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四精霊の伝説  作者: 沢崎 果菜
第3部 動き始めた伝説
17/26

水 の 迷 宮 ( 上 )

(1)


 コルシカ王国最南の町、コリンズ。

 リィルとキリアは並んで木製のベンチに腰掛けていた。二人の目の前には真っ青なリーガル湖が広がっている。ひんやりとした朝の空気。わずかに潮の香りがする。寄せては返す波の音。波打ち際でちゃぷちゃぷと音を立てている。揺らぐ水面の上にごつごつした頭を覗かせる岩岩。遠くの湖面から湯気のように霧が立ち上り、ゆったりと流れている。

 風が出てきた。波音がざざーん、ざざーんと大きくなる。遠くの波間で二人乗りの手漕ぎボートがシーソーのように揺れながら漂っている。乗っているのは、バートとサラだ。朝、四人で湖畔を散歩していると、二艘のボートが桟橋に繋いであるのを見つけた。サラが「乗りたい」と言ったので、リィルとキリアで「行け」とバートの背中を押してやった。キリアは気を利かせるつもりなのか、自分はボートに乗らないと言って桟橋から少し歩いたところにベンチを見つけて腰を下ろした。

 隣に座るキリアを見ると、バートとサラの乗るボートを自分のことのようにすごく嬉しそうに眺めている。リィルは少しだけ複雑な気持ちになる。小さくため息をつくと、キリアがはっとしたようにこちらを見た。リィルはしまった、と思った。今のため息はどう考えたって場違いだった。

「リィル……」

 キリアが言葉を選ぶように口ごもった。

「もしかして……悪いことしちゃった? だとしたらごめん……」

「はっ? 何のこと?」慌ててリィルは言った。

「な、何勘違いしてんのか知らないけどさ、今のため息は……ちょっと考えごとしてて」

「考えごと?」

「うん。……父さんのこと」

 確かにリィルは苦し紛れではなく、もうひとつため息をつきたくなるような気がかりを抱えていた。むしろこっちの方が深刻だった。リィルの父、エニィルのことだ。エニィルは昨夜一晩中戻らなかった。朝になっても帰ってこないので、暇を持て余して四人で湖畔の散歩に出かけたのだ。

 乗用陸鳥ヴェクタに乗って北に向けて旅を続けていたバート、リィル、キリア、サラ、エニィルの五人は、昨夜遅くにここ、コリンズの町に辿り着いた。コリンズはリーガル湖の北に位置する湖畔の町で、コルシカ王国最南の町である。標高は平地より少し高く、涼しく感じる。リーガル湖の東西からは湖水が滝となって流れ落ちている。その滝の水は東と西の海に向けて流れる大河となり、この河がキグリス・コルシカ国境になっている。橋を渡って国境を越えるときにちょっとした入国手続きがあった。

 コリンズではエニィルの知り合いの女性に会うことになっていた。名前はジュリア=レティスバーグ。コルシカ首都から派遣された研究者だとエニィルは言った。彼女がリーガル湖にあるはずの「扉」について一番詳しい人物だと言う。

 五人は宿をとり、食堂で遅い夕食をとった。「今日はもう遅いから、レティに会いに行くのは明日にしよう」とエニィルは言った。

「そんで、また父さんは『入ったことある』とか言うんでしょ?」

 魚貝ピラフを口に運びながらリィルは言った。

「『鍵』は塔に預ける前は持っていたわけだし」

「残念ながら、ないよ」

「嘘」

「だって『水の扉』はまだ発見されていないんだから」

「そうなんですか?」

 キリアは食事の手を止めて驚いて声を上げた。

「でもエニィルさん、全ての『扉』の場所は知っているって……」

 四体の大精霊、”ホノオ”、”風雅フウガ”、”流水ルスイ”、”陸土リクト”の居場所については、パファック大陸では様々な言い伝えが有り過ぎて真実はほとんど知られていなかった。一番真実に近いとされていたのが”ホノオ”の扉で、長年開けられなかったのだがつい先日、バートが開けてしまい、本物だったということが判明した。そして”風雅フウガ”の扉も実在していた。残るは”流水ルスイ”と”陸土リクト”だけとなった。

