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名無しのエース  作者: 慎之介
一章
9/82

 省吾は軽い眠気を感じ、目を閉じて眉間を強めに指でつまんだ。教壇に立っている堀井も、省吾につられるように生徒達に背を向け、声を殺したあくびをする。


 セカンドクラスの化学を担当している教員が、急な体調不良で仕事を休んだ。その為、省吾達のクラスは化学の授業だった予定を変更して小テストを行っている。


 教室には、テスト用紙に答えを書く生徒達の筆記用具を走らせる音と、息遣いや咳払いしか聞こえない。静けさに包まれているといってもよい教室は、省吾と堀井に睡魔が襲いかかるには恰好の空間と化していた。


 テスト開始からある程度の時間が経過するとテストに関しての質問もなくなり、カンニングなどしない生徒達を椅子に座った堀井はぼんやりと眺めるしかない。


 その堀井は、自分の授業をする準備として、本や資料を読めるのだからまだましだといえる。十五分ほどで全ての回答欄を埋めた省吾は下手に動くことも出来ず、睡魔と戦っていた。


 前日、ローガンと夜遅くまで居酒屋で騒いだ二人は、深夜前に出現したファントムの対応に出撃していた。ファントムと戦う事に慣れている二人は、迅速に処理をしてローガンにも褒められた。


 だが、軍属である二人はファントムを倒して、終わりというわけにはいかない。現場での後処理や、被害者の確認から始まり、報告書を作り終えた頃には、時計の針が深夜二時をまわっていた。


 徹夜で働く事もある二人が、音をあげる事はない。しかし、予想外に発生した眠気を誘う時間には、人間である以上影響を受ける。うとうととしては左右に首を振る省吾を見て、堀井はあくびによる涙を指ですくい取りながら、苦笑いを浮かべていた。


 その教室に、もう一人睡魔に襲われている生徒がいた。リア・グリーンだ。彼女も前日眠る時間が遅くなり、省吾のようにテストが終わっている訳でもないのにシャープペンの先が止まっていた。


 リアが頬を自分で叩く音に気が付いた堀井は、目を細めた。少し前から、授業中にもいらいらしているように見えたリアの事が、堀井も気にはなっていた。そして、省吾からの話を聞いて、それは確信に変わったのだが、リアのいらいらした雰囲気が消えているように見えるからだ。


 眠気と戦うリアが、金銭的な事を含めた問題で追い詰められているように、堀井からは見えない。そんな、リアを見つめていた堀井の耳に、かつんと少し高い音が届いた。


 音のする方向を堀井が見ると、省吾が持っていたシャープペンに頭突きをしてしまったらしく、額を押さえて涙ぐんでいた。


……ぬがああぁぁ!


 ローガンからの拳で、たんこぶが出来ていた場所だと知っている堀井は、笑いをこらえて顔を真っ赤にする。そして、軍務中ではあり得ない、額を押さえた省吾の狼狽ぶりに、癒される様な感覚を覚えたらしい。


 騒ぐわけにはいかない省吾と堀井は、痛みと笑いのせいで睡魔にうち勝つことが出来た。だが、勝った喜びよりも、疲労感が大きいようだ。


「はい。では、終了です。後ろから集めてください」


 堀井は腕時計を見て、苦痛を伴ったテスト時間の終了を確認し、テスト用紙を回収した。その回収が終了してすぐに、授業が終わる合図であるチャイムがスピーカーから流れる。


「グリーンさん? 少しいいですか?」


 堀井達同様に睡魔との戦いに疲れ果てていたリアに、堀井が声を掛ける。そして、昼休みに職員室の自分を訪ねるようにと、指示をした。


「はい。分かりました」


 笑顔で返事をしたリアに、堀井だけでなく省吾も眉をひそめた。事情を知らない周りから見れば、特に変わった光景ではない。だが、二人からすると本当に笑っているようにしか見えないリアに、違和感を覚えたようだ。


 教室を出て、生徒の視線がない事を確認した堀井は、トイレに向かう省吾に声を掛ける。


「おでこ。大丈夫ですか?」


「ええ、まぁ。少し腫れましたが、すぐにおさまると思います」


 少し気まずそうに目を逸らした省吾に、堀井は本題を切り出す。


「グリーンさん。少し、思っていた反応では無かったですね」


「本当に偶然なら、それに越した事はない。しかし、職員達による情報収集は、念の為続けるべきだな」


 廊下を並走していただけにしか見えないようにする為、トイレへ辿りついた省吾は堀井に声もかけずに中へと入っていく。それが当たり前の堀井も、気にせず職員室へと向かう歩行速度を緩めなかった。


……先生の意図が分かった気がする。


 手を洗い終えた省吾は、眠気覚ましにトイレの洗面台で顔も洗っていた。冬の冷たい水道水が、顔の毛穴を収縮させる。


……生徒の異常を逸早く察知するには、生徒側にも協力者が必要だな。


 学園の職員達が国連関係者だと、生徒達も分かっている。国連が情報を求めた場合、それに応じない生徒はいない。だが、建前等のフィルターなしに生徒達の情報を知るには、国連と内通している事を知られていない、スパイともいえる生徒が必要ではないかと、省吾は感じていた。


 生徒の鮮度がある正しい情報を、収集できる者は能力面を含めて少ないだろう。そして、協力させる者の本質を見誤れば、逆に軍の情報漏えいにもつながる。


……俺が生徒である理由は、これで説明がつく。やはり、友達を作るべきか? どうやって?


「はぁぁ」


 省吾が推測したフランソアの意図は、間違いではない。ただ、学生としての生活を省吾が楽しんだ上で、情報収集もしてくれればとしか思っていない事には考えが及ばない。


……日本語には自信がついてきたし、喋りかけるか? 今更? 誰に? 怪しまれるのがおちだな。


 フランソアが求めていた事に応えられていないと感じた省吾は、ハンカチで顔と手を拭いて難しい顔をしたままトイレから出る。


「井上君」


 トイレから出た省吾に、リアが話しかけていた。昨日の事をこりていないのだろうかと、省吾は考える。


「昨日、変な事言ってごめんね。忘れて。本当にごめん」


 リアは、まるで昨日とは別人であるかのように、周りも気にせず省吾に喋りかけた。そして、一方的に謝り、女性用トイレの中へ入った。その行動を、省吾が怪しむのは当然だろう。


「ひっ!」


 女性用トイレを見ていただけで女生徒に悲鳴を上げられた省吾は、その場を立ち去る。その出来事は悪い方向の尾ひれがついて、生徒達に囁かれる事になった。


 席に戻った省吾は、昼までの授業中を、友人作りの方法模索にあてた。誤解である変態が強調された悪い噂により、省吾の考えたそれがより困難になっていると気が付いていない。


「わざわざ、すみませんね」


「いえ、構いません」


 昼休みに職員室を訪れたリアを、堀井は誰もいない生徒指導室へ連れて行った。そして、寮費の事を切り出す。


「気を悪くしないでください。寮費の滞納についてですが……。もし、何か困っている事があれば、相談に乗れればと思いまして」


 少しだけ顔を赤くしたパイプ椅子に座るリアは、ポケットから封筒を取り出して目の前の折り畳み式机に置いた。リアは顔を赤面させてはいるが、笑っている。


「本当に、すみません。実は欲しい服があって……後、仕送りが届くのが少し遅れたんです。すみませんでした」


 理由を説明しながら、何度も頭を下げるリアの前で、堀井は封筒の中に入ったお金を確認した。その封筒の中には、寮費を賄うには十分な金額が入っていた。


「あの……今日の放課後に、振り込むはずだったんです。すみません」


「そうでしたか。これは、余計なお世話もいい所でしたね。こちらこそ、すみません」


 申し訳なさそうな顔をした堀井は、頭を掻きながらリアに頭を下げた。


「いえ、私が、無計画だったんです。本当にすみません。仕送りが遅れるのを、親が教えてくれるのも遅れて……その。次から気を付けます」


「いえいえ、では寮費は私が受け取るわけにいきませんので、振り込みをお願いします」


 封筒を返した堀井は、何度も頭を下げるリアを帰らせて、生徒指導室の鍵を閉める。リアのいなくなった堀井の顔に、部屋の中にいた時の笑顔はなかった。戦闘時のようなきつい目付きに変わっている。


