九
夢とは眠って間に脳が作り出す幻の一種であり、まるで現実での事のように感じ、反射的に体を動かしてしまう者や、言葉を発する者もいる。過去の断片を繋ぎ合わせるだけでなく、見た事もないような幻まで作り出す夢を、探究しようとする者も少なくなかった。夢を超常的な存在からのお告げもしくは、警告だと受け取る者もいれば、類似性を捜し、現実で苦しい状況だった場合、幸せな夢を見るという者もいる。
省吾の元いた世界でも、長年夢に関して研究はされ続けていたが、解明できていない部分のほうが多く、人が夢を操作する事は出来ていない。
異世界の血生臭くなってしまった一室で、気力を使い果たして意識をなくしたケイトは、その夢を見ている。夢の中でとても心が休まる暖かさに包まれているケイトは、家族であるオーブリー達と笑い合っていた。ケイト自身にも、何故自分が笑っているかは分かっていないようだが、幸せならばいいと深くは考えない。
夢の中での人間は、脳が現実のように働いておらず、本来異常だと感じられる事も、受け入れてしまう事がある。ケイトを笑いながら取り巻く人達の中には、少し若い頃のセーラやダリア達死んでいった家族達もいた。それだけではなく、ケイトが孤児だった頃、一緒に過ごしていた少年少女達も、彼女を取り囲んでいる。
ケイトを取り囲む人の数は見る間に増えて行き、反乱軍として共に過ごした者達に留まらず、見た事もない人達まで集まってきた。優に数百人を超える人々が、手を取り合いながら笑っており、中心にいるケイトは幸せを感じ、笑顔で涙を流す。時間介入という、危険極まりない事に手を染めたケイトが望んでいたのは、その光景そのものだったのだろう。
大勢の人をかき分けて、自分に近付いてくる人物を見て、ケイトは急いで涙を拭い、両手を広げる。皆をかき分けて現れた幻でしかない省吾は、現実ではあり得ないのだが、ケイトに応えるように優しい笑顔を浮かべた。ケイトが省吾に抱き着くと同時に、笑顔のまま目を閉じた大勢の人々が消えて行き、そこが二人だけの空間となる。
省吾と何をするわけでもなく、お互いに笑いながら抱き合う事も、ケイトが心底から願っている事なのだろう。現実の世界では、ケイトの愛する者が命の終焉を迎えようとしており、その夢は彼女にとって残酷だといえるかもしれない。
人は、愛を覚え、幸せを知り、希望を持つ生物であり、確かにそれらは生きる為に必要な事だ。だが、その希望や幸せを一度与えられてから奪われる事で、絶望を知ってしまう危険もはらんでいる。
「ん……んんっ……うぅん……たい……痛いぃ! あいっ! いいぃぃぃ……」
……血に鮮血はほとんど混じっていない。動脈は無事のようだな。しかし、この出血量は、静脈は傷ついたか?
