土ウルフは地面に叩きつけられ、呻き声を上げる。サラは大きく息を吸い込んで、吐き出す。
ヴェクタの上でキリアもほっと息をついていた。そのとき、すぐ近くの地面が持ち上がった。キリアは驚く。土の中から巨大な蜘蛛が姿を現した。大きさは人の大きさと同じくらい。あまりに突然のことだったのでキリアの思考が一瞬停止した。声を上げることもできなかった。
しかし、蜘蛛はヴェクタとキリアのほうには襲いかかってこなかった。八本の足で、素早い動きでまっすぐにサラと土ウルフのほうに向かう。
「サラっ!」
キリアは悲鳴を上げた。
サラは振り返って蜘蛛が迫ってきていることに気が付いた。しかし、蜘蛛はサラに襲い掛かろうとしているわけではなかった。蜘蛛はサラが倒した土ウルフに飛びかかり、牙を突きたてた。
そこから土ウルフの体内に毒液を注入して弱らせてから食らうのだろう。キリアは本で読んだことがあった。キリアは無表情でそれを眺めた。
生を得た者は、生きるために他の生を求め、同時に自らも他から求められる宿命を背負っているのだ。それが、自然の摂理。
「お疲れさま。行きましょう、サラ」
キリアはサラに声をかけた。うなずいてサラがヴェクタに乗りこんでくる。
「バートとリィルちゃんは大丈夫かしら」
と、サラが言う。
「あいつらのことだから、そう簡単にくたばってはいないと思うけど」
キリアは東に向けてヴェクタを走らせた。バートたちの戦いも終わっていた。五匹の土ウルフたちが血を流して大地に横たわっていた。どこからともなく現れた二匹の大蜘蛛が、倒れた土ウルフたちに牙を突き立てていた。
バートとリィルは少し離れたところにぐったりと座り込んでいた。二人とも腕とか肩とか足とかに傷を負っていた。土ウルフの爪や牙でやられたのだろう。あれだけの数だったのだ。
「わー。あんまり無事じゃない?もしかして」
キリアは慌ててヴェクタから飛び降りた。リィルはちらりとキリアを見て、小さく息をついた。バートはキリアのほうを見ようともせず、不機嫌な顔をして黙り込んでいる。
「どうしたの?」
何だかいつもと様子が違う二人に、キリアは心配になって声をかけた。
「余計なことしやがって」
地面を見つめたまま、バートが低く呟く。それを聞いてあからさまにリィルがむっとした。
「どっちがだよ」
「もしかして喧嘩してるの?」
珍しいなと思いながら、キリアはどちらにともなく聞いてみた。
「別に」
バートは短く答える。
「あーダメだダメだ」
リィルが首を振って明るく言った。
「ごめん、さっきのは無しで。喧嘩じゃないよな、バート?」
「ああ。別に喧嘩じゃねーし」
バートも気を取り直したように普通に言った。
「それにしても、腹減ったなあ……」
「何をのん気な。まずはさっさと怪我治してもらえって」とリィル。
「お前もな」
バートが言い返す。
「二人とも、お腹がすいてたからちょっとイライラしちゃっただけなのよね」
にこにことサラが言った。バートとリィルは思わず顔を見合わせる。
サラはコリンズで買いこんできた食糧の入った袋を手にして言った。
「まずは怪我を治して。それからご飯にしましょうか」
四人は乗用陸鳥の背で遅めの昼食をとった。食べている間は、ヴェクタの速度は落として進む。いつもよりゆっくりのスピードで東に向かう。目的地に着くまで、もう少しの間だけ、四人はヴェクタに揺られて荒野を行く。
(3)
荒野を進んでいると、四人の前に、突然、石畳の広場が現れた。一辺の長さが人の歩幅くらいの正方形の板石が整然と敷き詰められている。
四人は荒野に降り立った。乗用陸鳥は「広場」の手前に停める。サラは一枚の板石の上に立ってみた。正方形を一枚一枚踏みしめながら、広場の中央に向かって歩く。
「ここが、ツバル洞窟?」
サラは広場の中央に立って首を傾げた。正方形の板石が敷き詰められた、正方形の石畳の広場。広場の周囲には相変わらずの荒野が広がっている。
「確かにエニィルさんが言っていたとおりだけど……」
「どこかに地下への入口があるんじゃないかな?」
サラの後ろからリィルが言った。その場にしゃがみこんで、一枚の板石に触れる。
「どっかの板石を外すと、地下洞窟へ下りる隠し階段が現れるとか」
