拾壱
光と闇が二分した、人が生身ではたどり着く事の出来ない不思議な場所が、存在していた。その世界では、魂だけの人間が想像さえすれば、テーブルや家どころか、山や川まで出現してしまう。
明るい世界と暗い世界を繋いでいる四角い窓は、空中に浮いており、立方体でもないのにどの方向から見ても、同じ形をしている。どちら側からでも、その窓で容易にもう一つの世界を覗き込むことが出来る為、同じ空間にあると錯覚してしまいそうになるが、そうではない。確かに隣り合ってはいるのだが、全く混ざろうとしない光と闇は、それぞれが次元の違う別の世界だ。
人が魂だけになって初めてたどり着けるその場所を先人達は、黄泉への入り口と呼び、光の先を天国。闇の先を地獄などと名付けている。
死ななければ行きつけないはずの場所を、人間達が何故知っているかといえば、ごく簡単で臨死体験をした多くの者達が、情報を持ち帰ったからだ。生前の行いだけでなく、訪れた者の想像力によって変わるその世界の情報はかなり誤差があるのだが、二つに分かれていたという類似した情報だけは多い。
静かだったその場所には今、多くの叫びともとれる声と、少し前までとは違う大量の涙が落ちていた。
……皆? ああ、そうか。終わったのか。終わったんだ。
(エース! 行く! いやぁ! いやぁ! いやあああぁぁぁ!)
運命の歯車として、本当に最後まで勇敢に戦い続けた青年が、光ではなく闇の世界へとゆっくり落ちていく。闇の深淵へと背中から落ちていく青年は、自分へと伸ばされた手を掴もうともせず、ただ光の世界をぼんやりと見つめていた。
……そうか。そうなんだな。世界を守ったのは俺じゃない。死んでさえ諦めなかった、皆が世界を救ったんだ。そう、俺じゃない。
人の身で歯車達の中心となり、粉々に砕け散るまでまわり続けた青年は、人生最後の奇跡を自分なりに理解したらしい。自らの命そのものを賭した青年は、自分がどれほど不遇なのかを考えもせず、生き残った人々の平和だけを祈る。
もう、後は暗闇の底へ落ちるしかない青年には、戦うことが出来ない為、祈る事以外出来ないようだ。
人の歴史が始まって以降、英雄や救世主と呼ばれた者は大勢いたが、その青年と肩を並べられる者はそうはいないだろう。
(サラ! いっしょおおおおぉぉ! エース! と! いっしょおおおおぉぉ! 手えええええええええぇぇぇ!)
純真な心を持った、黒髪の女性は気でも狂ったかのように泣き叫んでいる。彼女は現世へ誰よりも早く飛び出し、誰よりも先に闇の世界へ続く窓に手を差し込むほど、ある男性を想っていたからだ。
(いぃぃぃやあああああぁぁぁ! エース! いやあああぁぁ!)
闇の世界へ腕だけしか侵入させられないその女性は、言葉を上手く操ることが出来ないが、必死に青年の死を否定し続けていた。
……大丈夫。大丈夫だ。サラ。俺は、大丈夫だから。頼むよ。泣かないでくれ。お前の笑顔を、もう一度俺に見せてくれよ。
無垢な心を持つ女性の伸ばされた腕を、掴もうともしない青年は、悲しく優しい視線だけを返している。
(手えええぇぇ! こっちぃぃぃぃ! エース! こっちぃぃ! 来るのおおおおぉぉぉぉぉ! いっしょにいるのおおおぉぉぉ!)
……分かってくれよ。俺はそっちに行けないんだ。俺が落ちるのは地獄。お前達とは違うんだ。なあ、お願いだ。泣き止んでくれよ。
ひどくゆっくり闇の中を落ちていく、うすぼんやりと輝いている青年は、自分の事など考えていない。それでも悲しそうに顔を歪めたのは、愛する者達の涙を自分が止められない事が、悔しいからだろう。
(何やってるんだ! 馬鹿野郎! お前が来るのはこっちだ! どうしてもってんなら、俺が代わってやる! だから……手を伸ばせ! 馬鹿息子!)
闇の世界へ手を伸ばしているのは、黒髪の女性だけではなく、枠いっぱいに老若男女問わず、大勢だ。
(早く! 早くせんかああああぁぁぁ! あれを、拾い上げろ! あいつは! あいつは……報われねばいかんのだ!)