太ももからの激痛で、跳ね上がる様に上半身を起こしたケイトは、その勢いで更に痛みを感じてしまい、両目を強く閉じて悶絶していた。夢ではない世界で、ある直感から休みもせずに瀕死の体を動かし続けていた省吾が、ケイトの太ももに刺さったナイフを引き抜いたのだ。
「消毒済みだ。はぁ……はぁ……少し我慢してくれ」
傷の上部分を、省吾はすでにワイヤーで縛ってあるが、想像以上に出血量が多かった為、急いで戦闘服のファスナーをおろした。そして、中から真空パックしてあった脱脂綿を取り出し、ケイトの傷口に直接つめ、包帯を巻いていく。
「あ……ああぁぁ……エー……そんな……」
声もろくに出せないほど悶絶していたケイトだが、痛みに慣れてきた所でゆっくりと閉じていた瞼を開いた。そして、端を右手と歯で噛み、包帯を結ぶ省吾の左腕がなくなっている事に気付き、両手をふるわせて口元を押さえる。
……ナイフを抜くべきではなかったか? いや、この金属を体内に入れたままにするのは、よくない。
ケイトの太ももに、少し強めに巻きつけられた包帯が、どんどん血を吸収して変色していった。
……これは、まずい。この勢いだと、致死量に達する可能性がある。急がなければ。
ワイヤーを取り出した省吾は、先程よりも上の位置を歯と手で止血の為に縛るが、第二の心臓と呼ばれる足の血は、そう簡単に止まってはくれない。
「エー! 腕が! 腕が! いっ! うぅぅ……」
出血具合を見て顔をしかめた省吾に、パニック状態のケイトは両手を伸ばすが、そのせいで傷口からの痛みが強くなり、動きが止まる。
……腕? ああ、これか。もう、俺には必要ないとは、いうべきではないか。
「はぁ……はぁ……はぁ……心配するな。治療は後回しだ。はぁはぁ……それよりも、ケイトの力が必要だ。頼む。力を貸してくれ」
自分を後回しにする省吾を見て、ケイトは太ももだけでなく心も痛くなったようだが、愛する者の頼みを無視はできない。
「はぁはぁ……。すまないが……あれの記憶を……はぁ……読んでくれないか? ここの操作方法を、調べている……はぁはぁ……時間がない」
省吾の指さした先に、眉間を撃ち抜かれて仰向けで倒れているネイサンを見たケイトは、
状況を察してうなずく。
「分かりました。でも……でも! そのすぐ後に、貴方の治療を!」
必要に応じて、嘘をつく事を厭わない省吾は、青くはなっているが表情を変えずにうなずき返事をした。
「分かった。一緒に治療を受けよう。ただ、すまないが、あちらが先だ。時間の余裕はあまりなさそうだ」
ケイトは直感で、省吾の言葉と表情に違和感を持ったようだが、どの道急がなければいけないと、悩むのを後回しにする。
「うっ! うぅぅぅ……」
痛みで立ち上がることが出来なかったケイトは、腕の力で座った状態のまま、ネイサンへと近づいた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
呼吸がどんどん弱まっている省吾も、右手と左ひざだけを使い、右足を引き摺ってケイトの後に続く。
……多分。最悪の結果が待っているような気がする。それでも。いや、だからこそ俺は。
両手と頭部を発光させ始めたケイトの隣で片膝をついている省吾は、右手を相手の肩へそっと置いた。
「もう、この世界には俺達二人しかいない。何があるか分からない。俺にも、情報を流してくれ」
肩に触れられた事で、省吾が強い意志を維持していると分かったケイトは、少しだけ安心したらしい。それは、見た目はかなり弱っていても、それだけ精神が強いままならば、自分が思っているより省吾は元気なのではないかと思えたからだ。
「分かりました。いきます!」
人間は誰でも体が弱れば、精神的にも衰弱するとケイトは考えているが、省吾にそれは当てはまらない。死が迫れば迫るほど、省吾は動ける間に戦わなければと、狩り立てられるように意志を強くしているだけだ。
(えっ? う……嘘っ! これって……)
セーラ達が解明しきれずに、使いこなせていなかっただけで、異世界の都市には直接世界へと干渉するだけの力がある。体を回復させる為に、ナノマシンを使ったネイサンは、都市の今まで知らなかった情報を脳に直接書き込まれたらしい。
自分の知らなかった情報を次々に読み取るケイトは、驚きのあまり絶句し、自分の中に生まれる感情を処理しきれないでいる。感情が混乱したケイトは、頭を情報処理だけにしか使えなかった為、注意すべき事に素早い対応が出来なかった。