「わあっ、それ、素敵ね」
サラが楽しそうに言った。
「冗談じゃねーぞ」
バートが不機嫌に言う。
「まさかこれだけの数、一枚一枚ひっくり返してみるとかやんねーよな」
「しらみつぶし大作戦は俺もやだな」とリィルも言う。
「暗号とか解いてここだ、ってわかるとか。何かすると仕掛けが発動して地下への入口が開く、とかのほうが良いな。……キリア?」
リィルはヴェクタのところに留まったままのキリアを振り返った。
「どうしたんだ、そんなところに突っ立って」
バートはキリアに呼びかける。
「早くこっち来いよ。地下への下り方がわかんねーんだ」
キリアは小さくうなずいて小走りで駆けてきた。
「どうしたの? 何か気になることでも?」
サラがキリアに尋ねる。
「ううん、別にそういうわけじゃなくて。ちょっと出遅れちゃっただけ」
駆けてきたキリアは小さく息を切らせながら言った。
「で、どうしよう」
リィルが誰にともなく言った。
「入口が見当たらないからあきらめて帰る――ってのは無しの方向で」
「まーな。せっかくここまで来たんだし」
バートが言い、キリアもサラもうなずいた。
「エニィルさんのこともあるし……」とサラ。
「それに――感じるの」
「感じる?」
バートがサラを見た。
「…………」
サラは言葉に詰まっていた。今、自分が感じている漠然とした「何か」を、うまく言葉にして伝えることができない。
「大精霊”陸土”の気配とか、そういうのを?」
リィルが尋ねる。
「多分、違うと思うわ」
と言って、サラは首を振った。
「そんな、見たことも会ったこともないモノの気配なんて、わからないもの。そうじゃなくて、自分の内側で、何かが……」
どくん、と鼓動がサラにしか聞こえない音を立てた。サラは言葉をとめて目を閉じる。どこかから発せられているメッセージを受け入れようと、心を解き放つ。
何かがサラをどこかへ導こうとしている。サラは目を開け、導かれるままに、歩き出した。
「サラ?」
バートの焦ったような声が背中から聞こえてきたが、サラは構わず広場の中央から東に向けて歩を進めた。十歩ほど歩いたところで、突然、サラの足元の板石が数枚、一気に抜け落ちた。
「「「サラ!」」」
バートとリィルとキリアは同時に叫んでいた。サラは地面に吸い込まれるように地下に消え落ちた。
三人は慌ててサラが落ちた「穴」に駆け寄った。
「おいサラ、大丈夫か?」
バートは穴をのぞきこんで下に向かって叫んだ。穴の中は何故か薄明るかった。
「大丈夫よ」
サラの声はすぐ近くから聞こえてきた。サラは立ち上がってバートを見上げた。
「そんなに深くなかったの。飛び下りられるくらいの高さよ」
バートは飛び下りてみた。穴の深さはバートの背の高さより少し高いくらいだった。バートが手を伸ばせば穴の縁に手がかけられる。バートなら自力で地上に上れるだろう。それから、キリアやサラを引っ張り上げれば良い。それを確認してから、リィルとキリアも飛び下りた。
穴の中は壁も床も天井も岩石でできていた。全ての岩石は薄明るい光を放っていて、灯りが無くても周囲を見渡せた。四人が立っているところは小さな宿屋の一室くらいの広さがあり、奥に向かってまっすぐに通路が延びている。通路は人ひとりが何とか歩けるくらいの幅で、二人並んで歩くことは難しそうだった。通路は緩やかな下り坂になっていた。
「不思議な空間ね……」
キリアは呟いた。サラはまっすぐに延びた通路をじっと見つめている。
「あたし……行かなくちゃ」
と、小さく呟く。
「え?」
キリアがサラを振り返る。
「何だか、……が、騒いで……。ごめんなさいっ!」
サラは通路に向かって駆け出した。三人は虚をつかれる。
「サラ?!」
一瞬遅れて、慌ててリィルも駆け出した。
「サラ、ちょっと待てっ、ひとりで行くなっ!」
バートとキリアも続く。
三人はサラを追って薄明るい通路を駆け下りた。何も考えている暇はなく、とにかくサラに追いつこうと全力で走るしかなかった。通路は狭く、足元も平らではないので走り辛い。通路がまっすぐだったのは最初だけで、あとは右に左にカーブしながら、地下深いところに下りていく。