光の世界にある窓には、大きさに限界があり、腕を差し込めない者の方が多く、誰もが自分達の英雄への想いを叫んでいた。
(あんたは、そっちに行っちゃいけないお人だ! 帰ってこいよ! 頼むから! ちくしょう! なんで、そんな目をするんだよおおおぉぉぉ!)
(いけません! いけませんぞっ! 貴方様は、もう十分に苦しんだ! もう十分に戦った! もう、自分を許していいではないですか! 手を伸ばしてください!)
命が損なわれてはしまったが、青年によって魂が救済されている者達は、火傷しそうなほど熱い想いのこもった涙を流し続ける。
……俺は、最後まで情けないな。最後まで、弱いままだった。大事な人の、涙さえ止められない。
最後まで戦い抜いた事で、並ぶ者のいなかったほど強い意志が青年から消えており、魂だけになった体を動かせないようだ。
(こっちに来てくれよ! あんたは……あんたは、俺達の英雄なんだよ! 憧れなんだよっ! 最後まで、諦めんなよおおおおぉぉぉ!)
……俺は、後悔なんかしていない。俺は、本当に情けないほど弱かったけど。皆のおかげで、最後まで戦えた。俺にはこれで、十分だ。
それ以上、人々の涙を見ていたくなかったらしい青年は、そっと瞼を閉じ緩やかな落下に身を委ねた。
……皆。ありがとう。本当に、ありがとう。
人々の幸せと引き換えに、自分は何一つ掴まなかった英雄と呼ばれる青年は、感謝の言葉だけを残す。
……うん? なんだ? 何が?
自分の落下が停止した事を感じた省吾は、眉をひそめて両瞼を開き、何が起こったかを確認する。
いつのまにか、闇の中で直立した体勢へと変わっていた省吾に、運命の字名を持つものが絶望はまだ潰えていないと語りかけた。
……なっ! そんな! あの都市が、あれの本体じゃないのか?
省吾の質問に、運命は違うと返事をし、敵の本体は逃げ出したと答える。絶望は、運命と別ものではあるのだが、かなり近しい存在であり、色々な事が認識できるらしい。
……そんな。それじゃあ。世界は。世界はどうなるんだ!
省吾以外にも、絶望に抵抗する者は出てくるだろうが、誰も狡猾な絶望を止める事は出来ないだろうと、運命は語る。
……なんて! なんて事だ! くそっ! 皆が、危ない! 危ないのに、俺にはもう。くそっ!
悔しそうに歯を噛みしめた省吾に向かって、運命は無表情なまま、取引をしたいと持ちかけた。
……取引だと? この俺と?
驚いた表情に変わった省吾に、自分の依頼をこなせば、自分の叶えられるレベルの望みを一つ叶えようと、運命は取引の内容を説明する。省吾は驚きで見開いていた目を、殺気さえ放つ鋭いものへと変えると、運命へと迷わずに返事をした。
……その依頼。引き受けた! 俺は、お前を信じよう!
魂の存在を知った省吾は、直感だけでなく運命が今まで行った動きから、信じられる存在だと考えたようだ。現世の世界へと続く扉を開き、見えない壁で絶望から大事な者達を守っていたのは、運命だと省吾は分かっているらしい。
運命が壁を作ったのは、魂の力が有限である為、最後の瞬間まで無駄に使わせたくなかったという理由もある。しかし、省吾が絶望の字名を持つものに目をつけられた事で、助けとなる者達に直接危害を及ぼされる可能性があり、守ろうとしたのが一番の理由だ。何よりも、省吾を救う為に自ら闇の世界へと飛び込んだ者達が、光の世界へと戻れたのも、運命のおかげなのだ。
……どうした? 何か不服でもあるのか?
無表情だった運命が驚きに顔を歪めた為、省吾は問いかけるが相手は質問を質問で返す。自分からの依頼を受けてしまえば、今まで以上の地獄を味わう可能性もあるが、怖くはないのかと運命は問いかける。
……そんな感情。俺に必要ない! 皆に変わって、真っ先に地獄で死ぬ事こそが、俺の仕事だ!
このまま闇に落ちれば苦しむ事なく消えられるが、現世に戻れば信じられないほどの苦痛を味わい、後悔するかも知れないと運命は省吾に教えた。
……それで、人が一人でも救えるなら、いくらでも受けてやる! 俺が苦しむ事など、些細な問題だ! 後悔などするはずがない!
