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名無しのエース  作者: 慎之介
六章
68/82

拾壱

 白く眩しい光に満ちた世界から、一人の男性が底の見えない真っ暗な世界へと落ちて行こうとしていた。現世とあの世の繋ぎ目であるその場所から落ちるという事は、男性の完全な死を意味している。


 その場所は、魂となった者が辿り着く世界だ。そこで死にたくないといくら願ったとしても、その願いは簡単に叶うはずもない。更にいえば、強い想いで光の世界に戻ったとしても、帰るべき肉体が死んでいては現世ではなんの力もない魂だけの存在になってしまう。


 デビッドに敗北し、今まさに闇へと落ちて行こうとする省吾は、口を閉じたまま目を細めていた。戦時中に幾度も生死の境をさまよい、その世界へ来るのが初めてではない省吾は、そのまま落ちればどうなるかが分かっているはずだ。


 まだ光の中にいる省吾だが、一言も言葉を発する事もなく、自分から動こうともしていない。まるで敗北を認め、死を受け入れたかのように見える省吾の体は、ゆっくりと背中から深淵へと向かっていた。


 その光景を魂だけになった大勢の者達が、悲しそうに見つめている。少しでも省吾が生きたいと願ってくれれば、その者達は駆けつけて助けようと考えていた。だが、口を開かないまま光と闇の境を見つめてもがこうともしていない省吾を、無理に助ける事は出来ない。


 現世に戻れば、省吾がまた苦しまなければいけないと知っているその者達は、一人また一人と目を閉じていく。省吾を心底想っているその者達は、世界に平和が来なかった事を知っている。それでも、十分過ぎるほど苦しんだ英雄が死を望むならばと、自分達の気持ちを消しているのだ。省吾が死ぬまで立派に戦い続けたと知っている者達は、誰も彼を責めようとはしない。


……情けない。俺は、本当に情けない。


 その世界で、死ぬまで戦い抜いた省吾を責めたのは、たった一人だった。それは、省吾本人だ。怒りに飲み込まれ、策もなく感情に身を任せたせいで死の世界へと追い詰められた自分を、省吾は許せないでいた。


 命を削りながら戦い続けた省吾は、その一戦一戦を超えるたびに心も強くなっている。すでに今の省吾は、幾度も味わった敗北程度では揺らがないほどに心が成長していた。自分自身へ向けられた怒りが、メーターを振り切ってしまう程強かった為、逆に冷静になった省吾は叫びもしていなかったのだ。


……まだだ。まだ、戦える。死ぬまでじゃない。俺は、死んでも戦わないといけないんだ。それが多くの命を奪った、俺の存在理由そのものだ。


 魂だけの存在となった者達は、省吾の小さな呟きを聞き、閉じていた目を開き、瞳を輝かせる。


(えっ? そんな……そんな、嘘でしょ……)


 省吾の細めていた目に鋭さが戻ると同時に、魂だけとなった者達は力を貸そうとしていた。だが、魂だけとなり、本人の意志では上手く動かないはずの腕を省吾が動かした事で、息を飲んだ。


……戦う為なら。戦えるなら! くれてやる! 俺の魂を!


 人間が絶対に手を出してはいけない魂の力を消費し始めた省吾は、全身が真っ赤な炎に包まれていく。苦痛だけに満ちた地獄の様な戦場に戻る為、省吾は命自体を消費し、深淵の中で立ち上がろうとしていた。英雄や狂人と呼ばれる者達は、物事の本質を見抜ける力がある為、本来捨ててはいけないものまで捨てられる勇気を持ち合わせているのだ。


……ぐううぅぅぅぅ! ぐっ! がああああああああああぁぁぁぁぁぁ!