最後尾を走るキリアは何度か岩に足をとられてよろめいた。そのたびに前を走るバートとの差が開いていく。だんだん呼吸が苦しくなってきて、足も痛くなってきた。キリアは立ち止まって岩に手をついてしばらく呼吸を整えると、最後の力を振り絞って声を張り上げた。
「ごめん、もう限界、先行ってて!」
キリアはその場に座り込んで息を切らしていた。ここはどこなんだろうと思う。ずいぶん走って、かなり深いところまで下りてきたのではないだろうか。
しばらくして、バートがひとりで駆け戻ってきた。
「大丈夫か?」
と言って、キリアの隣に腰を下ろす。
「な、なんで戻ってきたのよ? サラは?」
「リィルが追っかけてる。俺はキリアんとこ戻れって言われた」
「私なんかよりサラのことを心配しなさいよ」
「でもお前をひとりにするわけにはいかないって、リィルが」
と、バートは言う。
「俺もそう思ったし」
キリアは大きく息をついた。
「ごめん、足手まといで」
「別に。先頭のリィルが追いつけなきゃ俺たちだって追いつけねーし。ま、急ぎつつゆっくり行こーぜ」
「まーね。……ありがと、気ぃ使ってくれて」
キリアとバートは少し休憩してから走り出した。先頭をバートが走り、後ろをキリアが走る。バートはキリアにとっては速すぎるペースで走っていたが、キリアはなるべく音を上げずに頑張ってついていくつもりでいた。
「?!」
突然、キリアの目の前が真っ暗になった。一瞬後、冷たい床の上に横たわっている自分に気が付く。あれ? どうして自分は倒れているのだろう……
「おいっ」
叫んでバートが駆け戻ってきた。キリアはゆっくりと上半身を起こす。
「大丈夫かっ?」
バートはキリアの顔を覗きこんできた。
「ダメかも……」
キリアは小さく言った。走っているときは夢中で気がつかなかったが、冷静に自分を見つめてみると、今の自分のコンディションは最悪だった。頭がぼうっとして、身体が熱っぽく、吐きそうなくらい気分が悪い。
「……ねえ、ヘンなにおいしない……?」
キリアはバートに尋ねた。
「ヘンなにおい? 別に俺は何とも」
「やばいくらい空気悪いわよ、ここ。しかも下りていくにつれて空気の悪さが増していくみたい。……あんまり考えたく、ないんだけど。深いところで有害なガスか何か吹き出ているんじゃないかな……」
「げっ」
それを聞いて、バートが顔をしかめた。
「俺は今のところ大丈夫だけど、お前は具合悪くなってるしな。じゃあ、さらに最深部に下りてったリィルとサラは……」
「早く連れ戻したほうが良いわよ、きっと。最悪、途中で倒れてたりして……」
キリアは苦しそうに息をつく。
「早くそのこと伝えに行かなきゃ……」
「でも、お前、」
「私はまともに動けそうにないから、ここで待ってる」
とキリアは言った。
「バートは早く行って」
「………」
バートはしばらく難しい顔をして考えこんでいたが、やがて、キリアに背を向けてかがみこんだ。
「……え?」
「おぶってってやる。まずはお前を地上に連れてって、それからサラとリィルを連れ戻す」
「え? わ、私は良いわよ、ここで待ってるから」
慌ててキリアは言った。
「でも、お前をここに置いてくわけにはいかねーだろ」
バートは真剣な声で言う。
「俺は俺で平気だし、あいつらもまだ平気かもしれねーし、でも、現にお前は具合悪くなってるんだから」
「……じゃあ、お言葉に甘える」
キリアはバートに体重を預けることにした。ごめんね……、と心の片隅で詫びる。でも、それ以上のことを考える余裕はなかった。正直、一刻も早くこの地下洞窟から地上に戻りたかった。外の新鮮な空気を吸いたかった。
バートはキリアを背負ったまま、上り坂をさっきと変わらないペースで駆け上っていった。地上が近づくにつれ、空気の悪さも薄らいでいき、だいぶ気分も回復してきた。
二人は飛び下りた穴の真下まで戻ってきた。バートはキリアをその場に下ろすと、穴の縁に手をかけて地上によじ登った。そこから身を乗り出してキリアに手を伸ばしてくる。キリアはバートの手を握った。バートはすごい力で一気にキリアを引っ張り上げた。
石畳に座り込んで、キリアは何度か深呼吸をした。青い空に、白い雲。石色の石畳に、土色の荒野。見慣れた光景をこんなにありがたく感じるなんて思ってもみなかった。