 エニィルは旅立つ前、「”ホノオ”以外の三体の大精霊の居場所も、知っている」と言っていた。だから迷うことなくここ、コリンズにやって来たのだが……。

 話すと長くなりそうだから詳しい話は明日、と言って、五人は分かれてそれぞれの寝室に向かった。そしてエニィルは「バート君とリィルは先に寝てて」と言って、どこかへ出かけて行ってしまった。リィルは夜中に何度か目覚めたが、一晩中エニィルが戻ってきたような様子はなかった。

 エニィルがどこへ行ったのか、何故朝になっても帰ってこないのか。リィルにはさっぱりわからない。知り合いだというレティさんのところかな、とも思ったが、断言はできない。それに、もしそうだとしたら……リィルに黙って一晩中、というのはさすがに少しまずいのではないだろうか。

(まあ、父さんのことは全面的に信用してるけどさ)

 リィルは昔の会話を思い出していた。夜中、両親が寝た後のダイニングテーブルで、エルザとフィルとリィルの三姉弟は夜食にピザトーストを焼いて食べていた。そのとき「面接か何かで『一番尊敬する人は?』と聞かれたら何と答えるか」という話になった。エルザは「お父さん」と即答した。「なんで?」と聞いてみると、

「あの人は一見ああだけど奥深いわよー」

 と、エルザは言う。

「お母さんも良く見抜いて捕まえたわよね。それもひっくるめて二番目に尊敬する人はお母さんかな。私も将来、ああいう人を捕まえたいわね」

「へえ……」リィルは感心した。

「今の言葉、父さん聞いたら涙流して喜ぶよ」

「ダメよ。内緒よ」

 エルザは微笑んだ。いつになく素直な微笑みに見えた。

 リィルはやっぱり俺も「父さん」って答えよう、と思った。

「エルザってファザコンだったんだな」

 フィルがリィルにぼそりと呟く。それが運悪くエルザの耳に届いてしまった。

「そんなんじゃないわよ、真面目な話してるのよっ、バカ!」

 エルザは思い切りフィルの頭をはたいた。フィルは叫び声を上げて椅子から転がり落ちる。

「兄貴、血ぃ出てる。治してやろっか」

 父に教わったばかりの精霊術を試そうと、リィルは兄に手を伸ばした。フィルは慌ててそれを制した。

「やめろー。俺を殺す気かっ。自分で治すから良いっ。お前はいつかエルザを倒すときのために攻撃の術だけ磨いてろっ」

 しまった、という顔をしてフィルは自分の口を塞いだ。余計な一言で墓穴を掘りまくる兄に、リィルは「ごしゅうしょうさま」と心の中で合掌した。

「ふぅん。フィルってば弟にそういう教育してるのね」

 エルザは怖い笑みを浮かべて椅子から立ち上がった。「じょ、冗談に決まってるだろっ」と後ずさりながらフィルの顔が恐怖に歪む――

「あれっ?!」

 隣に座るキリアが声を発した。リィルは現実に引き戻される。キリアの声には切羽詰ったような響きが含まれていた。

「どうかした?」

 リィルはキリアを見る。

「サラとバートがっ!」

 キリアが指さして叫んだ。リィルは湖面に浮かぶバートとサラのボートに目を移した。

 しかし、それは広い湖の、どこにも見当たらなかった。

「え?」

 目を凝らして見つめても、ついさっきまで湖で揺れていたボートの姿はどこにもない。消えたのだ。リィルとキリアが注意を逸らしていた一瞬の間に。

「バート! サラ!」

 リィルは立ち上がって大声を上げた。しかし、反応はない。

「俺、行ってくる」

 リィルはボートが繋いである桟橋へ駆けた。「私も」と、キリアも走ってついてくる。

「キリアは父さんに知らせてきて」

 リィルは振り返ってキリアに言った。

「リィル一人で行く気? もし何かあったら――」

「遅いよ。もう何かあってるんだって。父さんに知らせないまま俺たち二人にも何かあったほうがまずいと思う」

「そりゃそうだけど、」とキリア。

「でも、エニィルさん帰ってきてなかったらどうするの」

「探して」

「そんな、心当たりないわよ」

「キリアにないのなら俺にもない」

 リィルはきっぱりと言った。

「……わかった」

 一瞬の逡巡の後、キリアは少々不満そうにうなずいた。

「エニィルさん連れてすぐに追いかけるから。できれば追いつくまで待っててって言いたいところだけど」

「状況次第だね。至急助けが必要かもしれないから」

「くれぐれも判断誤らないでよ」

「うん、努力する」

 リィルの返事を聞いてキリアは駆け出した。振り返ってその後姿をちらりと見てから、リィルは残りの一艘のボートに乗り込んで、ロープを解いた。


(2)