……やはり。そうか。いつもそうだ。現実は残酷で。都合よくは出来ていない。
コントロールルームの操作方法と、元の世界を壊す仕組みだけに集中していた省吾は、ケイトと違い自分の取るべき行動をすぐに選び出す。もう少し正確にいえば、一度セットされた装置は解除が出来ないのではないかと、省吾は先読みしており、すでに覚悟を決めていた。
必要な情報を得て、自分の勘が正しかったと分かった省吾は、放心したような表情になっているケイトの肩から手を離す。ネイサンの中にあった想い人の死期を知るだけでなく、省吾自身からこれからどうするかという考えを読み取ってしまった為、ケイトは言葉を無くしていたのだ。
「駄目……駄目! 嫌っ! 絶対嫌っ!」
外部的刺激により、正気に戻ったケイトは涙を溜めた瞳を急いで省吾に向け、掴みかかろうとした。
……遅いな。
まるで襲いかかるかのように鬼気迫る顔で両腕を伸ばすケイトを、上半身の動きだけで躱した省吾は、素早く右手を相手の胸元へと伸ばす。そして、ケイトのつけていた緑色のバッジにある、ボタンを押してから、相手に掴まれないように手を引いた。
「いっ! こんな……嫌っ! 嫌よ! ふざけないでよっ!」
太ももの痛みで、倒れ込んだケイトは、上半身だけを起こした状態で、我がままとしかいえない怒りの声を、省吾にぶつける。ケイトもそのまま都市を放置すれば、今まで自分達が生きてきた世界が壊れてしまうと、理解していた。何よりも、体がぼろぼろの省吾は、もうどう足掻いても長く生きられないのだと、頭では分かっている。
「なんで……エー……なんで……ねえ?」
頭で理解できても、感情を処理出来なかったケイトは、悔しそうに省吾に問いかけながら、涙を流す。
……ここで。恩人の前で、情けない姿は、見せられないな。
ケイトが自由に動けないと判断し、立ち上がって距離を取った省吾は、運命としかいえない出会いをした女性に、真っ直ぐな視線と言葉を送る。
「俺は……俺の仕事は、お前達の世界を平和にする事だ。あの時の約束は、必ず守る。俺を信じろ」
その簡潔で強い想いのこもった言葉は、省吾を止める事が自分には出来ないのだと、ケイトに理解させた。女性を泣かせてしまった罪悪感もあるかも知れないが、自分の事を喋らない省吾が珍しくケイトへの気持ちを打ち明ける。
「ケイト……。君には、本当に感謝している。どれほどの言葉を重ねても、その気持ちはいい表せないほどだ」
省吾の姿を見るだけでも辛くなっていたケイトは、うつ伏せの状態から顔を伏せていたが、涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた。
「俺が、今ここに立ち……皆を守れるのは、君のおかげだ。世界を守ったのは、ケイト……君なんだ。だから……それを誇って欲しい。ありがとう」
裏も表もない、省吾から送られた不器用な感謝の言葉で、ケイトは涙の量を増やし、あえぐように言葉を紡ぎ出す。
「お願い……お願いだから……。必ず……必ず帰ってきて。私……何時まででも……待ってるから……」
光に包まれ始めたケイトへ、逸らしそうになった視線を戻した省吾は、軍人である彼らしい言葉を最後に選ぶ。
「イエス、マム」
立っているどころか、呼吸をするだけでも省吾は苦しいはずだが、それを一切顔に出さず、優しく強い視線を大事な女性へ送る。涙を流しながら消えていくケイトは、愛おしそうに省吾を見つめ返し、口角を上げて最後に彼女らしい言葉を残す。
「嘘……つき……」
サ―ではなくマムなのは、自分が女性である為だとケイトも認識したようだが、イエスの部分を勘違いした。軍に所属した者ならば教えられるが、アイアイは命令を認識して実行するという意味があるのに対して、イエスは命令を認識しただけという違いがある。
必要に応じて嘘をつく事を躊躇しない省吾だが、泣いている女性へ最後に嘘となるアイアイマムはいえなかったらしい。嘘をついたつもりのない省吾は、鼻から少しだけ息を噴き出すと、自分の命を最後まで使い切る為に、歩き出した。
少し前に、ネイサンが出てきた扉は、省吾が前に立つと自動で開き、真っ暗だった通路に光が灯る。微かに機械音が聞こえるその通路は、滑走路のように足元にだけ光源があり、緑色の淡い光が点々と続いていた。
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」
……まだだ! もう少しだけでいい! 動け! 前に進め!