「少しは良くなったか?」とバート。
「うん、だいぶ。本っ当にありがと」
キリアはバートに微笑んだ。
「そっか。じゃあ俺は、またひとっ走り行ってくるかな」
「悪いわね」
「いや、俺は全然元気だし」
そう言ってバートは穴に飛び込んだ。
「気をつけてね」
キリアは上から声をかける。
「人のことより自分のことを心配したほうがいーんじゃねーか? ええ、お嬢ちゃん?」
「!」
キリアははっとして振り返った。赤い髪の男が二人、立っていた。
(4)
「あんたたちは……」
キリアは呆然と呟いた。ひとりは赤い短髪に白衣の男で、もうひとりは赤く長い髪にガルディアの軍服を身にまとった男だった。彼らには見覚えがあった。大賢者の塔からコリンズに向かう道中でエニィルを襲った男たちに違いなかった。
「アビエス……」
キリアは長髪の部隊長を見つめてその名を口にした。男はキリアに向けて優雅に微笑みを返した。
「初めまして、かな」
赤い短髪の男が口を開いた。
「俺はメヴィアスってんだ。ガルディアの第三部隊の隊長。そして、これはほんの挨拶代わり……っと」
メヴィアスは右手をキリアに向けて突き出した。火球が燃え上がり放たれると同時にキリアも腕輪をはめた右手を掲げて風の精霊を放った。ずきりと頭が痛む。万全ではない状態で放った『風』は、火球を完全に相殺できなかった。左頬を熱がかすめ、左肩に焼けるような痛みが走る。キリアは右手で左肩を押さえて小さく声を上げた。唇を噛みしめて痛みをこらえる。
「なかなか良い反応してんじゃねーか。その状態で」
メヴィアスがニヤリと笑った。
「バカにしないで!」
キリアは左肩の痛みと気分の悪さをこらえながら叫んだ。
「あまり無理をしないほうが良いですよ」
アビエスが薄笑いを浮かべて、キリアに言った。
「私たちの目的は貴女ではありません。賢明なお嬢さんなら、私たちが何故、何のためにここに現れたか、わかっているでしょう」
「……大精霊”陸土”ね」
キリアはアビエスを見据えて言った。
「ここに”陸土”がいるって、貴方たちも気が付いた。そして、鍵と”陸土”を奪いに来た……」
そこまで言って、キリアは風の精霊をアビエスに向けて放った。再びメヴィアスが火球を放ってキリアの『風』を相殺した。
「フン、”風雅”の威力はこんなもんか?」
メヴィアスが不適に笑う。
「出し惜しんでいるのよ」
キリアは強がってみせた。
「私は無益な殺生は好まない性質なんですよ。メヴィアス様はどうだか知りませんが」
とアビエスは言う。
「私たちの目的は、”陸土”とその鍵です。貴女たちは”陸土”の『鍵』を手に入れた。そして大地の力を持つ少女――そう、ピアン王女が、扉を開けて”陸土”の力を手に入れるために、”陸土”のもとに向かっている。そうですね?」
「…………」
キリアは否定も肯定もせずに黙っていた。否定したところで彼らの目的は変わらないだろう。
「私は無益な殺生は好みません。もし、貴女が大人しく……」
「行かせないわよ」
アビエスの言葉をさえぎってキリアは言った。
「ほら見ろ、アビエス」
と、メヴィアスがアビエスを見る。
「やっぱりこのお嬢ちゃんには、痛い目見てもらわないといけねーみたいだぜ?」
「二対一で、貴女の調子は万全ではない。それでも?」
と、アビエス。
「当たり前でしょ」
キリアは言い放った。アビエスは苦笑してため息をついた。
「仕方ありませんね」
「二対一じゃねーぜ、二対二だ。互角だろ?」
キリアの前に黒髪の少年が立った。右手に剣を握りしめ、キリアをその背にかばう。
「バート、行ったんじゃなかったの?」
キリアは驚いてその背に問いかけた。
「頭上でこんだけ騒いでて行けるかっつうの。気になって出てきてみたら案の定じゃんか」
バートは振り返らずに答える。キリアは返す言葉もなかった。
「ごめん、ありがとう。正直、ひとりだったらちょっとやばかったかも」
キリアは素直な言葉を口にしていた。
「いーって。お前はゆっくり休んでな」
バートは地を蹴った。一気に間合いを詰めてアビエスに斬りかかる。アビエスは剣で受け止める。いつの間にかアビエスの右手には剣が握られていた。
(アイツ、剣が使えるの?!)