 堀井は、リアが嘘をついているのではないかと考えていた。何度も謝って下手に出るのは、相手が本当に謝りたい場合もあるが、後ろめたさを隠している可能性がある。


 また、聞いてもいない理由の詳細まで喋るのも、相手が真面目な性格である場合と、嘘を完璧にしたい場合の二つが考えられた。更に、リアが逸らした目線を天井付近に送っていた事も堀井は見逃しておらず、疑っている要因になっていた。


 リアが学園に秘密でバイトを始めた可能性もあり、黒だとは断定していない。だが、調査を継続するべきだと考えている。その報告を聞いた省吾も、同じ結論で職員達に指示を出した。


 国連から監視された状態で、リアは変化を起こした。悪い方向ではなく、かなりいい方向に変化したのだ。


「おい。あいつ、最近、何か変わったか?」


 食堂で彰と昼食をとっていたケビンは、取り巻きの女生徒と会話を楽しんでいるリアを見つめる。


「ああ。お前も気が付いた? 最近、何か可愛くなったよな」


 絶世の美女達に囲まれているはずの二人にも、リアの変化が目に留まった。その二人だけでなくギャップ等の変化に、魅力を感じる者は少なくないだろう。


 常に八十点以上を維持している綾香達より、五十点が日を追うごとに加算され、七十点にまで浮上したリアが彰達にも気になり始めたのだ。外観がいい綾香達に目を向ければいいだけの彰達も、人間の持つ不合理さに抗えていない。


「リア先輩。なんだか、どんどん綺麗になってません? 化粧品でも変えたんですか?」


「えへへぇ。秘密」


 取り巻きである女生徒からの質問に対して、嬉しそうに笑うリアは明確な返事をしない。彼女が綺麗になった理由は、恋をしたからだ。


 迷信だとも思える恋をすれば人は美しくなるという言葉も、生物的な意味を含めて全てを否定出来る訳ではない。恋をすれば、男女や個人の差はあるが、変化する人間は多いようだ。目に見えて分かりやすい部分でいえば、恋をした人間は好きな相手の気を引く為に服や化粧、髪型といった外見にいつも以上に気を付ける。


 それ以外にも、精神面での高揚は、体内のホルモンバランスを変化させ、免疫能力が高まる者までいるようだ。自然界の一生物でしかない人間が、その変化した相手を魅力的に感じても、不思議な事ではないだろう。


 食堂でリアに気付かれないようにちらちらと視線を送る職員達は、監視を開始した当初よりも気を抜いていた。その職員達は、学園内にる間のリアを完璧に近いほど監視する事が出来る。堀井がクラス担任で、省吾がクラスメイトなのだから、その点に問題はない。


 だが、学園から出たリアを監視するのには、限界がある。尾行をするにもそれなりの技術が必要であり、人員が余るどころか不足している国連軍では、二十四時間彼女を監視する余力が無いのだ。その上、リアが国連に不利益な事をしているかどうかも、分かっていない以上、省吾にも無理な指示を出す事は出来ない。


 結果、後輩達に食事をおごるなどして、仕送りの収入よりも、支出が多いのではないかという事までしか、調査が進まなかった。


 寮のグレードも、広すぎると取り巻きの女生徒に言い訳をしていたが、リアは自分で下げた。更に、派手なだけで愚かに見えた無茶な遊びをする回数も減っている。既に国連職員達からは、監視を止めてもいいのではとの意見も出始めていた。


 省吾と堀井は、安心が確定する材料を探していた。リアが黙ってバイトをしていてくれれば、余計な監視の労力から解放されるとまで考えている。


 だが、大事なセカンドの一人を、証拠がそろっていない状態で放置する事に、二人は納得が出来なかった。判断が難しくなっている状態で、省吾は現状維持を選択し、リアの監視を続けさせているのだ。その状態で、職員達の気が抜けても仕方ない事なのかもしれない。


「次は選択授業の時間ですが、少し予定が変更になりました」


 教室で特務部隊員の配置について悩んでいた省吾は、予定にない堀井の発表に首を傾げた。本来、堀井の上官である省吾へは、先に連絡が来るはずだからだ。


「軍隊式の体術訓練を指導する為に、特別講師が来てくれています。護身術程度の簡単な物ですが、軍への入隊希望者以外にも役に立つはずです」


 学園の超能力者達は、進路の希望により一部の授業内容がそれぞれで違う。特務部隊員を希望している者には、兵士に育つような知識と技術を授業中に与える。軍属のファントム対策員を希望している者には、それよりも自分の身を守る部分に特出した授業を受けさせる。そして、戦う能力が無い者や戦いたくない者には、超能力向上の時間として時間が振り当てられていた。


 だが、その日は全員が同じ授業を受けることになったのだ。


「全員、体操服に着替えて、室内訓練場へ移動して下さい」


 青い上下で揃えられたジャージを着た生徒達は、講師を見て緊張する。そして、自分に連絡が来なかった理由が推測できた省吾だけが、講師を見て苦笑いをする。その特別講師はローガンだ。


 省吾が笑ったのはローガンを馬鹿にしたわけではなく、悪戯好きな恩師の考えそうな事だと思ったからだ。


「ええっと。この方が現在日本特区の特別顧問をされている、特別講師のローガンさんです」


 堀井に紹介されたローガンは、見た目の威喝感とは裏腹に優しく笑って挨拶をする。


「元々、私は特務部隊員を指導していた。だが、怖がらないでほしい。今日は、あくまで護身術がメインだ。怪我をするような訓練はしない」


 幼稚園などへ交通指導に来た、警察官を思わせるほど無理に優しさを出す恩師を見て、堀井と省吾は何も言わない。軍へ正式に入隊した者達に、鬼と恐れられる教官の姿はないが、仕事だと二人も分かっているからだ。


「では、見本を見せよう」


 自分の前に座る十人ほどの生徒を、ローガンはわざとらしく見回す。


「ああ、っと、そこの君。前へ。これで、襲うふりを頼む」


「はい」


 ローガンに前へ出るように指示された省吾はそれを予想していたらしく、顔色を変えずに歩み出た。そして、ローガンから渡された、実際の訓練でも使用されるゴム製のナイフを握り、出来るだけ不自然に恩師を襲う。


 ローガンは省吾の手首をひねり、ナイフを落とさせると、腕の関節をきめて、その場に倒した。生徒達から見て、早すぎて何をしているのか分からないその動きでも、省吾達にとっては緩やかに感じる動きらしい。


「少し話がある」


「なんでしょうか?」


 二人はお互いの顔を近づけて、周りに気付かれないように小声で会話をする。


「次に、敵がナイフを振るうのではなく、突き刺そうとした時は、こう対処する」


 省吾がゆっくりと突き出した訓練用ナイフを持った手は、ローガンに掴まれた。そして、掴まれた腕を引っ張りながら体勢を崩されたふりをした省吾は、うつ伏せに倒されて腕をきめられる。


