八
金色の光を放ち、どこを見ても人間の好奇心をかきたてる景色ばかりの異世界の都市だが、何処か寂しい印象を受けた。作られた物としか表現できないほど整い過ぎている事もあるが、一番の理由は厨房や寝室が用意されている建物に、住民が一人もいないせいだろう。孤独を嫌う生物である人間は、人が暮らせるようになっている場所に、喧騒までは望まないが、最低限の活気を求める。
空気は常に正常化されているが、風さえふかない都市内には、動物だけでなく植物さえ一本も生えていない。その場所を創造したものは、都市を自然の循環から切り離し、完璧で不変な物にしようとした可能性がある。
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」
光には満ちているが、虫の鳴き声すらしない都市内に、床へ金属を打ち付け、引き摺っている音が聞こえていた。省吾は片足を引き摺って歩いており、折れた右足の添え木となった銃身が、床に擦れて音を立てている。
「ごほっ! ごほっ! ふぅぅ……はぁはぁ……」
引き摺っている右足に省吾が体重をかける度に、ガチンと音が鳴り、激痛を発する為、短い時間で左足に体重を戻さなければいけない。戦闘が可能とは思えないほど、体がぼろぼろになった省吾は、少し前までのように罠を避ける事が出来なくなっている。その為、罠のないセーラ達が残したルートを使って、都市中心部にそびえているピラミッドへと向かう。
幾度か瞬きをする間に終了したデビッドとの戦いだが、相手はフィフス最強の一人であり、省吾は勝利の為に洒落では済まない代償を支払わされている。只でさえ弱っていた省吾の体は、落下や衝撃波だけでなく光の膜によって痛めつけられ、右足と左腕はもう使い物にならない。仲間の命と引き換えに背負わされたダメージは、どれも命に関わるほどだが、省吾はそれを後悔はしていないようだ。
……まだ。まだだ。リアムの気配は消えているが、奴の気配は残っている。俺は、駆けつけると約束した。約束したんだ。
命を刈り取る鎌が振り下ろされるのを待つだけの省吾だが、死を恐れるそぶりを全く見せずに、霞む視界で前だけを見ている。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
呼吸さえ弱まっている省吾は、普通の人間よりも進む速度が遅くなっており、怪我の具合を知らない者でも、一目で重傷だと分かるほどになっていた。
……もう少し。もう少しだけでいいんだ。動いてくれ。もう少しだけ。
いまだに瞳をぎらつかせている省吾だが、限界を超えた体は、いつもの様に闘志に反応して体温を高めてはいない。終わりへと坂を転げ落ちている省吾の体は、体温がどんどん低下しており、呼吸も明らかに異常が出ていた。
……マーク。ごめん。俺は、そっちに行けない。
出血を金属生命体達の力で最小限に抑え、意識を強い意志で繋ぎとめている省吾だが、ついに幻覚が見え始めてしまう。省吾の視界に姿を見せた幻でしかないマーク達は、声を出してはいないが、笑顔で手招きをしている。
……俺が、行くのは地獄だ。天国へはいけない。行く資格がない。
その考えに反応したのか、幻達は姿を変え、省吾の意志をへし折る為の残酷なものへと変わっていく。省吾の進む道の先を、手を繋いで笑う幼い姉妹が横切り、次の瞬間爆撃にでもあったかのように吹き飛んだ。その幼い二人の少女は、第三次世界大戦中に省吾が限界を迎え、倒れてしまったせいで、この世からいなくなった。
……分かっている。全部俺のせいだ。俺が、弱かったせいだ。
少女達に続いて現れた、省吾と似た戦闘服を着ている兵士達は、銃撃や爆撃によって次々と無残な姿に変わる。世界中が大混乱をしていた第三次世界大戦中は、老若男女問わず多くの者が兵士となり、平和な未来を信じて散って行った。
……ああ。そうだ。情けない俺は、お前達を守ってやれなかった。だから、地獄に行くしかないのは、分かっている。逃げたりはしない。
今も鮮血を噴き出す省吾の心を、さらに抉ろうとしたのか、幻は兵士達や守れなかった民間人から姿を変える。突然現れた笑顔のサラが血を吐いて倒れ、ジョンや村長達村人も、次々に抗えない力で潰されていく。そして、ニコラス老人や農園の使用人達が息絶える姿を作った後、幻はマークの形へと変化し、車庫やファントムまで形作る。
……俺は、もうすぐ死ぬ。そして、地獄に落ちる。これだけ多くの人を、守れなかったんだ。それは、当然だ。
省吾は目を逸らしたくなるような幻を前に、ふらつきながらではあるが、その歩みを止めようとはしない。罪から逃れたいなどと考えない省吾は、揺るぎのない覚悟を瞳に灯したまま、真っ直ぐに幻の先にある目的地を見つめた。
……だが! まだ、俺は死んでない! まだ、戦える! ケイト達の世界を! それだけでも、守って見せる! 俺が、死ぬのはそれからだ!