キリアは驚いた。しかもアビエスは、バートと互角に剣を合わせている。
「今回は本気出してくれんだろーなっ?!」
バートが叫ぶ。その言葉にキリアはさらに驚いた。
「私はいつだって全力ですよ」
バートの剣を受け流しながらアビエスが微笑った。
「嘘つけ! お前、二刀流だっただろ? もう一本の剣は抜かないのかよっ?!」
二人は激しく剣を合わせている。キリアは息を詰めてそれを見守っていた。信じられない思いだった。全力で振り下ろしているはずのバートの重い一撃を、アビエスは軽々と受け流している。しかも、バートの剣は大精霊の力でパワーアップしているはずなのだ。
キリアはアビエスのことをどちらかというと頭脳派、策士、もしくは精霊使いタイプだと思っていた。非力そうな細身の身体に、バートと互角に渡り合えるだけの力が秘められているとは思ってもみなかったのだ。
(人は見かけによらないのね……)
「俺は眼中に無しかよ、ちっ、面白くねーな」
メヴィアスが不機嫌に呟いた。彼の周囲の大気が赤く揺らぎ、左右に、二体の赤い四足の獣が現れる。
「何をする気なの」
キリアはメヴィアスに言った。いくらバートでも今の状態でメヴィアスの獣に襲いかかられるのは厳しいだろう。メヴィアスの注意をこちらに向けさせなければならない。
キリアは右手の腕輪を通じて『風』に語りかけた。メヴィアスは赤い獣を生み出す。エニィルは青い小鳥を生み出す。そしてアビエスは剣を……
(私にも、きっとできる)
何度もこの目で見たのだ。それに、今は”風雅”の力も得ている。
キリアが望めば、もしかして、銀の翼で自由に空を羽ばたくことだってできるかもしれない……
キリアは右の掌に意識を集中させる。
そこに、一羽の銀色の小鳥が現れた。
「ほう」
それを見てメヴィアスがニヤリと笑った。
「なかなかセンスあるじゃねーか、お嬢ちゃん」
「行っけぇっ!」
キリアは叫ぶ。銀色の小鳥はメヴィアス目がけて飛び立った。
*
ツバル地下洞窟、最深部。
通路は行き止まりになっていた。どこかで見たことのあるような古びた金属製の扉がはめこまれている。岩石の床も壁も天井も、相変わらず薄明るい光を放っている。
扉の前には、ひとりの男が立っていた。長い黒髪に、ガルディアの軍服。その立派な軍服とマントは、彼がガルディア軍の幹部であることを示していた。
「久しぶり、ピアン王女」
扉の前に立つ男は言った。
「クラヴィス将軍……」
サラは呟いた。
「待っていた」
と、クラリスは言う。
「あたしを? バートじゃなくて?」
「そう、君を。ピアンの王女である君を」
少し遅れてリィルはサラに追いついた。行き止まりの扉の前に立つクラリスを見てその場に凍りつく。
「クラリスさん……?」
「あたしに何の用なんですか」
クラリスを見据えて、サラは毅然として言葉を放った。
「サラ、ダメだ!」
リィルは素早く動いてサラをその背にかばった。相手は「敵」なのだ。たとえバートの父親であっても、元ピアンの将軍であっても、敵なのだ。リィルはリンツでサラが倒れたときの話をキリアから聞かされていた。キリアはサラが倒れたのは自分の所為だと悔しそうに言い、もう二度とあんな思いはしたくない、だからバートもリィルも敵に対して甘い考え持っちゃだめよ、後で後悔して苦しみたくないでしょ、と言った。それにリィルはクラリスが容赦なくバートを斬り捨てたところを見ていた。もし彼が剣を抜いてサラに斬りかかろうというのなら、本当に自分の命を捨てる覚悟で立ち向かわなくてはならない。
「君はこの扉を開けて、”陸土”の力を手に入れることができる」
クラリスはサラに言った。
「”陸土”……。その扉の奥に大精霊がいるのね?」
「そう」クラリスはうなずいた。
「そしてこの扉は、君にしか開けられない」
「炎の扉がバートにしか開けられなかったように?」
サラの言葉に、クラリスはうなずく。
「もしあたしが、嫌だと言ったら?」
「言ってみる?」