「バートとリィルってつくづく正反対で面白いわよね」

 バートの枕元の椅子に腰掛け、リンゴの皮を剥きながらリィルの姉エルザが楽しそうに笑った。まったく、リィルもリィルなら姉も姉だよな、と言おうとしてバートはごほごほと咳き込んだ。こっちは高熱を出してベッドで伏せっているのだ。

 ピアン首都に雪が降った。首都は一夜にして一面真っ白な世界と化した。朝起きてバートは家中の窓を開け回って外を眺めた。それだけじゃ足りなくて外に飛び出してリィルの家まで駆けた。寝ぼけ眼のリィルを無理やり連れ出して雪の中を駆け回って遊んだ。

 その日の夜、バートは熱を出した。次の日の昼すぎ、リィルがみかんを一山持って見舞いに来た。リィルはベッドに横たわるバートを見下ろして驚いたように呟いた。

「馬鹿は風邪ひかないって嘘だったんだ」

 第一声がそれかよ、と言おうとしてバートはごほごほと咳き込んだ。体中が熱くてだるい。頭が重い。喉が痛む。呼吸が苦しい。

 リィルはテーブルにみかんのかごを置くと、一個を手にとって皮を剥き始めた。みかんの甘酸っぱい香りがバートにも届く。みかんは好きだが今は食べる気分ではない。リィルは指でつまんで口に運びながら「バートも食べる?」と聞いてきた。

「食欲なぃ……」

 バートは弱々しい声で答える。

「そう? 俺ばっかり食べちゃって悪いね」

 と言いつつ悪く思っている様子もなくリィルはみかんを美味しそうに食べる。一個食べ終わるともう一個に手を伸ばす。二個食べ終わって「じゃ、お大事に」と言って帰っていった。何しに来たんだよ、と思った。次の日にはリンゴを持ってエルザ姉がやって来た。

 バートは寒さに弱かった。毎年冬になると何度か風邪をひいて寝込んだものだった。とは言っても体力はあるので何日も長引くということはなく、二日もすれば何事もなかったかのようにけろりと良くなってしまうのだが。

 反対にリィルは冬は元気なのだが暑さに弱かった。夏になると夏ばてたと言いながらあまり食べなくなり、体調を崩して寝込むこともあった。バートは母ユーリアに「持って行きなさい」と言われてメロンを持ってリィルの家に見舞いに行った。そのメロンがリィルの口に入ることはほとんどなかった。


 *


「ここ、どこだ……?」

 バートはつぶやいた。言葉と一緒に白い息が吐き出される。少し寒すぎるくらい涼しい。

 バートの隣に立つサラは手を伸ばして壁に触れた。氷のように冷たい。実際、氷でできているような壁だった。完全な透明ではなく、白くにごっている。壁の向こう側は見えない。

 バートとサラはリーガル湖でボートに乗っていたはずだった。サラがボートを見つけて「乗りたい」と言ったのだ。バートは漕ぎ手としてリィルとキリアに無理やりボートに押し込まれた。しかしボートを楽しそうに漕いでいたのはほとんどサラのほうだった。サラはボートに乗りたかった、というよりはむしろ、乗って漕ぎたかった、らしい。

 ボートの乗り心地は悪くなかった。広々とした湖の景色も良い。一面にたたえられた水はきれいな青色。サラと二人、こうやって揺れるボートでぼんやりするのも悪くないなと思った。

 突然、ボートが大きく揺れた。波の力とは思えない何かにボートが持ち上げられ――次の瞬間、ボートは落ちる。声を上げる暇もなかった。バートとサラはボートごと何かに飲み込まれ――

 そして気がついたら、バートとサラはここに立っていた。見上げると両側の氷の壁と同じような天井が見えた。左右の壁に挟まれた通路の幅は、人三人が肩を並べて歩けるくらい。その通路は、バート達の前と後ろに、二人を誘うように進むべき道を延ばしていた。