功績よりも、罪を見つめて生きる省吾は、過去と未来で大勢の人々を救った事と、第三次世界大戦を実質自分が終結させたとよく分かっていないようだ。どれだけ苦しみ、どう足掻いても手に入らない、助けられなかった者達を求めてしまう省吾は、戦い続ける事しか選べないのだろう。運命を流転させる歯車達の中心となった省吾は、自分に差し出せるものを全て差し出し、粉々に砕けるまでまわり続けようとしていた。
「はぁ……はぁ……」
残酷な幻を見ながら歩き続けた省吾は、満身創痍どころか瀕死であるが、なんとかと市中心部へとたどり着く。
……左回り。右回りでは、見えてこない。だったな。
祭壇のあるピラミッドの頂点へと続く、長い階段の前に立った省吾は、右手を壁につけながら左方向へと進む。
ピラミッドを形作っている金色の大きな金属ブロックは、かなりの硬度があるはずだが、まるで木の様な手触りだ。しかし、全身の激痛さえも麻痺し始めている省吾は、それを手の皮膚から感じ取ることが出来ない。
大きなピラミッドを左方向に二周程回ったところで、金属ブロックが放つ光が、異常な屈折を始める。省吾にはどのような仕組みでそうなったかは分からないが、長い階段のあったはずの場所に、扉が出現していた。
……よし。ケイト達は、ここまでたどり着けたようだな。
本来は壁にあるパネルを操作し、開かなければいけないコントロールルームへの扉が開いたままになっている。それにより、ケイト達が後から来る者達の為に、わざと開けたまま中へと進んだことが省吾にも分かったようだ。
扉の奥は、すぐに地下へと向かう階段になっており、明かりがないせいでどこまで続いているかが省吾には見えない。
「なるほど……。よく出来ている」
省吾が扉の前に立つと、階段の左右にある壁が外とは少し違う白い光を放ち始め、暗かった道を照らす。壁や周囲にセンサーはなく、光も金属自体が放っており、オーバーテクノロジーなのだが、時間の無い省吾はそれを気にも留めず、階段を下りていく。
……さあ、行こう。ケイト達が、あいつを捉えていればそれで終わりだ。
「はぁぁ……はぁぁ……まだ……」
金属音を響かせながら省吾は地下へと続く長い階段を下り、壁に肩を預ける形で呼吸を整える。そして、真っ直ぐに続く長い通路の先を見つめ、再び冷たく鉛のように重くなった体に力を入れた。
……もう少し。もう少しだ。この先に人の気配がある。もう少しだけ。
徐々に体を気力だけでは支えられなくなってきた省吾は、壁に肩を預けたままの姿勢で、前へと進んでいく。
「はぁ…………はぁ…………はぁ…………」
幻すらもう見えなくなった省吾にとって、気の遠くなるようなほど通路は長く、命の砂はその間も容赦なく落ちていった。
……もうすぐだ。もうすぐ。
床や天井だけでなく、床まで鏡面の様な長い一本道の先に、扉が見えた省吾は歯を食いしばり少しだけ進む速度を上げる。
「エー! よかった! 無事だったんですね!」
省吾が扉にたどり着くよりも少しだけ早く、内側からケイトが扉を開き、笑顔で省吾に声を掛けた。フィフスの男性も、ケイトの後ろから顔を出し、笑いながら自分達の状況を省吾へ報告する。
「遅かったじゃないか。もう、ネイサンは俺が縛り上げたぞ! さあ、早く来いよ」
……そうか。よかった。これで。
自分の事を心配して欲しいなどと考えない省吾は、二人の異常に気が付けず、直感からのアラームを無視してしまう。本来、誰が見ても重傷を負っていると分かる省吾を前に、ケイト達が心配もせずに笑うはずがない。直感とはいくら優れていても、根拠のない情報であり、省吾が目で見た現実を先に信じてしまったのは、仕方のない事だろう。