 信じられないほどの苦痛に襲われた省吾だが、怯む事なく目を見開いたまま、腕を伸ばしていく。


(魂さえも……なんて人だ……あんたって人は……)


(エー……。お前はこの世の誰よりも……最高にクールだぞ……。お前をひきとった俺は、何も間違っちゃいなかったんだ……。そう、今ならはっきりとそういえる……)


……守って見れる! 必ず! 必ずだあああああぁぁぁぁ!


 省吾の選択が、どれほど悲しい結果を生むかが分かっている者達は、誰よりも素晴らしい心を持った愛する者を見て涙を流していた。


(あうぅ……エース……うぅぅぅ……)


 サラを含む幾人かは、省吾を止めに向かおうとする。しかし、見えない力に阻まれ、愛する者を見ている事しか出来ない。


 闇の中から伸ばした省吾の手は光を掴む。そして、誰の助けも借りる事なく一人で体を光の中へと戻していった。自分が死ぬ事さえ許さなかった英雄は、自分という大きな代償を払い、何度でも立ち上がる。目指している明るい未来の中に、自分がいなかったとしても、伝説とまで呼ばれる青年は止まらない。肉体だけでなく、魂さえもこの世だけでなくあの世から消えない限り、省吾は戦い続けるのだろう。


「おっしゃああああぁぁぁ! らあああぁぁぁ!」


 脳が高速で動いているデビッドは、吹き飛んでいく省吾を見て止めとばかりに、特大の光る衝撃波を放った。それがもしぶつかれば、無防備な省吾の体は粉みじんに砕け散り、床や壁には無残な残骸だけが残っただろう。だが、そうはならない。


 絶望の思惑すら打ち破っていく英雄は、死の瀬戸際ではなく、本当に死ぬ事で人の限界を超える。ピンチに陥ったヒーローが手に入れる都合のいい力など、現実の世界には存在しない。ただし、偶然が数え切れないほど重なった運命を、命懸けで掴むことの出来る者は存在している。


 心肺の停止した省吾は、大理石がひび割れる程の衝撃で床に背中からぶつかり、反転してもう一度床に体を打ちつける。一瞬といえるその短い時間で省吾の体内には、超常的な存在であるものでも信じられない変化が起こっていた。


 心臓の鼓動が止めた省吾だが、脳が死んでいなかった事で、強烈な意思の力が体内の金属生命体達に指示を出していたのだ。その指示とは、意思だけでなく自分の魂を食らい、戦う力を放出しろというあり得ないものだった。戦うことで今も成長を続けている省吾は、ファントムの力だけでなく、人に扱えないはずの魂すら強い意志で支配下に置いていく。主の想いに応え、魂という莫大な栄養にかじりついた金属生命体達は、今まで以上の力を放出した。


 当然ではあるが、そんな事だけで死んだ人間が生き返らない。そのどうしようもない現実に、省吾は絶望ですら予想できない方法で立ち向かう。体内に撃ち込まれていた、二発ある弾丸の形をした金属生命体達まで、制御していったのだ。弾丸という形をした金属生命達の量は、フィフス達をはるかに凌駕するものだった。硬い大理石の床に背中を省吾がぶつけたのと、全く同じタイミングで、心臓を握りつぶすほどの真っ黒い力が加えられた。


 省吾の血中と細胞内にいる金属生命体達は、魂を取り入れて産みだした大きな力を全て、主が黒い力に中から押し潰されない様にだけ使用する。筋繊維一つ一つを、輝く力を生み出す金属生命体達が強化していなければ、省吾は心臓が破裂していただろう。


 省吾の心臓は、輝く力に守られつつ黒い衝撃を受け、脈を再開した。魂さえも投げ捨てられるだけの強さを持った省吾は、運命によって一度死に、強い意志で蘇ったのだ。


 デビッドよりも優れた直感を持つリアムは、省吾がすでに死ぬか意識をなくしているだろうと察知していた。そして、自分でも防げないデビッドの強力な力が省吾に向かったのを見て、焦るまでもなかったかと考えている。