「ボート、無くなっちゃったわね……」

 サラがのんびりとつぶやいた。

「問題はそこなのかよ!」

 バートは思わず叫ぶ。

「夢じゃないわよね? バート、さっきまであたしと一緒にボート乗ってたわよね?」

「ああ、確かに」バートはうなずいた。

「でも夢じゃないとしたら、一体何なんだよこの状況!」

「ちょっと寒いけど服は濡れていないわ」

 サラが自分の服に触れながら言った。

「湖に落っこちたってわけじゃないのね」

「どーなってんだ、本当に」

 バートも自分の服と、いつも腰に挿している剣を確認した。

「とりあえず行きましょうか、バート」

 サラは通路の前方の彼方を指さして言った。

「ここで止まっていたってわからないものはわからないわ」

「そうだな」

 バートも今の状況を考えることを吹っ切ってうなずいた。

 二人は並んで通路を歩いた。二人ともしばらく無言だった。バートもサラも言葉を探さない。どこまで歩いても光景は変わらない。永遠、という単語が頭をよぎる。

「バート、『風の扉』のこと覚えてる?」

 突然サラが口を開いた。二人とも歩みは止めない。

「ああ、もちろん」

 バートは得意げにうなずいた。

「こないだみんなで入ってったとこだろ? キリアのじーちゃんの塔の屋上にあった……」

「そうそう。あのときも、こんな感じだったわよね。現実世界とは違った空間内の通路を進んで行って」

「そんで奇妙な像が立ってて。大精霊”風雅フウガ”とかいう……まさか」

 そこまで言ってバートはサラが言おうとしていることに思い当たった。

「じゃあ、まさか、ここって……この通路進んでったら水の大精霊に会えたりするのか?」

「その可能性はあると思うわ」

 サラが瞳を輝かせた。

「でも、問題なのは、ここにはリィルちゃんもエニィルさんもいないってことなのよね。せっかく”流水ルスイ”に会えたって何したら良いかわかんないし……あ、でもちょっと待って。それ以前に『扉』はどうなるの?」

「へ? 扉?」

「だって、バートのときもキリアのときも、鍵があったから扉が開いたわけでしょ。あたしもバートも水の鍵なんて持っていないし、水属性でもない。ってことは……」

「ってことは?」

「ここって、一体、どこなのかしら……」

「……結局振り出しに戻ったな」

 バートはわざとらしくため息をついてみせた。


 *


 キリアは朝の街を走って昨夜泊まった宿屋に戻った。案の定エニィルはまだ戻ってきていなかった。それを知って、キリアは少しだけ迷った後、自分の素直な気持ちを優先させることにした。さっき駆けてきたばかりの道を引き返し、湖の桟橋に辿り着く。

 そしてボートで漕ぎ出していったはずのリィルの姿も、湖のどこにも見えないのを目の当たりにする。

「バカ……」

 キリアは呟いた。もしここにボートが一艘でも残っていたのならば、迷うことなくキリアもボートに乗り込んで湖に漕ぎ出していただろう。しかし、あいにくボートは二艘しかなかったのだ。そしてボートは二艘とも行方不明になってしまった。

 なんで自分は素直にリィルの言葉に従ってしまったのだろう、とキリアは思う。父を探しに行くのは本来ならばリィルの役目だったはずだ。先手、取られてしまった。これで自分に残された道はひとつ。湖で消えた三人のことをエニィルに知らせる。それしかない。

 あのときもそうだった、とキリアは思い出す。バートとリィルが二人きりでピアン首都、つまり敵の本拠地に乗り込んでいってしまったとき。また、置いていかれた。理由を聞いたら何と答えるかもあのときと同じだろうと想像できる。

(そんなのちっとも嬉しくないわよ……)

 むしろ、悔しい。今まであまり考えたことはなかったが、自分は彼らより二つも年上なのだ。もう少し頼ってくれたって良いのにと思う。

(でも、今はそんなことより)

 キリアは気持ちを切り替える。まずはエニィルを探さなくてはならない。彼の行方の心当たりについて、リィルは「キリアにないのなら俺にもない」と言った。それはつまり、エニィルを探すとしたら同じ手がかりしか持っていないということだ。それが、

(ジュリア=レティスバーグさん。研究者――)

 エニィルの知り合いだという女性。幸い名前は聞いていた。この町の人々に聞き回れば、そう苦労せずに見つけることはできるだろう。

(必ず追いかけるから……! だから、無事でいてよ、みんな……!)