「学校が終わってからでかまわない。入区管理局へ来てくれ。相談したい事がある」


「分かりました」


 力の強いローガンが、誤って生徒に怪我をさせない為に、省吾を選んだと堀井も十分理解している。そして、何か会話をしているのも、分かっているようだ。


「次は、上手く投げられてくれよ」


「はい。分かってます」


 立ち上がった省吾に、ローガンは背を向けた。


「次は、背後から襲われた場合だ。これは、少し難しいぞ」


 ローガンの背後からナイフを振り下ろすふりをした省吾は、背負い投げをされてマットに叩きつけられた。その叩きつけられた音は大きいが、受け身を取っている省吾にダメージはない。


「今のは酷いです! 井上君は、一般の生徒ですよ!」


 叩きつけられた省吾を見て、正義感の強い綾香が立ち上がって抗議をした。その言葉で、ローガンも相手が省吾だという事で、手加減を忘れていたと気が付いたらしい。


「そうです。それに、その速度では、よく分かりません」


 綾香に続いて、彰も立ち上がった。ただ、痛めつけられたように見えた省吾を薄く笑いながら見ていたはずの彰は、綾香とは違う理由で立ち上がっていた。好きな相手に、いい所を見せようとしているのだ。


 彰も軍隊の経験があり、ローガンが見せた技自体は習得済みだ。だが、知らないふりをすれば、上達するのが早いと思われると考えたらしい。そして、綾香を擁護する事で好感度を稼ごうともしている。


「ああ、失礼。音は派手だが、マットの上でダメージはないはずだ。すまないな。大丈夫か?」


 しまったという顔をした堀井を見て、省吾は仕方ないといわんばかりに鼻から息を吐いた。


「はい。全く、痛みはありません」


 平然と立ち上がった省吾を見て、綾香は無言で座る。その綾香を気にしながら、彰も座った。その彰は、綾香にとって今の抗議は当然であり、同じ事をしても好感度を上昇させる切っ掛けにはならないと気が付いていない。


「では、次はゆっくりいくぞ。よく見て、分からなければ言いなさい」


 省吾は茶番でしかない訓練に、文句を言わずに取り組んだ。若干、目に生気が感じられないのは、仕方の無い事だろう。


 他人に良く思われようとして行った事でも、場合によっては人から嫌われる事がある。自分がされて気持ちいい事でも、他人がどう感じるかは人それぞれであり、仕方のない事だといえる。それを回避するには、相手の感情を読み取る感性と、経験が必要になるのだろう。


「あ、そうだ。一昨日オープンした、駅前のカフェって行った? 俺、昨日行ったんだけど、クラブハウスサンドが美味くてさぁ。今日の放課後に、食いに行かない?」


 省吾を心配した綾香が話し掛けようとしたのを見て、彰が先に綾香へ話し掛けた。そして、女性が喜びそうなカフェの話題をふり、食事に誘う。


「ああ、いえ、ちょっと、用事がありまして」


 イザベラからの視線にも気が付いている綾香は、顔をしかめて彰から距離を置く。


「私、暇だよ? 食べに行く?」


「え? あ、ちょっ」


 彰に対して恋愛感情の無い綾香は、イザベラとデートをしたと聞いても気にはしない。


 だが、省吾に話し掛けようとしたのを、あからさまに邪魔されたのは気分が良くないらしい。さっさと更衣室へ向かった省吾を見て、綾香は仕方なく女性用更衣室へと向かった。それを、彰は悔しそうに眺めた。


「ねえ? 連れてってくれる?」


「あ、ああ。じゃあ、放課後」


 イザベラと約束をした彰は、とぼとぼと更衣室へ向かう。更衣室で省吾を睨む彰の性格は、どちらかといえば悪い方ではない。彰は小学生の頃から運動が得意で、外見も良い為にもてており、ひがみや嫉みで性格が歪むような事はなかった。


 家族を傷つけた事件のせいで、元気をなくした彰を励ました綾香を好きになるのも、変わった事ではないだろう。そして、その純粋な恋心が、省吾への怒りに変換されているのは、人を好きになった者ならばある程度理解できるかもしれない。


 ただし、もてる自分への自信により生じた独占欲の強さや傲慢さは、人によって不快に思えるかもしれない。そして、自分から告白する必要もなく女性と付き合えた彰の、経験不足による綾香へのアプローチが下手な点もあまり褒められないだろう。


 それでも、直接省吾に手を出さないのだから、彰に悪気はないのだろう。勿論、綾香にも悪気はない。省吾に至っては、ほぼ関係ない。


「あっ……」


 終業のチャイムが鳴ると同時に、綾香は勇気を出して省吾に話し掛けようとした。だが、バッグを肩にかけた省吾は、綾香が話しかける前に教室を出て行く。入区管理局は特区の端にあり、移動時間がかかるので省吾は急いでいたのだ。


「あっ……」


 自分の頑張り次第で、ゲームの出来る時間が変わってくる省吾は、鍛え上げた脚力をいかんなく発揮して寮に戻っていく。玄関で偶然会ったジェーンが話し掛けようとした事にも、省吾は気が付いていない。


……教官がわざわざ来るって事は、何か重要な事だろうな。急ぐか。


 自室で私服に着替えた省吾は、寮から少し離れた場所に止めてある車に乗って移動を始めた。その月極め駐車場に止めてあった車も、カバーをかけて置いてあるバイクも省吾個人の物だ。


 国籍の無かった省吾だが、技術的な事を国連に保証してもらい、日本では使えないが特区内では使用できる免許証を持っていた。目立たないように運転する機会は減ったが、緊急時には使っている。


……まあ、これで誰も気づかないだろう。


 大きめのサングラスをかけた省吾は、目立たない銀色の小型セダン車を、入区管理局へ向けて走らせる。


「お前……そのサングラス、似合ってないぞ」


 入区管理局を訪れた省吾を、ローガンは挨拶代わりの皮肉で迎えた。省吾は顔を隠す為に、わざと自分には不釣り合いなほど大きいものを購入しており、皮肉には反応しない。


「わざわざ、すまないな」


「いえ。で、要件はなんでしょうか?」


 管理局内にあるローガンの部屋で、ソファーに座るように指示された省吾は、すぐに要件を聞いた。秘書官が持ってきたコーヒーを一口飲んだローガンは、煙草に火をつけて話す内容を少し整理する。


「あの、あれだ。私は、超能力には詳しくないんだがな。サイコガード? を、軍に導入させたのはお前らしいな」


 省吾は、ローガンへ迷うことなく補足を加えながら返事をした。


「はい。それ以前から、記憶を読む能力者への対応は、検討されていましたが、導入されていませんでしたので」


「その件で、気になる事があってな。もう少し詳細を聞きたいんだ」


 理由を問いたい省吾だったが、その前に上官であるローガンからの質問に答えを返す。


「敵にセカンドではないかと思うのですが、催眠もしくは暗示らしいものを使う能力者がいたので、サイコガード導入を進言しました」


 ローガンは、煙草をふかしながら省吾へさらに質問をした。


「そいつは、相手の記憶全てを改ざんできたりしたのか?」


「いえ。一時的な錯覚を起こさせる程度でした。私を含めて同じ部隊の人間は、一時的に敵と味方の判別が困難になりましたね」


 煙草を灰皿でもみ消したローガンは、省吾から思っていた答えが返ってこなかったようで、何かを考え込んでいる。


「どうされたのでしょうか?」


「超能力者ってのは、個別の能力だと聞いている。間違いないか?」


「同じような能力を持った者は大勢いますが、個別能力といえる力を持った者も、セカンドレベルなら」


「これは、推測だが、聞いてくれるか?」


「はい」


 特別顧問として着任したローガンは、経費や労力を増やさず、経験によるアイディアで警備を強化していた。それにより、既に許可証を誤魔化して入ろうとした敵武装勢力構成員を、幾人も捕まえるという功績を既に残している。