「エー。ほら、早く。こっちですよ。こっち」
扉の前までたどり着いた省吾は、二十畳ほどある明るい部屋の中を見回したが、部屋には何もない。今省吾が居る扉も合わせて、四方に一つずつ扉があるだけで、その部屋自体はコントロールルームではないのだろう。
……なっ! しまった!
ケイトに導かれて室内へと入った省吾を、自分の中にあるランプが真っ赤に変わり、振り向こうとした。だが、それよりも早く、背後へと回り込んだフィフスの男性が、省吾を羽交い絞めにしてしまう。
「ぐうっ! お前……達……」
衰弱によって朦朧としていた為とはいえ、判断を誤った事を省吾は後悔している。だが、もうすでに遅かった。
「くそっ! こ……の……」
フィフスの男性を振りほどくほどの力が、省吾には残されておらず、もがけばもがくだけ自分の体力だけが減っていく。省吾の体内で、今も黒い力は働いているが、ベースとなる体が余りにも弱っており、生命維持以外へ手がまわせない。輝く力も同じで、省吾の強い意志でいくら新たに生み出されても、命を繋ぐだけで消えてしまう。
……くそっ! 俺は、馬鹿だ! 敵が、洗脳の力を使うかも知れないと、分かっていたはずなのに。くそっ!
まるでスイッチをオフにしたかのように、顔から笑いを消し、無表情になったケイトが省吾に背を向ける。
「くっ! お前……」
ケイトが振り返った先にある扉が開き、にやにやと笑ったネイサンが、眼鏡を中指で持ち上げながら入室してきた。
「やあやあ、こんな場所まで、よくもまあ来たもんだねぇ。大昔に死んでいないとおかしい、最強の英雄くん」
コントロールルームの機能によって、省吾になんの力も残っていないと分かっているネイサンは、厭味ったらしい言葉を吐く。
……こいつ? なんだ? あの、姿は?
細身の黒いスーツ姿で現れたネイサンは、髪を整髪料でセットし、新しい眼鏡をかけているが、それよりも目を引く部分がある。省吾の鋭い瞳の中に、微かな困惑が混じったと読み取ったネイサンは、肩をすくめて大きく息を吐き出した。
「ふふっ……。まったく……酷い姿だろう? ここの技術を使うと、体の弱い部分を作り変えてしまうらしくてねぇ」
大げさといえるほど困った表情を作ったネイサンは、左手で金属のように変わった自分の頬を軽く撫でる。省吾の弾丸にそぎ落とされたネイサンの左腕も、額や頬同様に都市の建物に似た黄金の金属で、補われていた。
ナノマシンの治療や若返りを行い過ぎたらしいネイサンは、右手の甲や眼球の一部まで、その金属に体の細胞が置き換えられている。ただ、全てが置き換わっていないせいで、今のネイサンは全身が斑状になっており、生理的な不快感を覚える姿になっていた。
「まあ、いずれ全身が、全て置き換わる。焦る理由がない。能力も高まった。だが……どうだ? 酷い姿だろう?」
ネイサンが顔を省吾からケイトに向けた瞬間に、すでに操られているらしい女性は、妖艶な笑みを作る。
「そのような事はございません。貴方様は、より完璧になられたのです。それに……私から見れば……大変……魅力的です」
頬まで朱に染めたケイトは、ネイサンにしなだれかかり、相手の体にゆっくりと指を這わせて、甘えるような仕草をとった。
「ああ……貴方様は、神に……。いえ、神そのものです。私の全てで、尽くします」
目つきをさらに鋭くした省吾に向かって、ケイトの頬を撫でながら、ネイサンは気持ちの悪い笑顔を向ける。
「この通りだ。この娘は、セーラよりも若く美しい。しばらくの間は、退屈せずに済みそうだ。ふふふっ……」
……くそっ! こんな時に!