 天才と呼ばれる種類の人間であるリアムのよく働く頭は、状況を的確に読み取り、そこから予知にも似た先を計算する力があった。ただ、それは常識の範囲内での計算であり、今まで蓄積したデータの規格を超えた者には通用しない。


「なっ? なんだ?」


 興味をなくした省吾から目線を逸らそうとしたリアムだが、強烈な悪寒が全身を駆け巡り、目を少しだけ大きく開いた。


 サイコキネシスの力は弱いが、練度がケイト達と同等かそれ以上に高いリアムは、眼球を素早く動かしていく。高速状態に入り、体よりも頭の回転が強化されるリアムは、視界の中で何に危険を感じたかが理解できた。倒れていたはずの省吾がいつの間にか上半身を起こしていた事に、リアムの無意識が反応していたのだ。


 高速処理をしているリアムの動体視力は弾丸すら目視できるのだが、省吾の動きがコマ落ちしたようにしか映らない。デビッドの放った衝撃波が届くまでに、リアムは四段階に変化し終えた省吾だけが見えていた。倒れていた省吾が、上半身だけを起こし、次に片膝をついた状態に変わり、いつの間にか銃を抜いていたのだ。


 真っ黒い力を最大限にまで引き出した省吾の体は、脳の超高速処理についていくほど速く動いている。折れた骨だけでなく、弾丸に貫かれた筋肉や皮膚が魂を糧にした力に補われた省吾は、右手に握ったリボルバー式拳銃の引き金を引いた。


「まずい!」


 反射的に叫んでいたリアムは、自分で発生させられる最大の力で、防御膜を作り出していた。デビッドも起き上がった省吾の姿を見てはいたが、衝撃波を避けられるはずもないと考え、リアムほど焦りはしない。


 省吾の握る拳銃から放たれた金属生命体の弾丸は、黒く鈍い光を放ちながら、デビッドの放った衝撃波に向かって突き進む。


「はっ? えっ?」


 目の前で自分の放った衝撃波が突き破られるだけでなく、消し飛ばされたのが信じられないデビッドは、ぽかんと口を開いた。


 弾丸が纏っているのは、ファントムを生み出すのと同じ力であると同時に、超能力とも類似している。超能力者達の能力がファントムに効果があるのは、ぶつかった同種の力が相殺している為だ。ファントムの正体である黒い霧のような密度の低い力は、ファーストですら容易に消し飛ばせるほど弱い。だが、フィフスの力すら上回っている濃度の高い光を纏った弾丸は、デビッドの衝撃波をかき消してもまだ、恐ろしいほどの余力を残している。


 凄まじい速度で飛ぶ弾丸の産みだした衝撃波は、大理石の床や壁を丸く削り取り、周囲に焦げ臭いを残していく。リアムとデビッドの光る防御膜を容易く突き破った弾丸だが、その反動で軌道がそれ、通路の天井に突き刺さった。ファントムを生み出す力は、案ガンの速度と威力を信じられないほど強化する代わりに、誘導が出来ないようだ。


「なああああぁぁぁぁ! はぁはぁ……嘘だろ……」


 弾丸の凄まじい衝撃波に吹き飛ばされたデビッド達は、床に這いつくばりながら大穴があいた天井を見つめる。


「あの……目……。あれは……あれは人間じゃない……人の形をした……何かだ。人間じゃない」


 逸早く省吾に視線を戻したリアムは、穴の開いた天井からの光を見たせいで、薄暗い通路が更に暗く見えていた。リアムの呟きで我に戻ったデビッドとネイサンも、視線を通路の先に戻し、真っ赤に光る二つの点を見る。


「うおおっ! 怖っ! な……なんだよ! あいつ!」


 目を細めたデビッドは、真っ赤に光っているのが立ち上がって自分の方へと向かって歩いてくる省吾の瞳だと分かり、座ったまま上体を引く。ファントムの力を内包している省吾の体は光を発していない。だが、瞳の色だけがファントムと同じ赤に変わっていた。


「なんだ……あれは……あんなものが存在するはずが……」


 デビッドとリアムに肩を掴まれて立ち上がったネイサンも、あり得ないともいえる省吾を見て、体を震わせている。


「はぁぁぁ……はぁぁぁ……はぁぁぁ……」


 なんとか立ち上がった省吾だが、想像以上に操作を受け付けない体のせいですぐには動き出せず、大きな呼吸を続けていた。


……くっ! 動けっ! これなら戦える! あの、悪魔達と!