 だが、ある何の問題もないはずの入区ゲートに、ローガンは違和感を覚えたのだ。その違和感とは、痕跡が無さすぎる点だった。見張りの兵士が少ないある入区ゲートを見回ったローガンは、足跡が消えている事に疑問を感じた。


 山を利用したゲートで、人や自転車しか通れないそのゲートへ続く道は、舗装されていない。道をふさげばいいのだろうが、山の道を潰すよりも、見張りの兵士を配備したほうが安く済む為に、残っている道だ。


 人が通る事は少ないが、通った事が無いわけではなく、赤土の道には雨の日に出来たらしい幾つかの足跡が残っていた。だが、ローガンが見回りをした時に、それが消えていたのだ。


 監視カメラに不審な人物も映っていないし、見張りをした兵士達は誰も何も見ていないと証言している。だが、痕跡が無さすぎる事で、逆にローガンはプロの仕業ではないかと感じ取ったのだ。


「監視カメラの映像を誤魔化すのは、俺でも出来る。だが、兵士を殺す事もなく、誤魔化すには難しいゲートでな。何か、超能力で説明できないか?」


 ローガンの差し出した資料には、ゲートの詳細な情報が記載されていた。自然の地形を利用したゲートで、簡単には切断できない金網や、分厚い壁で守られており、兵士は常に二人配備している。


 他のゲートより、人数的に手薄ではあるが、侵入は超能力者でも見つからずに抜けるのは容易ではないと省吾には判断出来た。そして、資料を読み終えた省吾は、自分なりの考えをローガンに話す。


「痕跡を消したなら、敵は徒歩でしょうから、相手の意識をとばす……いえ、相手から自分を見えなくする、暗示的な能力者の可能性が高いのではないかと」


「そうか……」


 あまり知識の無いローガンは、それからも省吾に超能力の事を聞いた。念のため、テレポートの事を含め、映画などで得た空想の知識を使って、思いつく事を質問する。思い込みが良くない事だと分かっている省吾は、ローガンを馬鹿にする事なく自分の知識で全てに返答した。


「そうか、記憶操作も難しいか」


「はい。その手の能力の基本はテレパシーです。テレパシーとは、他人へ強制的に言葉等を入力する事なのですが、セカンドでは多少視覚を誤魔化す入力をするのが、限度だと思えます。敵にそれ以上の能力者がいるかもしれませんが、そうだとしてもテレポートと同じで、難しい事に変わりはありません」


 省吾から催眠の能力者に関して説明を受けたローガンは、ある事に気が付いた。


「サイコガードってのは、出力の制限に思えるが、入力である暗示や催眠に、効果はあるのか?」


「はい。サイコガードを展開している間は、出力にも入力にもセンサーを設置したようなものなので、出力を止めるだけでなく、強制的な入力情報に多少ですが抵抗できます」


「その言い方だと、完璧ではないんだな?」


 補足をする前に気が付いたローガンに、真剣な目をした省吾はうなずく。


「入出力共に、相手の力が上回っていれば、完全には防げません」


 三本目の煙草を吸い終わったローガンは、考え過ぎて熱を持った頭を掌で撫でる。そして、大きく息を吐いた。


「そういえば、配置転換の許可が下りたのは、いってなかったな」


 ローガンは超能力者の話がお腹いっぱいになったらしく、話を切り替えた。それは、敵武装集団が日本に集中している為、特務隊員の比率を増やす話だった。


「各特区の防衛力を下げてはいけないのでな。特区以外からも、呼び寄せる予定だ」


 ローガンがいった意味を理解した省吾が、少しだけ明るい顔になる。特区以外にいる特務隊員の中に、省吾の知り合いが含まれているだろう事はすぐに分かったからだ。


「かなり無茶な申請で、指名はできなかったが、ヨーロッパからも手練れが来るはずだ」


「楽しみです」


 それからもしばらく超能力者について議論した二人の意見は、謎の超能力者について一度研究所に相談するという事で一時保留となった。そして、疲労を感じたローガンは内線を使い、秘書官に新しいコーヒーを注文する。


「あ、お気遣い、ありがとございます」


 気を利かせたローガンは、省吾用のコーヒーをアイスにするよう指示していた。


「さっきのコーヒーに、あれだけ手を付けなければ、嫌でも思い出す」


 愛想笑いをしていた省吾は昼間の事を思い出して、ローガンに尋ねる。


「今日は、教官自ら突然来られたので、少し驚きました。どうしたんですか? 呼び出しなら、電話でも自分は駆けつけますが?」


「元々学園の視察予定はあったが、遅れていただけだ。講義と呼び出しは、そのついでだな」


 仕事モードを解除した省吾は少し視線の強さが柔らかくなり、部屋の壁に掛けられた時計に目を向ける。そして、ゲームが二時間は出来るだろうと考えていた。


「そうだ。ヨーロッパ部隊から来る奴なんだがな……」


「あ、そういえば。誰が来るんですか?」


 ローガンは机の引き出しから、FAX用紙らしき何枚かの紙を取り出す。


「仮の予定だが、これがリストだ。飯くらいは連れて行ってやれよ」


「それは、もちろんです。大事な戦友達ですから」


 三十分ほど雑談を楽しんだ省吾は、車を寮に向かって走らせた。


……あれは、リア・グリーン? 隣は、女性? いや、男性か。


 信号で止まった省吾の乗る車の前を、リアとニット帽をかぶった白人らしき男性が通り過ぎた。横断歩道を渡る間も、腕を組んで歩く二人は親しげに笑いながら会話を続けている。


 その場で停車を続けるわけにはいかない省吾は、仕方なく信号が青に変わると同時に車を走らせた。そして、近くのコインパーキングに車を止め、千里眼を発動する。


……くそっ。無理か。


 三キロ近くまで遠視が出来る省吾だが、敵意や殺気が無ければ個人を特定して見る事は難しい。また、透視の力はなく、建物内に入られれば見ることが出来ない。


 しばらくリアを探した省吾だったが、それは実らず、諦めて寮へと帰宅した。帰宅した省吾は、ゲームの電源を入れなかった。勘でしかないが、リアと一緒にいた男性が超能力者ではないかと感じていたのだ。


……あんな目立つ奴は、学園にいれば覚えているはずだ。なら、敵勢力の可能性が高い。


 省吾はその日、寝るまでの時間をゲームではなく、リア監視体制の人員配置について考える事に割くと決めたようだ。省吾が職員リストを再チェックし終えた頃、リアは男性と不法侵入した建設中のビル内で、シートの上に座り夜空を眺めていた。


 そのビルは、日本企業が資金を出して建設中だったが、国連に提出した書類に不備があり、工事が中断されて半月ほど放置されている。


 手入れをする者もいないそのビルからは、全体にかけられていた青いシートが剥がれ、フロア内もコンクリートがむき出しで、ガラスはまだはめ込まれていない。その為、寒さは防げないが、ビルのフロア内から夜空が見えるのだ。