溜まった無駄な血を排出し、体を少しでも延命させようとした黒い力のせいで、省吾は床に真っ赤な水溜りを作った。
「あん……」
自分に顔を近づけてきたケイトに、口づけをしようとしたネイサンだが、省吾の吐血を見てそれを止める。残念そうに顔をしかめたケイトを、邪魔だといわんばかりに押しのけたネイサンは、省吾を舐めるように見つめた。
「いやぁ、悪いねぇ。英雄くん。君には、時間がないんだった。他は、後回しにして、先に君の相手をしなければいけないな」
下品なほど口角を上げたネイサンは、傲慢といえるほどプライドが高く、デビッドとは違うネジをなくした者だ。自分を無様な姿に追い込んだ省吾を、どうしても踏みにじりたいらしいネイサンは、すでに台詞を用意していた。
「君に是非、聞いておいてほしい事がある。実は、治療を受けた事で、能力だけでなくここの知識も手に入ってね」
省吾の過去を遺跡の力で見ているネイサンは、もっとも相手が悔しがるであろうと事を、嬉しそうに説明していく。現実は偶然の連続で作られており、未来や過去の形は一つではないと、ネイサンはまるで出来の悪い生徒に説明する教師のような口調で、省吾へと世界の仕組みを教える。
「つまりだ。ある一つの可能性……Xとしよう。それを、どうするかがAとB二通りあるとすれば、未来もAとB二通り作られる」
知識を披露する事で、自分がいかに優れているかを示し、ネイサンのプライドは満たされていくらしい。
「そのAから見れば、Bは異世界なわけだ。まあ、パラレルワールドといったほうが、君には分かり易いかな?」
……くっ! これが、俺の限界なのか?
説明を聞きながらも、省吾は腕に力を何度も入れているが、フィフスの男性を振りほどくことが出来ないでいた。感覚さえ操られているらしい、フィフスの男性は、万力を思わせる力で省吾の自由を奪っている。蹴りや後頭部で頭突きだけでなく、体重移動によって転がそうとも省吾は試みたが、全てサイコキネシスの力で無効化された。
省吾がもがいている間も、舌を驚くほど滑らかに動かしていたネイサンは、本題となる事を解説し始める。
「木の根もしくは、木の枝を想像するといい。世界は、分岐点で枝分かれして無数に存在するわけだ。ただし、無限に増える訳ではない。ふふっ……」
ネイサンが意味ありげに笑った為、省吾は体力が消耗し過ぎた事もあり、一時的に足掻くのを止めた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
汚い笑顔を作っているネイサンもその事に気付き、それでいいといわんばかりに、首を数回縦に振る。
「世界の数に限りがある以上、無駄なものは……そう、枝だけに剪定されるわけだ。弱い世界を、隣接した強い世界が食べてしまうのだよ」
ネイサンが笑顔を作ったのは、自分への勝利を確信しただけではないと分かった省吾の眉間に、深いしわが刻まれた。やっと理解できたかと、省吾を馬鹿にしたように呆れ顔で鼻から息を吐いたネイサンは、再び寒気のする笑顔を作る。
「君の想像通りだ。その剪定を、ここは操作できる。つまり……君が守った世界は、全て消えて無くなる訳だぁ! どうだ? 面白いだろう? くぁははははっ!」
……こんな! こんな、奴の! くそっ! くそおおおおぉぉ!