それまで見せなかった優しく暖かい感情を、瞳に表した運命は、呆れたように息を吐いて口角を上げる。そして、省吾の強い視線受け止めながら、何故人間でしかない貴方はそれほど強いのかと問いかけた。
……勘違いだ。俺は弱い。お前のいう通り、ただの人間だ。だが! それでも、戦い続ける事だけは出来る! 俺の全てが、消えて無くなるまで!
未来の世界や、異世界の都市で戦い続けた省吾を見ていた運命は、その言葉に一欠けらも嘘がない事を知っている。その為、前渡しだと省吾に告げ、限りなく不老不死に近い体や、フィフスを超える力も与えられると教えた上で、何を望むのかと問いかけた。
(ばっ……ばっか野郎! 何を考えてるんだ! 願いは一つなんだぞ!)
運命と対話する省吾を、息を飲んで見つめていた大勢の人々が、答えを聞いて一斉に大声を出す。
(あたし達の事なんて、いいから! あんたの、望みをいいなさいよ! バカじゃないの?)
振り向きもせずに、自分達のいる方向を指さす省吾に、その女性だけでなく他の者も少し汚い言葉を投げている。
(駄目だよ! 兄ちゃん! そんなの……駄目……だよ……)
平和だけを願う省吾が、力や長寿など望むはずがない。ましてや権力や富など、欲しいとも考えないのだろう。
もう一度溜息をついて肩をすくめた運命が、二度と会えなくなるかもしれないが本当にそれでいいのかと、省吾に問いかけた。
……ああ! 俺が、望むのはこれしかない! 今まで、俺を支えてくれたあの人達に、安らぎと幸せを!
省吾の強い意志が戻り、真っ直ぐで揺らぎの無い瞳を見た運命は、笑いながら両目を閉じて了解した事を伝える。そして、省吾が全てを成し遂げるか死ぬまでという期間で、運命と呼ばれている自分を殺せと依頼した。
……了解した!
(もう、十分じゃないかよ! なんだよ! それ! もう、俺達は、あんたに救ってもらってるんだ! もう、十分なんだよ!)
ゆっくりと虚像であったかのように消えていく運命へ、力強く返事をした省吾に、光の世界にいる人々はまだ声を掛け続けている。
(いっしょっ! いっしょおおおぉぉ! エースずっと! いっしょおおぉぉ! サラ! いっしょおおおおぉぉ!)
依頼主が消えると、省吾の体は光を強めるのと比例して、ゆっくりと半透明に変わって行く。
……よし。これで、俺は戦える。
自分の消えて行く掌を見つめていた省吾だが、振り返って光の世界にいる、大事な人達へと顔を向ける。
小さかったはずの、世界を分かつ枠が、運命と呼ばれるものの力だろうが、省吾から全員の顔が見えるほど広がった。その広がった枠を見た幾人もが、闇の世界へ飛び込もうとしたが、すでに見えない壁が形成されており実行することが出来ない。
……俺は、こんなにも多くの優しい人に支えられていたから、戦えていたのか。なるほどな。それで、こんな弱い俺が戦い続けられたのか。納得だ。
一人一人の顔を見渡した省吾は、少しうつむいて照れくさそうに指で頬を掻いていたが、皆に見えるように顔を上げた。
……皆! さよならだ! 俺は、まだ戦うよ! いままで、ありがとう!
ぎこちなくではあるが、大勢の人々に笑いかけた省吾は、本当は一緒にいたいはずの者達に別れを告げて背を向け、闇の先へと歩き出す。
……さあ! 作戦開始だ!
(ふぅぅ……バカ息子が……。ここで笑いやがったか。お前は、本当に強く成長しているんだな……。最高に、いかした奴になりやがって)
胸ポケットから煙草を取り出した男性は、一本を取り出して火をつけると、寂しくもうれしいらしく笑顔を浮かべた。
(ったく……よぉ……。いっつも、俺達のいう事聞いてくれねぇなぁ。へへっ……。英雄ってのは、扱いづれぇや……)
(まったくだ。でも、貴方は……。最後まで、俺達が誇れる英雄でいてくれるんですね。准尉)
軍属だった大勢の者達が、ゆっくりと消えていく省吾を、自分で出来る最高の敬礼で見送る。
(エース……。サラ……また……会う。エース……サラ……ずっと……いっしょ……)
大勢の人々に見送られた、英雄と呼ばれる青年は、再び戦場に舞い戻る為に、闇の世界から消えていく。
英雄が消えると、光の世界にいた者達も、順次光となって、消えていった。
それぞれが、それぞれの幸せを掴むために。