「少し冷えてきたね」


 リアの隣に座っていた男性は、着ていた黒いダウンジャケットから片腕だけを引き抜いた。そして、リアを自分に引き寄せて、ジャケットで包む。


「あったかい」


 顔を赤くしたリアは、嫌がるどころか笑顔で男性に上半身の体重を預ける。そのルークと名乗る男性に、リアは本気で惚れていた。


 困り果てて泣いていたリアに優しい笑顔で、ルークは手を差し伸べ、仕事の給料が余っているとお金を差し出した。それどころか、リアがいくら断っても、会うたびにお小遣いだといってルークはお金をリアに渡した。


 ただ、リアが惚れたのは、金銭面に余裕がある部分だけではない。ルークはリアに会うたび、優しい言葉をかけ、冗談で笑わせ、綺麗だと褒めていた。見た目がかなり女性よりである為、好き嫌いはあるだろうが、リアには魅力的に見えたのも惚れた理由だろう。


 何をとってもリアからすれば、完璧であるルークは、理想の男性だと思えたらしい。困っていたリアにルークが声を掛けたのも、運命だと考えているようだ。


 ルークが秘密の隠れ家だといった工事中のビルに、リアは無防備にもそのまま付いて行った。そして、屋上ではなく、その一つ下のフロアから星を見つめる。


 実は、仲間から超能力を使える狙撃手がいると、ルークは聞いており、屋上に出なかっただけなのだが、リアはそれに気が付いていない。窓から少しだけ見える空の方が、ロマンチックだとさえ考えている。恋は人を盲目にさせる。ルークに会えば会うだけ好きになっていくリアは、思考能力が著しく低下している事に、全く気が付いていない。


「えっ? どうして?」


 お互いの顔が近づき、キスを期待したリアは、急に顔をそむけたルークに懇願するような視線と言葉を向けた。


「リア。僕も、君が好きだ。本気で好きに、なりそうなんだ」


 あまりいい話をしようとしていないルークに、リアは抱き着いて顔を近づける。


「私は、貴方が大好き」


「駄目なんだ」


 悲しそうに顔を歪めたルークを見て、リアの目に涙が滲み始めた。


「どうして? 私は、ずっと貴方と居たい」


「昔、一度だけ女性を本気で好きになった事があった。でも、彼女は僕を裏切った。それ以来、僕は女性を信じられないんだ」


 自分を信じて欲しいリアは、どうしていいかもわからず、抱き着いていた腕に力をこめた。何をいえばいいかも、思いつかないらしい。


「でも、これ以上、君と会えば、本当に好きになってしまう。これっきりにしよう。もう、僕は傷つきたくない」


「いやっ! そんなの絶対に嫌よ! もう、離れたくない!」


 泣き出しそうなふりだけのルークと違い、リアは本当に涙を流し始めた。そして、大好きなルークを失うことを恐れて、震え始めている。


「私は裏切らない。絶対に、裏切らない! どうすれば、信じてくれる? 私なんでもする。お金なら、働いてでも返すし、なんでもするからっ!」


 その言葉を聞いて、ルークはリアの頭を胸に抱いた。そして、悲しげだった顔を歪んだ笑顔に変える。そのルークの表情に、頭を抱きかかえられたリアは気が付けない。


「ごめんよ。僕にトラウマがあるせいで」


 ルークは笑いながらも、器用に悲しそうな声を出す。


「いいの。私は、貴方の全てを受け入れる覚悟がある」


 顔を埋めているせいでくぐもっているが、リアの声には強い意志が感じられた。


「じゃあ、僕のいった事を、実行してくれるかい? 危険かも知れないよ?」


 この時点まで来ても、ルークの声には怪しさが漂わない。それは、ルークが男性にしては少し高い声質によるクリーンなイメージをうまく利用し、人を騙すことに慣れているせいだろう。


「私は、なんでもする。裏切りもしない。嘘じゃない」


 笑っていると勘付かれない様にリアを抱いたまま、ルークは自分の望む事を教える。その行為に意味はなく、リアの気持ちを行動で示してほしいだけだとルークはいった。ルークからの依頼を、普通の女性ならば実行しない。最低でも、疑問を持つ。


 だが、恋もろくにしていない、世間知らずなリアは、あっさりと信じ込む。運命の恋を信じるリアは、騙されているとも知らずに、そのまま走り出してしまった。その先に何があるかも考えずに。


 人間は嫌だと感じた事でも、繰り返す事でその嫌だと思える部分を克服できる場合がある。苦痛に満ちた人生を乗り切る為に、人間には慣れが必要不可欠な物なのかもしれない。


 深夜といえる時間帯に、リアが寮に帰り着いた頃、綾香はもやもやした気持ちを抱えて寝付けずにいた。既に、ベッドに入ってから、二時間が経過しようとしていた。寝付けない不快感のせいで、何度も眠る体勢を変える綾香が考えるのは、省吾の事だ。


 綾香は物事を見極める時に、焦るようなことはしない。だが、はっきりと答えが出るまで記憶力に優れた綾香の脳は、その物事を忘れてくれないらしい。


 何度も綾香の記憶の中で蘇ってきた、ロボットを見て薄笑いを浮かべた省吾の顔は、見慣れてしまい、気持ち悪さをほとんど感じなくなっていた。そのせいもあり、綾香から省吾に話し掛けようとはしている。


 だが、超感覚が鋭すぎる綾香は、他の者よりも省吾が無意識に放つ圧力で、気圧されて喋ることが出来ていない。


 恋や愛とは程遠い感覚だが、綾香が省吾の事を考える時間は、減るどころか増える一方だった。スーパーでファントムが消滅した出来事だけでなく、学園内を飛び交う省吾の悪い噂に何故言い訳や弁解をしないかすら、省吾自身に綾香は確かめたいと考え始めていた。


 数え切れないほど寝返りをうった綾香が、微睡の世界へ落ちていくと、夢の中に考え続けていた省吾が登場した。その省吾は銃を持ち、もやがかかってよく見えない敵らしき影を、弾丸で撃ち抜いていく。


 超能力者である綾香が見たその夢は、過去視や予知夢なのか、ただの脳が作り出した幻想なのか、本人すら分からない。そして、目が覚める頃には綾香の記憶から消えてしまうほど、儚いものだった。


 それでも、翌日目が覚めた綾香の胸を、締め付ける力はあったようだ。寮の中で誰よりも早く目が覚めた綾香は、布団の暖かさに後ろ髪をひかれながらも、寒い室内に暖房を入れる為に起き上がる。その綾香は、胸を締め付ける暖かい何かの原因を、覚えてはいない。


 昼休みになり、省吾に話し掛けようと考えた綾香だったが、予想外の事がおこり、自分の席へ戻った。授業が終わると同時に、省吾が教室を出て行ってしまったのだ。自分なりの勇気を出して話し掛けようとしていた綾香は、肩透かしをくった気分でイザベラを食事に誘おうかと考えていた。


「あのカフェ思ってたよりも、よかったわ。ピザも好みだったし」


「だろ? パスタとかに大盛りがあるのも、ポイント高いんだよなぁ」


 綾香が目線を向けたイザベラは、彰との会話を楽しんでおり、昼食に誘えないと思えた。その為、綾香は中等部時代ファーストクラスで仲の良かった友達にメールを送りながら、食堂へと向かう。