薄暗い通路の床に、右足の添え木となった銃身を打ち付けながら、省吾は瀕死の体を懸命に動かし続け、真っ直ぐに前だけを見る。
一度セットされた命令が停止できない以上、装置自体を壊すしかないと、省吾は決断を下した。異世界の凄まじい外圧に耐え、都市を維持する為に、その場所は内側から反発する特殊な力が常に放出されている。謎の金属を壊すことも出来ない今の省吾は、その維持機能を停止させ、自分もろとも都市を破壊するつもりだ。
省吾は、自分のそんな最後に後悔をしていないらしい。これから自分が自爆という手段を取ろうとしているにもかかわらず、恐怖どころか迷いすら感じさせない省吾も、やはり大事な部分のネジをなくしているのだろう。
ただ、我欲に囚われ、思うままに人を虐げたデビッドやネイサン達と省吾は、全く違う存在だ。服に染み込んだ血が赤黒く変色し、腕を失い、足が折れたせいでゆっくりとしか進めない省吾は、見た目だけでいえば格好良い姿をしていないかも知れない。それでも、命を刈り取る鎌が振り下ろされる最後の瞬間まで、人の為に戦い続ける省吾の姿は、気高く美しいといっていはずだ。
……もう少し。もう少しだ! 最後まで。最後まで俺は戦う。皆が幸せにするんだ! マークや先生が胸を張れるように! 俺は、最後まで戦うんだ!
激痛が絶え間なく襲い、幾度も意識を失いそうになりながらも、省吾は都市の最深部となるドーム状の部屋へとたどり着く。端が丸いその室内には、通路と同様に点々と緑色の光源があり、黒い金属で出来たパネルが省吾にも見えた。
……あれだ! あれで!
薄暗い室内にはそのパネル以外に何もなく、都市を作ったオーバーテクノロジーの結晶と呼ぶには、少し殺風景だと思える。空中に浮いている長方形のパネルには、省吾の見た事もない文字が、びっしりと書き込まれていた。ネイサンの記憶を読み、パネルで都市に様々な指示を出す事が出来ると知っている省吾は、迷いなくそのパネルへと近づく。
……これで。これで、皆が幸せになれる。もう、こんなふざけた理不尽な力に悩まされる事も、なくなるんだ。
パネルに省吾の指が触れた瞬間、一時的に眠っていた装置が目をさまし、室内が眩しいほど明るくなる。
……これが。これが世界? なのか?
パネルを取り囲む様に、二メートルほどの光る球体が複数出現し、その球体は別々の宇宙を映し出していた。その一つには、省吾のいた世界も映しだされているのだが、地球という大きすぎる映像では、それが分かるはずもない。
……急がないと。もう、作動まで時間がない。
省吾は文字の意味も、やっている事も認識できていないが、ネイサンの記憶だけを頼りにパネルを操作した。省吾の操作に反応して、パネルの前に合った球体が、都市の見取り図らしきものを表示する。パネルにある記号へ省吾の指が触れ、光るたびに見取り図はある一ケ所をズームアップして行く。
……よし。これでいい。これで。
都市の維持機能を停止させようとしている為に、球体には警告らしき黄色や赤色の記号が表示される。省吾が操作を進めていくと、他の宇宙を映していた球体達も、赤い文字を表示して、点滅し始めた。室内に響く耳障りな警告ブザーを聞いた省吾は、今の操作が間違えていないのだと確信する。
……よし。これで。
省吾の右手が止まると同時に、十数個浮かんだ球体が、処理画面ののち、最終警告らしき同じ記号を表示した。
「終わり……だ……」
後もう一度記号を触れるだけで、操作が完了するところまで終わらせた省吾は、少しだけではあるが気を緩める。