 キリアは人影のない湖にそう誓うと、町のほうに向かって駆け出した。


(3)


 バートとサラはひたすら果てのない通路を歩いていた。話すための話題も尽きてしまい、ただ黙々と歩いた。床を踏みしめる度に床からの冷気が体中に染みこんでくるような感覚。どのくらいの時間こうして歩いているのだろう。だんだん頭が痛くなってきたのは寒さの所為だけではないだろう。

(何なんだよ、一体――)

 これは本当に現実なのだろうか。夢でも見ているのではないだろうか。

 バートは隣を歩くサラの様子をうかがった。疲れたり落ち込んだりしている様子は見えない。彼女はむしろこの状況を楽しんでいるように見えた。バートは盛大にため息をつきたくなった。

(なんでこの状況で楽しめるんだよ)

 これは本当に夢ではないのか。バートがそう確信しかけたとき。

「あ」

 サラが声を上げた。

「あっ」

 バートもほぼ同時に声を上げていた。サラが「見て」と前方をまっすぐに指さした。永遠に続くかと思われていた通路に初めての変化が見られた。遠くの前方に見える「それ」を確かめたくて、バートとサラは歩調を速めた。近付いてくるにつれ、それはだんだんはっきりと二人の行く手を阻むように立ちふさがった。

 それは、金属製の扉だった。――過去に二度、見たことのあるような。

「これが『扉』だったのね」

 と、サラが言う。

「ってことは、今まで歩いてきた通路は扉の中じゃなかったのね。まぎらわしい空間ね」

「開くかな?」

 バートは手を伸ばしてみた。

「これがあの『扉』ならあたし達じゃあ無理じゃないかしら」

 サラの言葉を聞き流しながらバートは扉を押してみた。いくら理屈うんぬんを言われたって、バートは現実で体感しなければ納得しない。何事もやってみなければ気がすまないのだ。バートは開くとも開かないとも思わなかったが、扉を押してみると扉は簡単に動いて開いた。

「あらあ」

 サラが驚いたような声を上げてバートを見た。バートは得意げに笑みを返した。

 扉の向こうから白く霞む冷気が流れ出てきた。中の様子は真っ白な霧のようなものに満たされていてよく見えない。

「扉だとしたらなんで開いたのか良くわからないけど……この中に”流水ルスイ”がいるのかしら」

「かもなー」

 とサラに答えながら、バートは何故か扉の中に入るのを躊躇していた。本能が「入るな」と警告してくる。命に関わるかもしれない、と。しかし――バートはサラを見た。行き止まりで、扉が開いて、隣にサラがいて。この状況で中に入らずに引き返すことなんてあり得るだろうか。

 バートは先に入ろうとしたサラを制して意を決して扉の中に足を踏み入れた。今まで以上に冷んやりとした感覚に全身が包まれる。真白の世界を一歩一歩進む。振り返るとサラがついてきている。距離はそんなに離れていないのに、白の霧が濃すぎて霞んで見える。

 バートは得体の知れない不安に襲われた。サラに向けて手を伸ばす。

「つかまれ」

「え」

「はぐれんなよ」

「……ありがと」

 バートはサラの手を握った。壊れそうなほど小さな手。細い指。あたたかい。この小さな手で彼女は戦ってきたのだ。

 バートは安心して前だけを見て進んでいける。

 ふいに、無音だった空間に声が響いた。良く知っている声。バートははっとして凍りついたように足を止めた。

『やはり、行ってしまうのだな』

『はい』

 真白の空間に響く、二人の男性の声。

『私としては、もうしばらくここに留まっていて欲しいところだが』

『それは、無理な話です』

 しばらくの沈黙。

『……仕方ない。約束、だったからな』

『そういうことです』

「お父さま……?」

 後ろのサラが小さく呟いた。握った手を通してサラの緊張が伝わってくる。

『私に君を止める権利はないな』

 ピアン王の声。

『はい』

『……君の奥さんは泣くだろうな』

 もう一人の男は答えなかった。

『君の息子さんは……怒るだろうな』

『それは、悲しいことです』

「……なんの冗談だよ、これ……」

 バートは低く呟いた。

 ピアン王はため息をついたようだった。

『……元気でな』

『王も、元気で』

 ここで、会話は終わった。そして白い霧が晴れていった。


 *


 リーガル湖畔に小さな木造の小屋が建っていた。扉には、『リーガル湖畔”迷宮”研究所』という札がかかっている。その木製の扉を叩くと、中から一人の女性が現れた。歳は二十五、六といったところ。長いストレートの黒髪に、丈の長いスカートのワンピースを着ていた。眼鏡をかけていて、控えめな印象の女性だった。