クラリスは無表情で問い返してきた。
「…………」
サラは口を閉ざした。リィルは全身に冷たい汗をかいていた。この状況で、自分たち二人に、選択の余地は残されているのだろうか。もしバートがこの場に現れたとしたら、状況は変わるのかもしれないが……
「あたしも、将軍に聞きたいことがあるんです」
サラは口を開いた。
「何?」
「将軍がピアンを去っていったとき、あたしのお父さま……ピアン王カシスは、貴方がガルディアの将だってこと、知ってたんじゃないですか?」
「?」
リィルはサラの発言に驚いた。どこからそういう発想が出てくるのか、リィルには全く見当がつかなかった。
「約束、だった」
と、クラリスは答える。
「え」
「最初から、俺がピアンに来たときからの」
「どういうことですか」
「それ以上説明することはない」とクラリスは言う。
「そんなことよりも、王女、こちらに来て、この扉を開けて」
落ち着いた、しかし有無を言わせぬ口調で、クラリスはサラに言った。
「扉を開けるには『鍵』が必要なんですよね? あたし、『鍵』なんて持っていません」
「いや」クラリスは首を振った。
「君なら開けられる」
「リィルちゃん……」
サラはリィルにどうしよう、というように小声で問いかけた。リィルはクラリスを見据えて口を開いた。
「サラに扉を開けさせて、サラに”陸土”の力を手に入れさせて、どうするつもりなんですか? 返答次第では、サラにそんなことさせるの、黙って見過ごすわけにはいきません」
「どうするも何も」
と、クラリスは言う。
「見過ごすも何も、君たちに残された道は、それだけ」
クラリスは腰の剣を抜き放った。リィルは唇を噛みしめた。全くクラリスの言うとおりだった。頭の中が真っ白になって、鼓動の速さを抑えることができない。
「サラ、逃げろっ!」
リィルは叫んで、右手をかざして水の精霊を召喚し、クラリスに向けて放った。”流水”の力も合わさった威力の水の精霊を、クラリスは手にした剣で簡単に斬り捨てた。剣の纏う炎が水の精霊を相殺し、青い輝きがスパークしてもとの薄明るい岩石に囲まれた空間に戻る。
次の瞬間、クラリスが左手で炎の精霊を放った。リィルは為す術も無く壁に叩きつけられていた。息が詰まって、口の中に鉄の味が広がる。全身が熱いんだか痛いんだかわからない。感覚が正常に働かない。岩石の床に両手と膝をつく。呼吸をすることさえ忘れ――
「やめて下さい!」
サラが叫んだ。リィルが顔を上げると、クラリスの剣の切っ先が間近に迫っていた。死を覚悟する暇もなかった。
クラリスはサラを見て、剣を止めた。
「将軍の言うとおりにします。だから……!」
サラはリィルのそばにかがみこんで、クラリスを見上げた。
「サラ……ダメ……だ……」
リィルは何とか声を絞り出した。クラリスを目の前にして、自分の無力が泣きたいくらい悔しかった。
「リィルちゃん……」
サラは首を振って、リィルの肩にそっと触れた。サラのあたたかい力が流れ込んできて苦痛を和らげていく。
「ごめんなさい……」
「……? な、んで、謝る……ん……」
「将軍からは、もう、逃げられないわ……。だから、あたしは……こうすることしか……」
「……サラ……?」
「でも、あたしは、最後まであきらめないから……。リィルちゃんも、最後まで……あきらめないで、ね……」
「…………」
サラの言葉をひとつひとつ聞きながら、リィルはゆっくりと呼吸をした。心地よい眠気がリィルを誘う。サラの大地の精霊の力かもしれない……。
「……ありがとう、あたしのために……。でも今は……ゆっくり休んでて良いから……」
目を閉じて完全に意識を失ったリィルの身体を、サラはそっと横たえた。
「行きましょう」
と言って、立ち上がる。クラリスはサラを見てうなずいた。
(5)
(……ル、リィ……ル……)
懐かしい声が、リィルの名前を呼んでいた。何も見えない、真っ白な空間で。
(……父、さん……?)