それは決してやってはいけない事であり、戦場で隙を見せた省吾に、死神が鎌を振り下ろす。三日月状の刃は、省吾の背中から体内へと侵入し、心臓を両断して胸から抜け、壁にぶつかって消える。
……なっ! そんな。こんな所で。
振り向くことも出来なかった省吾は、パネルに倒れ込み、口と胸の傷から大量の血を噴き出した。
「ふっ……ふふふっ……。ふはははははははっ!」
ネイサンすら知らなかった、コントロールルームへの裏口を通り抜け、隠し扉を開いたのは死んだはずのリアムだ。
「ふははははははははっ! これで! これで、世界は私の! 私一人ものだ! いひひひひひっひひひっ!」
余りの嬉しさからか、両手を広げて笑う血走ったリアムの目は、見た者に狂気しか感じさせない。リアムの後ろに浮かんでいる、絶望の字名を持つものは、リアム以上に大声で下品としかいえない笑い声を都市中に響かせていた。
いくら努力し、命を掛けようとも、報われない事が起こるからこそ現実は、残酷と表現される。隙を見せずに戦い続けた省吾だが、所詮人間と超常的な存在では、格が違っていたのかもしれない。異世界の都市でおこった出来事は、全て絶望と呼ばれているものが仕組んだ事であり、省吾はまんまと罠にかかってしまったのだ。
省吾が時代の流れさえ変える者だと認識した絶望は、自分が直接手を出せる異世界へと、おびき寄せた。そして、勘のいい省吾に気付かれないように、全ての出来事に少しずつ介入し、今へと繋げたのだ。デビッドがネイサンの指示に従わなかった事も、省吾が発作でギャビン達の元へたどり着くのが遅れたのも、全て絶望が手を加えたからに他ならない。
神と呼べるほどの力を持つ絶望は、省吾が罠だらけの都市を越えられる事も、デビッドがギャビンに追い詰められる事も分かっていた。その為、ギャビンの精神に干渉し、都合のいい感情爆発を起こさせ、衝撃波の軌道を操作し、発作を起こさせる事で省吾の到着を遅らせたのだ。
絶望が干渉した結果、省吾は瀕死の重傷を負う事となり、リアムの攻撃を避ける事すら出来なかった。また、ネイサンの能力を本人の意思を無視して高め、ケイト達を操り、結果的に強制帰還に追い込んだのも、絶望が動いていたせいだ。
「ああ……。まさか、こうも上手くいくとは……。私には、運がある! まさに天運と呼べる、最高の運だ! ふはははははっ!」
リアムの声を聞いた絶望と呼ばれるものは、笑い声を止めると、下卑た笑顔を浮かべたまま何度も頷いている。
全ての出来事を、カジノのルーレットだとするならば、省吾に勝つ為に、絶望は卑怯と呼べる手段をとっていた。その有り余る力を全てチップに変え、黒と赤、全ての数字にそのチップをベットし、損をしてでも必ず勝ちを手に入れようとしたのだ。中でも絶望と呼ばれるものは、底の知れているネイサンから見切りをつけ、リアムへと乗り換えており、チップも一番多くベットしている。
「最っ…………高だっ! なんという……快感だろう。これほど気持ちがいい事は、他にあるだろうか? いやぁ……ないな。くくっ……」
リアムが苦戦したように見せ、落とし穴に落ちたのは、ギャビンが警戒していた通り、ただの芝居だった。ネイサンに隠れて、都市内部の構造を調べていたリアムは、強くなった能力を活かして落とし穴の奥にあった横穴へと入り込んでいたのだ。