「ジュリア=レティスバーグさんですか?」

 キリアは尋ねた。女性は怪訝そうな顔をしながらもうなずいた。

 キリアは町の人にレティの居場所を聞き回り、ここに辿りついたのだった。キリアは時間を惜しんで早速本題を切り出した。

「人を探しているんです。エニィルという男性で……ご存知のはずですよね? 彼、こちらに来ていらっしゃいませんか?」

 エニィル、と聞いてレティは驚いたように目を見張った。

「貴女は、一体……」

「あ、申し遅れてすみません。私、キリアといいます。エニィルさんと一緒に旅をしている者です。彼、昨日の夜から行方がわからなくて……。そして大変なことが起きちゃったから探してるんです」

「大変なこと……?」

「湖で人が三人、忽然と消えちゃったんです。三人のうちの一人はエニィルさんの息子です。だから私、エニィルさんに知らせなくちゃって……。エニィルさん来てませんか?」

「いや、」

 レティは短く答えて、首を横に振った。

「そんな……」

 希望が断たれてキリアはしばし呆然としてしまった。

「あの……せめてどこにいるか、心当たりはありませんか?」

「彼なら昨夜遅くに、ここに訪ねて来たが」

「ええっ」

 キリアは驚いてレティを見た。レティは無表情で続けた。

「しばらく話し込んで、だいぶ遅くに『明日改めて来る』と言って帰っていった。そうか、それ以来行方がわからないのだな……」

「お話って、何の話をしてらしたんですか?」

 何かの手がかりになるかも、と思ってキリアは質問してみたのだが、レティはしばらく困ったように黙りこんだ後、

「……すまない。込み入った話だし、人に話すわけにはいかない内容なんだ」

「そうですか……」

 キリアはレティの様子から、何となくまずいことを聞いてしまったかな、と思った。

「とにかく、彼が行方不明で、君の友達の三人が湖で消えてしまった、というわけなのだな」

「はい。私、どうしたら良いか……」

 キリアはすがるようにレティを見る。

「湖で消えたという三人のことだが、」

 と、レティは言った。

「おそらく、『迷宮』に飲み込まれたのだろう」

「迷宮……。って、『あの』迷宮……?」

 キリアは小屋の扉にかかっていた『”迷宮”研究所』という札のことを思い出しながら尋ねた。

「過去に何件もの例がある。半数以上の者はちゃんと『迷宮』から帰還した」

「半数以上って……じゃあ帰ってこなかった人もいるってことじゃないですか!」

「そういうことになるな」

 レティは目を伏せてうなずく。

「私も『迷宮』に入ります」

 と、キリアは言った。

「レティさんは迷宮の研究をなさっているんですよね? その『迷宮』について、わかっていること全て教えて下さい」

「それは構わないが……。『迷宮』が何なのか、知っているのか?」

「噂は聞いたことがあります。キグリスにも何箇所かあるみたいです。この世界とは違う次元に存在する異次元空間……。それを『迷宮』っていうんですよね?」

 言いながらキリアは、そういえば『迷宮』って『扉』に似ているな、と思った。『扉』を開けるとその中が異次元空間になっていたなんて、つい最近知ったばかりのことなのだが。もしかしたら、三人が飲み込まれたという『迷宮』と『水の扉』、何か関係があるのかもしれない。

(でも『扉』は超古代の遺産で、『迷宮』が発見されたのは中世代以降なのよね……。うーん、まだ直接的な繋がりは見えてこないか……)

 キリアが扉と迷宮について考えを巡らせていると、「私も迷宮に入ろう」とレティが言ってきた。

「彼は『迷宮』のことを知っている。もしかしたら、彼もそこに入ったのかもしれないから……」


(4)