「今日も、連れて行ってよ。あの店のグラタンも、食べてみたいの」


「お? ああ、そうだなぁ。うん? ケビンも行きたいのか? 一緒に行くか?」


 昼休みの合図を聞いて教室を早々に出た省吾は、軍用の別室で堀井と仕事を始めていた。後ろで画面を睨むように見ている省吾だけでなく、コンピューターに向かっている堀井も軍用の携帯食を食べながら真剣な顔をしている。


「この割振りなら、監視時間を今までの倍近くにすることが出来ますね」


 省吾が堀井を頼ったのは、それだけ堀井が優れているからだ。コンピューターの表計算ソフトを使い、五分ほどで堀井は省吾の考えた人員配置計画を改善して見せた。


「なるほど。すぐに、軍本部へ申請を出そう」


 堀井を信頼している省吾は、簡単な確認だけで決断する。


「しかし、セカンドの生徒を狙い撃つとは、情報が漏れているのでしょうか?」


 コンピューターに印刷の指示を出し、プリンタの電源を入れた堀井は、情報漏えいの可能性を考える。


「何ともいえないな。特区の職員は、かなり厳正な審査をして選ばれている。だが、ここまで的確に狙われると、内通者の事も考えておくべきだろうが……」


「確かに、疑いすぎて疑心暗鬼に陥り、身内の信頼を損なうのはいただけませんね」


 省吾は、印刷した書類にサインをして、軍専用回線につながったFAXで申請書を送付した。


「でも、いいんですか? 中尉?」


 腕を組んで考え事をしながら椅子に座った省吾を見て、堀井が薄く笑っている。その堀井に、省吾は無言で意味が分からないといった表情を返した。


「中尉のプライベートな時間を割いてまで、監視にあててしまわれて。他の隊員にはありがたい話ですが、ゲームの時間が減りますよ?」


「あれはあくまで趣味だ。仕事に差し支えるなら、止め……は、しないが、我慢はする」


 止めるといい切らなかった省吾を、堀井は目線を逸らしてから笑う。頼れる上司であるはずの省吾に対して堀井は年齢的なものもあり、弟の様な親近感を覚え始めている。


「中尉?」


「なんだ?」


 許可が下りる前に、自分自身で尾行をするべきかを考えていた省吾は、堀井に兵士モードの強い目線で答える。


「担任として、ですが。髪はそろそろ切った方がいいですよ。後ろ髪が襟にかかってるじゃ、ないですか」


 省吾が髪を伸ばしたいわけでは無い事を知っている堀井は、後頭部を見つめて注意した。


「はい。すみません。今週中に切ってきます」


 生徒に戻った省吾は、それにすぐ返事をして自分の髪の長さを確かめるように、襟足に手を伸ばす。歪ではあるが、二人の関係はかなり良好のようだ。


 全ての授業を終えた省吾は、別室にあるロッカーに入れてあった、私服に着替えていた。昼間に省吾が提出した申請書を見た日本特区司令官から、許可が最短で出せるように動くと、内定を受けていた。その為、堀井を含めた学園内にいる特務部隊員と、事前打ち合わせを行う予定なのだ。


 省吾しかいないそのロッカールームに、暖房は入れられておらず、吐く息が白くなる。身を切るような寒さの中でも、省吾は顔色を変えずに下着だけの姿になり、服を着替える。だが、ロッカー内に置いてあった服自体も冷たい事には、いい気がしないようだ。


 身に着けた服の冷たさで、省吾は頬にまで鳥肌が立っていた。着替えを済ませてロッカールームから出た省吾は、気温の低下を感じて雪が降るかも知れないと思い、既に日が沈んだ空を窓から眺めた。


……日が沈むのが、早くなったな。うん? あれは。


 日頃生徒が近づかない別室の前に、人影を見た省吾は千里眼で姿を確認する。そこにいたのは、きょろきょろと付近を警戒している挙動不審なリアだった。


 別室は専用のキーが無いと入れない為、格子状の金属で出来た門の前で運よく開いていないかをリアは確認していた。そして、門が開かないと分かると、その場から立ち去っていく。


……なんだ? この感覚は?


 嫌な予感がした省吾は、反射的に走り出していた。考えが纏まった訳ではないが、リアをそのまま行かせてはいけないと、直感が省吾に語りかけていたからだ。


 急いでロッカールームへと戻った省吾は、先程とは違うロッカーを開いた。そして、トレーナーだけを脱ぎ、インナーシャツの上に防弾チョッキを着こむ。そして、トレーナーをもう一度着た上から、脇腹部分に拳銃を固定できるホルスターをつけた。


 カードキーで、鍵のかかっていた別のロッカーも開いた省吾は、拳銃を取り出す。そして、慣れた手つきで、弾丸がフル装填されているマガジンを、手に持った拳銃に差し込んだ。


 拳銃をスライドさせて、安全装置を作動させてからホルスターにしまった省吾は、最後に黒っぽい色のコートを羽織ると、別室から飛び出す。千里眼で、学園を出たリアの位置を、省吾は把握し続けている。


 省吾は携帯電話で堀井達に、リアの行動がおかしく、尾行を始めると伝えた。そして、人ごみにまぎれてリアを追いかける。


 前日と同じ建設中のビルで、ルークはリアを待っていた。照明器具のついていない薄暗いビル内を、携帯電話の画面から漏れる光で何とか昇ったリアは、昨日と同じフロアにいたルークを見て、満面の笑みを浮かべる。


「遅くなって、ごめんね」


「いや。僕も今来た所だよ」


 既に物語の中にしかいないヒロインになりきっているリアは、ルークの顔を見て感極まったのか、瞳を潤ませながら抱き着いた。


「どうしたの? 怖かったかい?」


「違うの。もう、会ってくれなかったらと思って、怖かったの」


 ルークは、リアの頭を優しく撫でる。その二人のやり取りを、省吾は目を閉じて耳に全神経を集中させて、音だけで感じ取る。二人がいるフロアは、扉も取り付けられておらず、音は筒抜けだった。


 ローガンから相手を野生動物だと思えと、気配を隠すすべを叩き込まれた省吾は、風向きさえ計算して息をひそめる。フロアには入らず、出入り口の隣にある壁に背を付けた省吾は、既に拳銃を手に握っていた。


 だが、千里眼は発動していない。相手が超能力者である可能性が否定できない為、察知される事を考えて発動していないのだ。リア達のやり取りは、全て音だけで推測している。


「で? どうだった?」


 ルークに催促されたリアは相手から体を離し、カバンからノートを取り出した。そのノートのページを開いて渡されたルークは、月明かりで書かれた内容を確認する。


「まず、ここが学園の一般生徒用の棟で……」


 ノートに書かれていたのは、学園の見取り図と、リアが知っている全ての情報だった。セカンドであるリアは、学園内で入れる場所が一般生徒よりも多く、研究所内や軍施設の位置まで書かれていた。


「ここは、鍵がかかってるわ。で、ここから先もカードキーが無いと入れないの」


 細かく書き込まれた見取り図を指さしながら、リアは学園の事をルークに教えていく。学園を知りたいわけではなく、軍に逆らえるほどルークを想う気持ちがあるかを示してほしいと、騙されているリアは疑う事もなく熱心に情報を伝える。


 笑顔のルークと違って、省吾はリアの行っている事の重大さを知り、顔を歪ませていた。リアが行っているのは、入学時の契約違反にもなるが、立派な反逆罪だ。それは、場合によっては極刑もあり得る重罪だ。