最初にギャビン達の前へ姿を見せたのも、新しくなった自分の力を確認し、死んだと思わせて隙を突こうとした以上の意味はない。当然だが、その横穴をリアムに気付かせたのも、横穴の奥にあった隠し扉が独りでにひらいたのも、絶望と呼ばれるものがそう仕向けたからだ。
隠し扉をリアムに見せても、必ず中へ入るかが分からなかった絶望は、デビッドという駒でそれを確実なものへと変える。デビッドを嫌っているリアムは、絶望の思惑通りギャビン達と幼馴染のどちらが死んでも好都合だと考え、手助けには戻らなかった。ギャビン達を追い込み、省吾に瀕死の重傷を負わせ、リアム誘導の一役をかったデビッドだが、絶望は人の命をなんとも思っておらず、助けない。
そのような状況下でも、勘が人間を超え始めていた省吾ならば、リアムの動きに気付き、止められたはずだった。絶望の字名を持つものは、省吾が単身でノアの首都に乗り込む際、運命が用いた手段をそのまま利用したのだ。神と呼ばれるだけの力を持ったものによって、リアムは省吾の勘では捉えられない存在となり、裏で動き続けていた。
省吾は優れた直感と、命懸けの戦法を用いて絶望と呼ばれるものの予想を超え、未来の世界を救った。そのせいで、絶望と呼ばれるものは、手加減なしの本気にならざるを得なくなり、今の結果へと結びついてしまったのだ。
元々優秀な脳を持ち、フィフスにまで能力を引き上げ、超常的な力をバックにつけたリアムに敵う者などいないだろう。もし、省吾が万全な状態だったとしても、必ず勝てるかと聞けば、ノーと答えるしかないはずだ。
「くくっ……。あの汚い村から始まった、貴様との奇縁。あの女の呪いかと、思わされたほどだ。まあっ! それも、終わりだ」
村での惨劇に駆けつける事が出来なかった省吾は知らないが、黒髪の無邪気過ぎる女性を殺したのは、デビッドではない。デビッドは指をさして指示を出しただけで、実際に省吾の大事な女性へ手をかけたのは、リアムだったのだ。つまり、省吾はリアムを倒さなければ、世界を救う所か仇も討てたことにはならない。
完全に動けなくなった省吾は、憎い仇の声を聞かされ、怒りを覚えてはいるが、それに体が反応するはずもなかった。人の強い想いは肉体のリミッターを外す事は出来ても、死んだ細胞を回復させることなど出来ない。限界などとうの昔に超えていた省吾の体は、心臓を光る刃で壊され、もう指さえ動かせない。
……くそ。くそっ! ここまでなのか? 俺はまた、守れないのか? 俺は。
省吾に唯一出来た事は、脳を超高速状態にする事だけであり、体が動かない為、後は死を受け入れる事しか出来ないだろう。ゆっくりと迫ってくる死を前に、ただただ悔み、願うことしか出来なくなっている省吾は、あまりにも無力だった。
(いぃぃぃやあああああぁぁぁぁ! エース! エース! いいいいぃぃぃ!)
現世とは違う、光に包まれた世界の中で、黒髪の女性が泣きながら叫んでいるが、愛する者に近寄る事さえできない。魂だけとなった彼女が、省吾に近付いたとしても何も出来ないのだが、それでも近くにはいたいのだろう。
(くそっ! なんだってんだ! ちくしょう! この! ええい! くそっ! 准尉! くそ! くそっ!)
女性の隣で、同じく省吾へと近づこうとしている兵士達もいるが、謎の力によって壁が作られており、現世へと進めない。その世界で、見えない壁を殴りつけている者は、数え切れないほど大勢いる。しかし、誰一人として前には出られなかった。
(この! どうなっておる! 何故、進めん! 誰か! どうにかしろ! わしの! わしの大事な英雄が、死んでしまう!)