 バートとサラを包み込んでいた白い霧が薄らいでいった。まだ少し白く霞む空間には、二人の男性が立っていた。サラの父、ピアン王カシス。そして、

「父親……」

 バートの父、クラリス。

「お父さま……」

 二組の父子はお互い見つめ合ったまましばらく動かなかった。

「……おい、父親」

 沈黙を破ったのはバートだった。

「今の話、本当なのか?」

「…………」

 クラリスはバートを見つめたまま答えなかった。バートはサラの手を離すと腰の剣に手をかけた。

「約束って何だよ! ピアン王は知ってたっていうのかよ!」

「…………」

 クラリスは答えない。

「俺はまだてめーを許しちゃいねーんだぜ! この間は負けたけど今度は負けねー!」

 バートは叫んだ。

 ピアン王が一歩前に出た。腰の剣を抜き放つ。

「王……」

 ピアン王はわずかに笑みを浮かべた。

『できれば聞かれたくはなかったな……。バート君。サラ……』

 ピアン王は剣をバートに向けた。

「お父さま……」

 バートの後ろでサラが呟く。

 王に剣を突きつけられ、思わずバートも剣を抜いてしまった。相手は自分が属する国の王。サラの父親。彼に剣を向けることだけは絶対に許されないのに――

「聞かれたからには、仕方ない」

 王は素早く間合いを詰めて剣を繰り出してきた。ダメだ、とバートは思った。この人に剣を向けてはならない。そんな思いとは裏腹に、身体は反射的に動こうとしていた。――が、バートは体中が凍りついたように動くことができなかった。ここの空間は寒すぎて、いつもの調子が出ない……

 ピアン王の剣は、あっさりとバートの胸を貫いた。バートは声にならない声を上げて、右手に握った剣を取り落とした。

「バート!」

 サラが悲鳴を上げた。その声を遠くで聞きながら、バートの意識は白い闇に堕ちていった。


 *


 はっと気が付くと、キリアは一人で見知らぬ空間に立っていた。上下左右は氷のような天井と床と壁に囲まれていた。空気が冷たい。前方には果てしなく延びる通路。

「レティさん?!」

 キリアは叫んで周囲を見回した。返事は返ってこなかった。レティとはついさっきまで一緒にいたのに。同じボートに乗って、同じ渦に飲まれたのに。

「リーガル湖に時々出現する渦、それが迷宮への入口になっている」

 とレティは言った。キリアとレティは研究所から折りたたみ式ボートを桟橋まで運び、そこからリーガル湖に漕ぎ出した。

(そんな……)

 レティがこの場にいないことを知り、キリアは軽いパニックに陥りかけた。

(落ち着け。ここは『迷宮』なんだから)

 キリアは自分に言い聞かせ、迷宮に入る前に、レティが言っていた言葉を思い出した。

『迷宮の中では、現実と夢、真実と幻、事実と虚構が渾然一体となって存在している。大切なことは、何を見せられても、自分を見失わないこと――。迷路のつくり自体は単純だ。通路はやたら長いが……マッピングも特に必要ないくらいだ』

「どうしよう」

 キリアは声に出して言ってみた。声は氷のような空間に反響して自分の声ではないみたいに聞こえた。どうしよう、と言ってみたところで、選択肢としては留まるか進むかしかなく、この二択だったらどう考えても留まる、という選択はあり得なかった。

 キリアは通路を進むことにした。

 果ての見えない単調な通路を一人で延々と歩いた。気の遠くなるほどの長い時間が経過したように思えた。不安がなかったといえば嘘になるが、キリアはほとんど意地で歩みは止めなかった。疲れきって本当に一歩も動けなくなるまでは歩ききってやろうと背筋を伸ばして歩き続けた。

 キリアはバートとサラとリィルのことを思った。彼らも自分と同じように、こうして歩いているのだろうか。湖で同時に消えたバートとサラははぐれていないだろうか、自分とレティのように。

「バート! サラ! リィル!」

 永遠かと思われる沈黙に耐えられなくなってキリアは叫んだ。そして改めて目的を確認した。自分がこの迷宮に入ったのは、彼ら三人を見つけ、一緒に元の世界に帰るためなのだ。

「!」

 前方に何かが見えた。キリアは早足で近付く。通路が行き止まりになっていて、金属製の扉がはめ込まれていた。

(まさか、水の扉?)