 最悪の場合、握っている銃でクラスメイトを処分しなければいけない省吾の、緊張感が高まっていく。そして、それを避ける為のぎりぎりまで待つために、全神経を集中させる。


「ここにも鍵がかかって、入れないだけど、兵士さんが入っていくのを見た事があるから、国連軍が使ってる施設だと思うの」


「この場所や、研究所の中は分かるかい?」


 説明を中断したリアは、悔しそうに唇をかんだ。


「ごめんなさい。書いてない部分は、生徒では入れないし、教えてもくれない場所なの」


 ルークへの想いからリアが一日で仕上げたそのノートは、生徒でしかないリアの立場を考えれば十分すぎるほどよく出来たものだった。そして、学園の情報はそれ以上生徒からは手に入らないと、ルークに教えてしまう。


「どう? 分かってくれた?」


 期待に満ちた目でルークを見るリアは、相手の冷たい目線に気が付いていない。それはルークが月を背にして立っている為、顔が影に隠れているのだから、恋の盲目だけが原因ではないだろう。


「私はこれで、入学時の契約を破った事になるの……。もう、学園にはいられなくなるかもしれない……」


……馬鹿が。反逆罪もだ。


 リアはルークがダウンジャケットの中に着ていたシャツを、縋り付く様に掴んで言葉を続ける。


「私には、貴方が全てなの。私は貴方を裏切らない。家族や、生活の全ても貴方の為なら、捨てられる。お願い信じて」


 リアの利用価値が、これ以上あるかを考えているルークの顔は、驚くほど冷たいものだった。不倫や駆け落ちを連想させるほど、熱いヒロイン気分に浸っているリアの前にいると、余計にその冷たさが際立つ。


「お願い。私を、遠くへ連れて逃げて。二人の幸せが、そこにきっとあるわ。貴方となら、私は幸せになれる」


 冷たく無表情だったルークは、リアの最後の言葉で、片方の眉をぴくりと反応させた。そして、内面から滲みだした怪しい笑顔を、月明かりが照らす。


 ノートをその場に落としたルークが、リアに両手を伸ばす。抱きしめてもらえると思ったリアの考えは、最悪の形で裏切られた。


「えっ? あっ! がっ! ルー……ク……」


 ルークの両手で首を絞められているリアは、自分が何をされているのかも分かっていないようだ。首を絞める腕を振りほどこうともせず、苦しさからルークに向かって、何かを求める様に両手を伸ばす。


「この世にはなぁ。知らなかった、良かれと思ってで、済まされない事もあるんだよぉ。お前等が幸せだぁ? 笑わせんな!」


「……あっがっ……かひゅっ……」


 ルークが叫ぶと同時に、口から泡を吹き始めたリアは、白目をむき、失禁してしまう。そして、伸ばした手がだらりと力を失って、重力に負けた。リアの体が床へ完全に倒れ込む前に、三発の銃声がフロアに響いた。


 省吾は、千里眼を使っていなかったせいで、ルークが叫ぶまで何がおこっているかが分からず、飛び出すのは遅れた。だが、リアの命が尽きる前にルークへ自分の姿を見せる事で怯ませ、銃弾で引きはがす事には成功した。


……そんな、馬鹿な!


 顔には出さないが、省吾は目の前にある、信じられない光景に我が目を疑った。


「躊躇なしに三発か……。気配も分からなかったし、お兄さん、プロってやつだね?」


 自分に向かって両手を広げているルークを見て、省吾は引き金を引くのを躊躇した。自分が放った三発の弾丸が、空中で静止しているのだ。


 ルークの顔に向かっていたはずの弾丸は、進む力を完全に失い、寒々しいコンクリートむき出しのフロアに、床との接触音を響かせた。


 ファントムの出現に呼応するかのように現れた超能力者達は、十年以上の歳月でセカンドと呼ばれる存在を生み出すまでに、進化していた。だが、災害前の人間が小説や映画で思い描いた超能力の効果は、実現が難しい。


 テレポートだけでなく、ポルターガイストのようにベッドや家具を、自在に宙を漂わせる事が出来る者もいない。ましてや、不死身になる事など、不可能だと研究結果が述べている。その研究結果の中で、弾丸を止める実験も行われていた。そのような能力者が現れれば、武器側を再開発する必要があるからだ。


 超高速で飛んでくる弾丸を識別出来るのは、超感覚が特出している者達であり、サイコキネシス側が弱い。サイコキネシスが強い者に、弾丸を放つタイミングを教えながらの実験も行われたが、弾丸の圧力に負けて逸らすのが限界だった。


 結論として研究者達は、今確認されている最大のサイコキネシスよりも三倍以上の力が必要であり、今後現れないとは限らないが、現段階で銃弾を完全に防げる者はいないだろうと答えを出した。だが、省吾の目の前にいるルークは、それをやってのけたのだ。省吾に躊躇が生まれても、仕方の無い事だろう。


「あれ? 思ったより動揺してないね」


 銃を構えてルークを見据える省吾は、超能力者である前に兵士であり、動揺を顔に出さない訓練は積んでいる。心音が早まり、背筋に冷たいものが伝っているとは、相手に感じさせない。


 笑いで口元を歪ませているルークは、ジャケットの内側から一本のナイフを取り出した。そして、グリップについていたスイッチらしきものを押す。すると、そのナイフは低いうなり声を上げ始めた。


「これは、プロでも見た事ないでしょ? 振動ナイフ。岩でも切れちゃう優れもの」


 芝居を止めたルークは、先程までと違い、喋り方が子供っぽく変わっていた。だが、省吾はその事よりも、聞いた事もない新兵器を敵武装集団が開発していたのかと考えていた。


……これは、洒落にならない。どうなってるんだ?


 自分達が持つ超能力や兵器を、相手が上回ったのだとすれば、国連が窮地に追い込まれるのは火を見るよりも明らかだ。


「これでも、驚かないか。じゃあ……」


 既に驚愕している省吾に、ルークはさらに信じられない力を見せつける。


「これで、死ねよ」


 目の前にいたはずのルークが視界から消えると同時に、省吾の足元から声が聞こえた。その声は間違いなく、ルークのものだ。


……くそぉぉ!


 いつの間にか、銃を構えて省吾の伸ばしていた両腕の死角にしゃがみ込んでいたルーク。省吾の鍛え上げた体と直感が、それにぎりぎりで反応した。心臓に向かって振り上げられるルークのナイフを、省吾は膝の力を抜く事で、上半身だけを後ろに倒して回避した。


「ぐっ!」


 倒れ込む様に上半身をのけ反らせた省吾は、後頭部を壁に軽く打ち付ける。だが、そのおかげでナイフによる致命傷は、避けることが出来た。


「うわっ! これを避けるんだぁ」


 倒れ込まない様に頭だけでなく背中も壁をつけ、銃を向けた省吾に、ルークはわざとらしく驚きの顔を見せる。そして、軽業師のように床を飛び跳ねて、省吾との距離を取った。省吾が放った四発の弾丸は、ルークに掠りもせず、全てコンクリートの床にめり込んだ。


「はぁ! はぁ!」


 肩で息をする省吾は、金属板の入った防弾チョッキすら切り裂いて、自分の薄皮を傷つけたナイフが自分の知らない新兵器だと改めて感じさせられている。そして、ルークのナイフを避けそこなえば、それが命に届くと容易に推測がついた。


……なんだ? 今のは? 奴の能力?


「勘がいいのかな? それとも、運?」


 呼吸を整えながら、省吾はローガンの教えである冷静な判断をする為に、混乱しそうな思考を立て直す。


……加速? 時間に関係する力か? それともただの、催眠能力か?