持っていた杖で、見えない壁を殴りつけていた老人は、生前自分の使用人だった者達に顔を向けるが、誰も返事が出来ない。使用人だった者達も、自分達なりに壁を壊そうと試みているが、誰一人として突破口すら見つけ出せないからだ。
(なんなのよ! ちょっ! しっかりしてよおおおぉぉ! お願いよぉ……。私の家族……守ってよぉ……もう、あんたしかいないのよ……)
他の者達と同じように、壁を蹴りつけていた、かつて時間介入をしていた女性は、ついにその場に膝をつく。
(まだ……信じてんのよぉ……あんたを……。お願いよぉ……)
その女性は、何故自分は死んでしまったのだろうと、誰もいない中空へ向かって問いかけるが、返事は返ってこない。命を損なう前に恋人だった男性は、省吾と関わっていなかった為、その世界には留まれなかったようだ。
(ちくしょう……ちくしょう……ちくしょう……ちくしょう……)
省吾ほど意志が強くない者達が、顔を悲しそうにゆがめて、次々と座り込み始め、口々に悔しいという感情を表現した言葉を呟く。しかし、諦めていない者も多く存在しており、見えない壁に向かって拳をぶつけ続けている。
(ふざけんな! 俺は、諦めねぇ! あの人は、必ずやってくれるんだ! いつもそうだった! このっ!)
諦めていない者の多くが、軍服や戦闘服を身に着けていた。彼等は、生前厳しい訓練に耐え、精神を鍛えていた為か諦めようとはしない。
(エース! 今行くぞ! 待っていろ! この俺が……隊長である俺が!)
死んでしまっている自分達では、どうしようもないと、その者達も分かってはいるようだが、どうしても諦めがつかないようだ。
(舐めやがって……。俺の息子が……こんなに、頑張ってるってのに……くそっ……。だから……神なんて……嫌いなんだ……)
一番長く省吾を見守り続けてきた男性は、加えていた煙草を見えない壁に押し付けるが、それで何かが変わるはずもない。
(いやああああぁぁぁ! エース! 死ぬ! 駄目ええええええぇぇぇぇ!)
どれだけ多くの想いを重ねようとも、所詮弱い人間に出来る事など限られており、圧倒的な存在の前には無力だ。それが、死んで魂だけの存在になった者達ならばなおさらであり、現実世界へ干渉する事すら難しい。
光に満ちた現世とあの世の狭間に、大量の涙が零れ落ち、川でも作ってしまいそうな勢いだ。
……くそおおおおぉぉぉぉ! こんな! こんな事で! くそおおおおおおぉぉぉ!
プレートの上に出来た血の池に沈んだままの省吾は動けない。ただ、体の細胞が端から死ぬのを味わって行く。高速状態で正確には聞き取れていないが、リアムの笑っているらしい声を、省吾は聞き続ける事しか出来ないのだろう。
「くはははははははははははははっ! 運命は! 時代は! 世界は! やはり私を選んだのだ! 私が神だ!」
人間であるにも関わらず、同じ人間の命を、まるで使い捨ての物であるかのようにリアムは考えている。人の命を軽い物だとしか考えられないからこそ、リアムはサイコパスと呼ばれる存在なのだ。
リアムはウインス兄弟のように、好んで人を虐げようと考えないが、自分の役に立つか立たないかという、道具としてしか他人を見ない。役に立たず、邪魔だと思えば、親しい者であったとしても、リアムは容赦なく排除する。
そんな精神が破たんしている人間の作る世界が、愛に満ち溢れ、平和になるはずもないだろう。
「くくっ! くっくっくっ……。これからだ……。これから全ての世界を作り変えてやる。全て私の思う通りに……完璧になぁ……」
リアムのその台詞と共に、明るいはずだった世界の未来へと続く道が、次々に閉ざされて行く。
英雄と呼ばれた青年は、数え切れないほどの死線を乗り越え、最終局面へとたどり着いた。だが、その苦しみ全てが報われないのが現実だ。世界は、人の想いが及ばないほど残酷で、無限とも思える苦しみに満ちている。
狂人が作る世界は、光が混沌へ飲み込まれ、今までよりも多くの苦痛に支配されるだろう。絶望の字名を持つものは、そんな真っ黒に淀んだ世界を望んでおり、リアム以上に大きな声で笑っている。