 激しい苦痛を伴うだけでなく、魂の量に限りがあると分かっている省吾は、逆らおうとする体を強い意志で無理矢理抑え込んでいく。


「やべぇ! やべぇって! あれ! やべぇってぇ!」


 明らかに自分達よりも強い存在の射程内で、デビッド達は恐怖を感じて狼狽し、逃げ出す事さえできないでいる。停止しかかった思考で、ネイサンとリアムは省吾が何者なのかと考え始めているが、答えなど出せるはずもない。ネイサン達の目の前にいるのは、最強と呼んでいい存在にならざるを得なかった、悲しい青年だ。それを理解できていない狂った思考のネイサン達三人は、自分達の犯した過ちに到達できない。


 デビッドが持って生まれた力に溺れ、嬉々として人々の命を奪い、省吾を追い詰めなければそれは生まれなかった。


 他人の命を道端の雑草程度にしか考えられないリアムが、野心を満たす為だけに人より優れている頭脳を使わなければ、こんな結果を見る事もなかっただろう。


 何よりも、ネイサンが歴史を歪めなければ、省吾どころか能力者達すら存在しなかったはずだ。


 逆にいえば、ネイサンが改ざんした歴史の反動として、最強となった省吾は作られたのかもしれない。


 肉食動物どころか、近代兵器を持った軍隊でさえ逃げ出すほどの力を持った省吾を前に、三人は余りにも無力だ。例え慄いている三人が、今過ちに気が付けたとしても、誰にでも平等で残酷な現実は変える事など出来はしない。


「逃げましょう! あれは、駄目だ! どうにもならない!」


……逃がさない! お前達だけは!


 リアムがなんとか叫ぶのと同時に、省吾はゆっくりと三人に向かって歩き始め、敵を更に恐怖の底へと落とす。戦いの場に慣れているデビッドとリアムは動き始めることが出来たが、震えたまま省吾から目が離せないネイサンは動けない。


「化け物……来る……こっちに来る! 誰か! 誰かああぁぁ!」


 失禁でもしてしまいそうなほど恐怖に囚われたネイサンは、唯一動く口で情けなく助けを呼んでいた。


「くそっ! リアム! 頼む!」


 大事な存在であるネイサンを守る為に、デビッドはリアムに声を掛けながら、衝撃波を発生させる。


「逃げますよ! さあ!」


 ネイサンなど放置しようかとも考えたリアムだが、それによって自分を守る盾となれるデビッドも失うだろうと気付く。デビッドでは省吾に勝てないと分かっているリアムだが、時間稼ぎすらいない状態で自分は逃げ切れないと判断し、仕方なくネイサンに肩を貸す。


 二人の逃げる時間だけを稼ごうとしたデビッドは、自分に出せるありったけの力を、省吾に向けて放つ。


「おおおおらあああああああぁぁぁぁ! 死ね! いなくなれ! くそったれがあああああああぁぁぁぁ!」


 まだ走る事の出来ない省吾だが、なんとか動き始めた左腕を持ち上げ、握っているナイフに黒い光を纏わせていく。


「くそっ! くそっ! くそおおおおおぉぉぉ! なんだよ! それ! ずる過ぎだぞ! このクズ野郎!」


……遅い。遅い。遅い!