リィルは頭を巡らせた。周りは何も見えない。
――いや。父さんのはず、ない。
リィルはすぐに否定した。リィルの父エニィルは、『あのとき』、消えてしまったのだから。あのとき以来、いくら神経を研ぎ澄ませても、父の気配の欠片すら掴むことはできなかったのだから……。
(……後のことは……だ、よ……)
(まずは、”陸土”を。そして、……)
(……そう。僕は、最初から……)
(こんなことを……に、背負わせるつもりは……。本当なら、自分の、この手で……)
(でも、みんなは、……より、大切だから、って……)
(……かもしれないけれど……ガルディアを、止めるには……もう、……)
エニィルの声は途切れ途切れに、リィルに何かを語りかけてきていた。父は消えてしまったはずなのに……。これは、夢? ――違う。これは……
……「記憶」、だった。あのときの……
*
「リィル君」
名前を呼ばれてリィルはゆっくりと目を開けた。リィルの意識は現実世界に引き戻された。――悪夢のような、現実世界に。
リィルは自分を見下ろすクラリスとその腕の中に抱えられたサラを見た。サラは完全に意識を失っているようだった。リィルはサラの名前を呼ぶが、サラは目を覚まさない。クラリスは自分が扉の中でおこなってきたことをリィルに告げる。
「じゃあ、行こう」
クラリスはリィルに呼びかけた。
「立てるね、リィル君」
リィルはうなずいて立ち上がった。
(サラ……。みんな……)
リィルは静かに覚悟を決めた。起こってしまったことはもう元には戻せない。今の現実は受け入れるしかない。こうなってしまった今、自分にできることは……。
(あたしは、最後まであきらめないから……)
サラの言葉がよみがえる。
(リィルちゃんも、最後まで……あきらめないで、ね……)
リィルは唇を噛んで拳を握り締めると、きっとクラリスの背中を見据えた。
*
バートとアビエスは戦っていた。バートが剣を振り下ろし、アビエスが剣で受け止める。バートが突きを放ち、アビエスが剣でなぎ払う。それの繰り返しだった。バートの剣はアビエスに傷ひとつ負わせることができず、アビエスの剣もバートを傷つけることはない。
「お前、やる気あんのか?!」
バートはアビエスに叫んだ。
「防戦一方じゃんか。そんなんじゃ俺たちを突破して大精霊を手に入れることなんかできねーぜ」
「それは、貴方が強いから攻めあぐねているんですよ」
と言って、アビエスは微笑む。
「そんな戯れ言は通用しねーよ! バカにしやがって!」
バートは攻撃をやめてアビエスを見据えた。
「俺がクラリスの息子だから遠慮してるのか……?」
「…………」
バートの問いに、アビエスは黙っている。
「アンタに俺を倒す意思がねーのなら、お互い、戦うのは時間と体力の無駄だ。そう思わねーか」
「全くその通りですね」
「認めたな」とバート。
「どういうつもりなんだ、お前……」
「大ヒントをあげましょう」とアビエスは言った。
「例えば、もし、私たちの行動が、ただの時間稼ぎ、だったとしたら」
「!」
バートははっとした。嫌な予感がバートを襲う。時間稼ぎ? 何の……。バートはこの場にいない二人、サラとリィルのことを思った。もしかして、自分たちはどこかで致命的な過ちを犯した……?