今の省吾がいくら強く歯を噛みしめても、フィフスの男性を振りほどくだけの力は生み出せない。
「ははははっ! もう、あの世界を壊すように、セット済みだ! どうだ? んん? お前の今までは、全て無駄だったのだよ! ひひひひひっ!」
省吾の悔しがる顔をお気に召したらしいネイサンは、自分の自尊心が回復されていく快感で、笑い続けた。
「ふふっ……。あはははははははっ!」
ネイサンから突き放され、無表情のまま瞬きもせずに立っていたケイトだが、念話の指示を受けたのか、突然壊れた様に笑いだす。刻々と命の終わりが近づいている省吾は、貴重な時間を五分以上も不快な笑いに削られる。
「はぁ……はぁぁぁ……ふふっ……。いけない、いけない。君相手に、手を抜くのはよくないな」
零れた涙を指ですくい取ったネイサンが、笑いを止めると同時に、操り人形とかしているケイトも笑いをぴたりと止める。
……くぅ! なんで! こんな。
命を惜しむつもりなどない省吾は、魂を消費しようとしたが、それは都合よく使える力ではない。いくら力んでも、省吾は体力をどんどん消耗するだけで、内部にある力を増す事は出来なかった。
「さて、君の最後に相応しいのは……。やはり、自分が守った者達に、殺される……がいいと私は思うのだよ」
ネイサンに目線を送られたケイトは、笑顔でうなずくと、その笑顔を維持したまま動けない省吾へと歩み寄っていく。
「なにせ、私の時間を、無駄にしてくれたわけだからね。その罰を受けるのは、当然の事だよ。まあ、永遠に生きられる私には、些細な事だがね」
力に自信の無いネイサンは、言葉を使って、省吾の全てを否定し、存在を貶める為だけに全力を出していた。自分が長い年月をかけて作った世界を奪われ、体が変質した事を、ネイサンは些細などとは思っていないが、そういえば省吾の行いが小さくなると思っているのだろう。
……何か。何かないのか? 考えろ! 諦めるな! まだ、何かあるはずだ! まだ!
歯を食いしばって、眉間に幾本も深いしわを作っている省吾に近付いたケイトは、白い金属で作られているナイフをケースから抜く。デビッドのように時間をかけて洗脳をしていない為か、ケイトは単純な作業しか出来ないらしく、能力を使おうとしない。
ケイトには金属生命体達で作られたナイフを、最大限に活用する力は無いが、ただの刃物としてならば扱える。
「さあ! 私に、君の断末魔を聞かせてくれ!」
寒気が走るほどの快感を覚えたネイサンは、両腕を広げ、演劇でもしているかのように、作られたセリフを吐く。
……もう。これに賭けるしかない! さあ! 来い!
省吾にナイフを突き立てようと、ケイトは両手で逆向きに柄を握り、両腕を限界まで振り上げた。ナイフが体内に差し込まれた瞬間に、その力を利用する事しか思いつけなかった省吾は、刃を即死しない位置で受け止める事だけに意識を集中させる。
「いぐっ! あがあああぁぁぁ!」
表情を無くしたケイトが、勢いよく体重が乗る様にナイフを振りおろし、白い光の満ちた部屋に悲鳴が反響した。
金属生命体で作られたナイフの刃は、ルークの持っていた振動ナイフよりも、切れ味が鋭い。黒く変わっていないナイフだが、女性であるケイトの力でも鎖骨を容易く切り裂き、刃の先を胸部の奥へと進ませた。
……こんな。何が?