 相手の能力を考えながらも、省吾は先に別の判断を下す。どの能力にしろ、省吾は敵に先手を取られれば、勝ち目が薄くなる。ルークに向けて構えていた銃口を、少しだけずらした。


「えっ? それじゃ、当たらないよ?」


……当たれぇぇ!


 僅かな輝きを放つ三発の弾丸は、省吾から向かってルークの左二メートルほどにある、柱に向けて発射された。首を傾げようとしたルークの顔が、すぐに驚きで歪む。そして、ルークは焦りながら、急いで両手を自分の前へと突き出した。


「ふっざけんなっ!」


 九十度方向転換した弾丸達は、ルークを右側面から襲う。急に方向を変えた超高速の物体に、本来人間が反応できるはずがない。だが、ルークは弾丸が曲がってから動き出したにも関わらず、防御を間に合わせた。


……化け物め!


 サイコキネシスの力に包まれ発光する弾丸は、ルークが伸ばした手の先で、急激に失速した。それを見た省吾は、追撃の弾丸を二発放った。


 省吾から向かって右方向に放たれた弾丸は、先程と同じように進む方向を変え、ルークの背後から迫る。だが、徐々に進む速度が消されていた三発の弾丸を処理し終えたルークは、しゃがむことで二発の追撃を回避した。


「このぉ! くそがぁ!」


 追撃の弾丸に、少しずつ別の角度をつけていた事が功を奏し、ルークにダメージを与えた。ただ、手の甲を掠めただけで、致命傷には程遠い。


「いって、くそ。なるほどね。弾丸の軌道をサイコキネシスで曲げるって、能力者はあんたか。セカンドレベルの兵士ってところ?」


……どうすればいい? こいつの能力はなんだ? 次はどう出る?


 兵士として長い年月を過ごしてきた省吾は、焦りによるパニックからは回避できていた。だが、その分冷静な思考が、自分の窮地を的確に知らせてくる。


「銃使いか。さぞ、優秀な兵士なんだろうなぁ。僕とは、気が合いそうにもないけどぉ」


 省吾が握っている拳銃には、後五発しか弾が残っていない。急いではいたが、予備のマガジンはポケットに入っている。だが、ルークに交換の隙を見せる事がどれほど危ないかを、省吾は分かっていた。


「銃って、簡単に人が殺せるでしょ? だから、殺したって罪の重みなんかから、逃げる為の弱虫が使う武器だと思うんだよ」


 喋りながらも省吾から目を離さず隙をうかがうルークを、省吾はプロではないが実戦慣れしていると感じていた。下手な隙を見せれば、省吾の死が確定する。


「命の尊さも理解してないあんたら兵士は、無慈悲に銃で人を殺しまくったんだろ? 僕は違う。ナイフと素手だけで、命を大事にしながら奪うんだ」


……隙を見せなければ、多分能力で来る。それに賭けるしかない。集中しろ。


 省吾はルークの力に、見当をつけた。時間を操作するか、加速する能力ならば、省吾が避けられない速度や時間で切ればいいだけだが、それをしてこない為、違う。暗示や催眠の類であれば、サイコガードが微弱でも反応する為、それも違う。


「お兄さん、自分の力に自信があるでしょ? セカンドだし」


 敵の能力が、あり得ないと研究結果が出ているはずの、テレポートなのだと省吾は考えている。思い込みで、死ぬわけにはいかない省吾は、その思い込みを捨てる事を決断したようだ。


 ルークの力がテレポートと確定したわけではないが、見当をつけなければ動けない所まで、省吾は追い詰められているのだ。自分の判断に命を掛けた省吾は、フロアの中だけに限定して発動した千里眼の力に全神経を集中する。そして、逆転への兆しを探す。


「だけど、たかだかセカンドのお前が、フォースの僕に勝てるはずがないんだよぉぉ!」


 ルークの発したフォースという存在しないはずのレベルを、省吾は聞き逃してはいない。だが、超感覚へ集中していたおかげで、動揺を誘おうとしていたその言葉に怯まずに済んだ。


……今だっ! 撃ち抜けぇぇ!


 冬だからといって、昆虫がこの世からいなくなる訳ではない。自分の左側に飛んでいたはずの小さな羽虫が消えた事を、省吾の千里眼は見落とさなかった。


 いきなり物質を移動させることが、理論上不可能であるならば、空間と空間を交換するのではないかと考えた省吾の推論は、的中していた。それが、超能力者の勘なのかは分からない。


 先程ルークがテレポートした際、一秒未満ではあるがタイムラグが発生した事に、省吾は気が付いていた。今回も発生したその隙に、省吾はサイコキネシスの力を可能な限り付加した、ありったけの弾丸を発射する。


 銃口を向ける時間すら惜しんだ省吾は、前を向いたまま一秒に満たない最後のチャンスで、全てをこめて引き金を引いた。


 省吾が持つ拳銃から放たれた弾丸は、銃口を出ると同時に、左へと進路を急変更させる。そして、どのような出現をするかが分からない為、一発一発に別の角度が付けられていた。


「はぁ? はぁぁぁ?」


 正面にいたはずのルークは、省吾が感知した通り左側面に移動していた。そして、移動してすぐのルークは、無防備なまま銃弾の洗礼を浴びる。


 ルークに、五発放った弾丸のうち三発がダメージを与えた。腕と脇腹に、太ももだ。省吾の命を賭けた弾丸は、致命傷どころか、掠めただけでルークの動きを止める事すら出来なかった。


 心臓の位置を通過するはずだった弾丸は運悪く早く放ちすぎており、ルークの体に当たる事なく床へと直撃した。


「はぁぁ? なんだ、これ? ふざけんなよ!」


 あり得ないといいたげに叫ぶルークは、再び床を蹴り、省吾との距離を置いた。そのルークは、もう笑っていない。省吾の拳銃には弾がなくなっており、ルークが圧倒的有利になったにもかかわらず、気持ちの悪かった歪んだ笑顔が消えている。


 自分に銃口を向けたままの省吾を見て、ルークは脂汗を流していた。それは、ひりひりと痛む傷口のせいだけではない。ルークは、既に省吾が手詰まりだとは、思っていないのだ。銃の事に詳しくないルークは、十七発も撃てば、拳銃は弾が空になると知らないらしい。


 テレポートした自分を捉え、確実に銃弾を命に近付けてくる省吾を、ルークは脅威だと感じている。そして、無策のまま戦えば、殺される可能性があると考えているようだ。


「せいぜい、夜道には気を付ける事だね。くそったれ野郎」


 顔を怒りで歪め、捨て台詞らしきものを吐いたルークは、テレポートしてその場から消えた。それを見た省吾の全身から冷たい汗が噴き出す。


「はぁはぁはぁはぁ……」


……助かったのか?


 その場に両膝をついた省吾の体は、微かに震えていた。そして、そのまま放心状態になり、しばらく活動を再開することが出来なかった。


 省吾にとって格上のルークは化け物であり、畏怖の対象になりえるのだ。森の中で、突然熊や虎といった猛獣に襲われたも等しい省吾が、生き残れたのは偶然でしかない。


 冷たい汗で体温が低下している省吾を、吹き込んできた冬の風がさらに冷やす。その風は、熱を持っている頭にはいいだろうが、体には毒だ。


「ふぅぅぅ……」


 何とか自分を落ち着けた省吾は、大きく息を吐いてリアの無事を確認する。


……よし、呼吸はしている。頸椎にも異常はないな。


 リアは気を失っているだけだった。


 助けを呼んだ省吾の胸には、大きな不安が残る。そして、戦場特有のきな臭さを、平和であるはずの日本特区に感じていた。

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