 ふと風の扉のことが思い出された。あのときは自分が開けた。でも、これが水の扉だとしたらキリアには開けられない。ここで完全な行き止まりということになってしまう。

 キリアは諦め半分で扉を押してみた。しかし、扉はあっさりと開いた。白い冷気が流れ出てくる。

(開いた……ってことは、これは『扉』じゃない?)

 キリアは扉の中に足を踏み入れた。白い霧が濃くてほとんど何も見えない。でも、進むしかない。何となくさっきまで歩いていた通路よりは、何かに近付いたような気がする。

『キリアっ?!』

 ふいに自分を呼ぶ声が聞こえた。キリアははっとして動きを止めた。そう遠くないところから聞こえた。

「リィル?!」

 キリアは叫んだ。

「どこにいるの?! 見えない!」

 キリアは周囲を見回した。白い霧が濃くて視界が悪い。振り返ってみたが、さっきの金属製の扉もどこにも見えない。これってほとんど遭難ってやつでは、と思う。

『キリア、危ないっ!』

「え……?」

 突然、キリアは横から突き飛ばされた。思わず小さく声を上げた。右腕をついて床に倒れる。

「痛……」

 呟きながらも、それほどの怪我ではなく、キリアはすぐに身体を起こして顔を上げた。

 目の前には茶色の髪の少年の後姿があった。

「キリア、大丈夫?」

 キリアに背を向けたまま、振り返らずに尋ねてくる。

「全然大丈夫!」キリアはすぐに答えた。

「! こっち?!」

 右斜め前方からいくつもの氷の刃が飛んできた。キリアをかばうような位置に立つ茶色の髪の少年は右手をかざして水の精霊を召喚する。少年の「水」と氷の刃が空中でぶつかり合い、青い輝きを放った。相殺し切れなかった刃が少年の左腕を軽く切りつけた。

「リィル!」

 キリアは思わず声を上げた。リィルは振り返って少し笑ってみせた。

「この霧がやっかいだよなー。なんで向こうは正確にこっち狙えるんだろう。こっちからは何も見えないのに。これってすっごいハンデだよな」

「リィル、一体何がどうなってるの?」

 状況がいまいち呑み込めなくてキリアは尋ねた。

「見ての通りだよ」

 リィルは少し真剣な表情になって言った。

「俺、狙われてるんだ。キリアもえらいところに来ちゃって……」

「狙われてるって……大丈夫なの?」

「あんまし大丈夫じゃないかもしれない」

 答えるリィルは身体中にかすり傷を負っているようだった。

「だから悪いけど、キリア、ちょっと席外しててくれないかな?」

「え? どういうこと」

「逃げてってこと。俺、キリアをかばいながらあの人の攻撃を防ぎきる自信ない」

「……何それ」

 リィルの発言にキリアはかなりむっとした。リィルが怪我していなかったら一発くらい叩いてやってたかもしれない。

「あのねえリィル……」

 キリアは大きく息を吐き出した。

「そりゃないでしょ! 私はね、迷宮に飲みこまれたあんたらを探しに来たのよ。あんた置いて逃げられるわけないでしょ! それに誰がかばってなんて頼んだ? そんなことされて私が喜ぶとでも思ってるの? 自分の身くらい自分で守れるわよ、バカにしないで!」

 今までわだかまっていたものを吐き出すようにキリアは叫んだ。最後はかなりきつい口調になってしまった。リィルはキリアを見つめて驚いたような顔をして絶句している。

「そうか……そうだよな、ごめん……」

 リィルが小さくつぶやいた。言い過ぎた、と思ってキリアは何となく気まずくなってしまった。

「……ううん、こっちこそ」

 キリアは気を取り直して明るく言った。

「リィル、さっき『ハンデ』って言ってたでしょ。それ、無くしてあげましょうか?」

「え?」

「この霧がハンデなんでしょ。だから……!」

 キリアは腕輪をはめた右手を高く掲げ、風の精霊を召喚した。周囲に巻き起こった風が空気中に浮かぶ白い細かな粒子を吹き飛ばしていった。真っ白だった空間は、段々遠くまで見通せるようになり……

「?!」

 キリアは目を疑った。心臓がどくんと音を立てる。黒いスーツ姿の男性が立っていた。おそらく、彼が、リィルに向けて氷の刃を放った張本人。

「エニィルさん……?」

 エニィルは無表情でこちらを見据えている。


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