床に右ひざをついた省吾は、先程まで鋭くしていた目を丸くして、血の付いたナイフを引き抜いたケイトを見上げる。ケイトの振り下ろしたナイフは、省吾ではなくフィフスの男性に突き刺さり、悲鳴を上げたのもその男性だ。
「ああぁぁ……うぅぅぅ……ぐっ!」
耐えがたい苦痛を味わったフィフスの男性は、省吾を羽交い絞めにしていた腕から力が抜け、苦しそうに唸っている。
「ケイト……お前……」
ナイフが引き抜かれた事で、男性の傷口から血が少しだけ飛び散り、省吾の左目が赤く染まった。
「なっ! そんな……私の力は、フィフスを超えているのだぞ? こんな……」
省吾以上に目を丸くしているネイサンが、自分を落ち着かせようと、震える右手で口元を押さえる。予想外の事で、省吾もただケイトを見上げる事しか出来ず、次の事態に対応が出来なかった。
「わ……た……しを……舐めるなあああああああぁぁぁぁ!」
ネイサンの支配に抵抗した証として、鼻血を流し始めたケイトは、もう一度振り上げていたナイフを勢いよく振り下ろす。
……なっ! しまった!
黒く濁り始めたナイフは、ケイトの太ももがまるで無いかのように突き進み、刃先を体外に出した。省吾との幸せを、何よりも強く望んでいたケイトに、愛する者を殺させようとしたのは、ネイサンの失敗だ。
「いっ……あ……うぅぅぅ……」
痛みによって、瞳にはっきりとした感情を戻したケイトは、さらにネイサンの力に抵抗をする。
「誰が……誰が! お前なんかにいいいいぃぃぃ!」
太ももを貫通したナイフの痛みで、ケイトは崩れ落ちそうになっていたが、激しい怒りの感情を使って上半身を持ち上げた。
……何てことだ。ケイト。お前は。
ネイサンの信じられないほど強い支配から抜け出す代償として、ケイトは全能力を消費する。立ち上がろうとした省吾の眼前で、鼻からだけでなく、目や耳からも血を噴き出したケイトが、作り物ではない笑顔になった。
「エー……ごめん……ね……。私には……これが限界……みたい……」
……ケイト。ありがとう。十分だ!
激痛を堪えて立ち上がった省吾は、倒れそうになったケイトを両腕で、抱き留めようとした。しかし、左腕はなくなっており、右腕も骨折によって力が入らず、倒れてくる女性のクッションとして下敷きになるのが精一杯だ。
「こんな……こんな事が……。そうか! そうだ! 時間がなかったし、新しくなった能力にも慣れていなかった。そうだ。そうに決まっている!」
自分が失敗したなどと考えたくないネイサンは、誰も聞いていないのにいい訳を叫び、放心状態から脱した。
……これで、終わらせる! 今が、命を掛けるべき時だ!
「お……おおおぉぉぉ!」
省吾は強い意志で体内の力を生命維持から、強制的に肉体操作へと切り替え、吐血してしまう。それと同時に、三種類の金属生命体達によって、落ちる速度を緩められていた命の砂が、一気に落ち始める。
だが、その代償のおかげで、自分の上にいるケイトの体をずらし、立ち上がりながらホルスターの拳銃へと手を伸ばすことが出来た。驚愕していた顔から、少し前までの自信に満ちた顔へと、表情を変化させたネイサンは、ケイトの下から這い出そうとする省吾に声を掛ける。
「エー。井上省吾。エース。君の本名は、そのどれでもない。そうだろう? 正しくは二階堂新。ふふっ……」
異世界の都市を使って過去を見たネイサンは、省吾の無くしたはずの本名を教え、不敵に笑う。当然ではあるが、直接戦う力が無いとはいえ、小心者であるネイサンが、勝算もなく余裕を見せるはずもない。
「二階堂新! 我が命に従え!」
ネイサンの言葉と共に、省吾の全身が驚くほど強い、謎の力に掴まれ、ホルスターから拳銃を抜く途中で体の動きが止まる。
……これが? 洗脳なのか?