「来ましたね」
バートから視線を外して、アビエスが呟いた。アビエスの視線の先を見やって、バートは息を呑んだ。
そこには、バートの父親、クラリスが立っていた。その腕の中に、サラを抱えている。サラはクラリスの腕の中で目を閉じてぐったりとしている。
クラリスのかたわらにはリィルが立っていた。自分の感情をどこかに置き忘れてきたような表情で。
「父親……。サラ、リィル……」
バートは呆然と三人の名前を呟いた。
メヴィアスと戦っていたキリアは三人の姿を見て、しまった、と唇を噛んでいた。まさかアビエスとメヴィアスの他に、クラリスまで来ていたなんて。ということは、多分、アビエスとメヴィアスは囮だったのだ。そしてクラリスが洞窟内部で待ち伏せていた……
「サラに何したの!」
キリアはクラリスに叫んだ。
「王女には、”陸土”の力を手に入れてもらった」
と、クラリスは言う。
「サラは大丈夫なの?!」
「大丈夫、衝撃で気を失っているだけ」
「サラは、鍵を持っていたってことなの? それとも、鍵は貴方が?」
「王女は、自らの内部に鍵を持っていた」
と、クラリスは答えた。
「ピアン王家の”血”……。それが鍵、なんだ」
「サラ……」
バートは意識のないサラを見つめて呟いた。サラは目を閉じたまま答えない。
「サラを……どうする気なの」
キリアはクラリスに尋ねた。
「我が王のもとへ連れて行く」
と、クラリスは言う。
「リィル君にも来てもらう」
「リィル……」
キリアはその名を声に出して呼んだ。リィルはキリアを真っ直ぐに見た。しかし、その表情は何も語っていない。
「何でリィルを……」
「我々は、どうしても水の大精霊”流水”だけは扱えませんからね」
とアビエスが答える。
「リィル……」
キリアはもう一度つぶやく。
「そして、」とクラリスは言った。
「君たちには、『鍵』を渡してもらう」
「この腕輪と、バートの剣を?」
そうだ、とクラリスはうなずいた。
「貴方たちに”炎”と”風雅”は扱えないはずよ」
キリアは平静を装って言った。
「第一、私とバート以外はこの鍵に触れることだってできないはず……」
「できる」
クラリスはキリアの言葉を否定した。
「持ち主が手放せば、鍵は誰のものでもなくなる。俺は王女の命を盾に君たちに『手放せ』と命じる。君たちは手放す」
悪夢だ、とキリアは思った。どこでどう間違ってしまったのだろう。今まさに、自分たちが必死で集めてきた四大精霊が、敵の手に渡ろうとしている……
(エニィルさん……)
キリアは黒いスーツの謎めいた男性の姿を思い浮かべていた。
(もし、貴方がこの場にいたら、どうするんですか……? 貴方は、この展開まで予見していたんですか? どうして、私たちの前から姿を消したんですか……?)
「父親……」
バートが口を開いた。炎の剣を握り締めて。
「俺はアンタと戦いたい。アンタを倒したい。あのときは負けたけど、大精霊の力を手に入れた今なら勝てるんじゃねーかって思っている。アンタが現れたら問答無用で斬りかかるつもりだった」
バートは剣を握り締めてクラリスの前まで歩いた。クラリスはサラを抱く腕に力を込める。
「今は、アンタに従うしかなさそうだけど……、俺は、いつか、絶対、アンタを倒すからな……」
絞り出すようにそう言うと、バートは剣を地面に投げ捨てた。
「バート……」
キリアは涙があふれそうになるのをぐっとこらえた。もう、何にすがれば良いのかわからない。頭の中がぐちゃぐちゃになって、混乱している。
「キリアちゃんも」
クラリスの言葉に、キリアは身をかたくした。――身体が、金縛りにかかったかのように動かない。
「メヴィアス、アビエス」
クラリスは二人の部下の名を呼んだ。二人はクラリスの元まで歩いた。
「アビエスはリィル君を。メヴィアスは”炎”と”風雅”を」
「俺に任せてくれるってのか。光栄だな!」
メヴィアスはバートの剣を拾い上げた。クラリスの言った通り、メヴィアスが剣に触れても何も起こらなかった。
メヴィアスはバートの剣の切っ先をサラの白い頬に当ててキリアに向かってニヤリと笑った。
「王女の奇麗な顔に傷がついてもいーのか? ええ、お嬢ちゃんよ?」
「っ、わかった、わよ……」
キリアは腕輪を外してメヴィアスに向けて投げつけた。メヴィアスはそれを片手でキャッチした。
「クククッ……ハハハッ」
メヴィアスは愉快そうに笑った。
「これで揃ったってわけだ、四大精霊が。そして、最後に四大精霊全てを手に入れたのは俺たちガルディアだったってわけだ。ハハハッ」
キリアは奥歯を噛み締める。身体の震えが止まらない。
「悔しいか、悔しいだろう。ハハハハハッ」
メヴィアスの耳障りな笑い声。キリアは頭が痛くなってきた。
「リィル君」
アビエスがリィルの隣に立った。リィルは表情を殺してアビエスを見返す。
「貴方は、飛べますね?」
リィルは首を振った。
「私に抱えられるのは嫌でしょう? 手を貸しますから、それで、良いですね」
アビエスはリィルの手をとった。リィルは抵抗しない。二人の身体がふわりと宙に浮かび上がる。サラを抱えたクラリスと、剣と腕輪を手にしたメヴィアスも赤い翼を広げて宙に舞い上がった。
バートとキリアは声もなく飛び去っていく三対の赤い翼を見上げていた。赤い翼が見えなくなって、澱んだ空だけが残っても、いつまでも、いつまでも……
(第3部・完)