省吾が動きを止めた事で、ネイサンは笑顔を気持ち悪く歪ませ、再び自分の力がどれほど強いかを言葉で相手に説明し始めた。
「私の能力は、言霊だ。相手の名前を呼ぶだけで……。まあ、そこからの微調整は必要だが、全てを支配できる。どんな相手でもだ! どうだ? 声も出せまい?」
省吾の顔がうつむき気味だったため、近寄りはしないがネイサンはわざわざしゃがんで、相手の顔を覗き込む。
「これはノアの王達のような、出来損ないの能力ではないぞ。相手のレベルを限定する必要がない。進化して、相手が能力者である必要もなくなった。まさに、神たる私に相応しい力だ!」
金属に置き換えられた左手で、まだ違和感があるのか頬を撫でながら、ネイサンは薄気味悪い笑顔を浮かべ続けた。過去を見る事で、省吾が途方もなく強いと分かったネイサンは、その省吾に勝てたのだと、喜んでいるらしい。自分を必要以上に大きく見せる事を生き甲斐とするネイサンは、強い相手を屈服させる事で、快感を味わえるようだ。
「ふ……ふひひひひぃ……」
英雄と呼ばれた男よりも、自分は優れているのだと感じられたネイサンが、身震いをしながら気味の悪い笑いを吐き出す。
「苦しいか? いや、それすらもう感じないか。ひひっ……。さて、この馬鹿女は……ふぅ……まったく、困ったものだ」
うつ伏せで倒れたままのケイトに、細くした冷たい視線を送ったネイサンは、驚かされたのが気に入らなかったようで、つばを吐き捨てる。ネイサンの唾がケイトの綺麗な髪に付着すると同時に、省吾の口の端から流れ出していた血も、床へと落ちる。
「さてさて。二階堂くん。そろそろ、消えなさい。まだ引き金を引くだけの、力は残っているね?」
拳の親指と人差し指を伸ばしたネイサンは、こめかみに手の人差し指の先をつけ、まるで銃弾を放ったかのように跳ね上げた。謎の金属で作られた室内に、一発の銃声が響き、発射された黒い弾丸が、頭蓋を砕いて脳へと達する。
「そんな名前は、聞いた事もない。俺に……本名などない!」
口だけでなく鼻や耳からも血を流していた省吾を、ネイサンは体が弱っているせいだろうと決めつけていた。省吾は体を支えるだけの能力しか残っていなかったが、強い意志だけでネイサンの支配を押しかえし、銃口を敵へと向けたのだ。流れ出た血は、その証だった。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
額を撃ち抜かれ、後ろに倒れたネイサンに近付いた省吾は、敵の死亡を確認する。
……これで。いや! 違う! まだだ! こいつは、世界を壊すセットをしたといっていた。
能力を生命維持に戻した省吾は、何度もよろけながら、傷口を押さえて倒れているフィフスの男性に近寄った。
「すまない……、本当に……すまない……。守れなかった……俺は……」
その男性は涙を流しているが、痛みではなく、省吾と約束したにもかかわらず、ケイトを守れなかった事を悔やんでいるようだ。
「気にするな。些細な事だ。はぁはぁ……。これから……はぁぁはぁ……守ってやれば……いいだけだろう?」
男性が傷口を押さえていた手をずらした省吾は、流れ出す血が黒ずんでいない事で、顔をしかめる。
……まずいな。咳はなし。肺じゃないとすれば、心臓か? これは、急がなければ、手遅れになる。
「ああ! 待ってくれ! 俺は、まだ……」
自分の血で赤くなっている手で、涙をぬぐっていた男性は、省吾がバッジのボタンに手を伸ばした事にかなり遅れて気が付いた。
「後は、俺の仕事だ。はぁはぁ……任せろ!」
自分に手を伸ばした男性へ、真っ直ぐな視線を向けた省吾は、うなずきながら親指を立てて見せる。すでにこれからどうするかを決めている省吾は、光に包まれて消える男性を見送り、立ち上がった。
命の砂がほんの一つまみしか残っていない、ぼろぼろの青年を、無表情な運命という字名を持つものだけが見つめている。