 目に見えないほどの速度で振るわれる省吾のナイフは、大量に飛ばされた衝撃波を容易く切り裂くと同時に消していった。自分が最強だと思っていた力が、省吾にどんどんと潰されていくデビッドの目に涙が溜まっていく。省吾の真っ赤に染まった瞳から飛ばされてくる殺気に、デビッドはいままで感じた事のないほど大きな恐怖を覚え、膝は震え始めている。


 それでも、ネイサンを守らなければいけない為、デビッドは踏ん張っているが、今の省吾は止められない。デビッドは、通路の壁や天井まで壊しながら衝撃波を発生させているが、それは全て苦もなく消されていった。


「なんだよおおぉぉ! なんなんだよおおおぉぉぉ! お前えええぇぇぇ! くんなよ! うぜぇぇぇんだよ!」


 じわじわと近付いてくる省吾に、もう恐怖しか感じなくなっているデビッドは、歪んだ顔で叫び続ける。奇しくもデビッドは、自分が手にかけてきた人々と同じ気持ちを、省吾によって体験させられていた。


「早く! こっちに!」


 玉座の間と通路を遮っていた扉を開いたリアムは、中に入ると同時に足を止めず、デビッドへも声をかける。


「あっ! ああああぁぁぁ! こっちくんなああああぁぁぁ!」


 リアムからの救いとなる声を聞いたデビッドは、泣いているようにも見える笑い顔を作り、ありったけの衝撃波を出し終えると同時に走り出す。


……くっ! 足が、まだ! くそっ!


 足よりも先に動き始めてくれた右腕を上げた省吾は、逃げる三人目掛けて引き金を引いた。しかし、前回の発射で銃身が歪んでいた為、銃弾がそれていく。


「ひいいいいぃぃぃ!」


 通路の壁を削り、扉を壊した黒い銃弾は、三人に命中する事なく奥にある部屋の壁に穴をあけて外へと出てしまう。


……動け! 敵を! 敵を倒すんだ!


 省吾の開放された殺意に、なんとか足を満たしている黒い力が同調する。そして、その足は底の厚いブーツのゴムを焦がすほどの力で、床を蹴る。省吾でさえも持て余すファントムの力は、人間の体では本来実現不可能なはずの速度を生み出す。


……こっ! これは!


 一歩蹴り出しただけで省吾の体は、突風に吹き飛ばされる紙切れのように前へと進んでいった。省吾の体が高速で移動を開始した影響を受け、周囲の空気が遅れてではあるが、粉塵を舞わせる強い風に変わっていく。


……ぐっ! ここまで!


 一歩蹴り出すだけで数十メートルの距離を無くした省吾は、襲ってきた想像以上の圧力に歯を食いしばった。扉の先にまで進んだデビッド達とはまだ距離があり、苦しかろうともそこで立ち止まる訳にはいかないからだ。


……こっ! のおおぉぉ!


 薄れていきそうな意識をしっかりと掴み続けている省吾は、乱暴に蹴りつけるような二歩目をなんとか床にぶつけた。大理石で出来た床は、その蹴りぬかれた衝撃でひびを広げる。


「やべっ! やべええぇぇぇ! 来てる! 来てるって!」


 勘が常人より鋭いデビッドは、玉座の間を振り向きもせず全力で走り続けているが、顔が真っ青だ。省吾が床を蹴り出した大きい破裂音が耳に届き、恐怖が更に高まったデビッドの全身から、冷や汗とも脂汗ともいえる液体が噴き出していた。殺す側に立ったことはあっても、兄との喧嘩でさえ殺される側に回った事がないデビッドは、恐怖への耐性がない。


「ひぃ! ひぃ! ひぃぃ!」


 まき散らした唾液や涙を白い軍服に染み込ませるデビッドには、もはや死にたくないという感情しかないように見えた。


「くそっ! 化け物めっ! もう少し! もう少しだ!」


 ネイサンに肩を貸したままのリアムも振り向いてはいないが、超感覚で省吾を確認している。超感覚だからこそなんとか知覚出来ている省吾が、肉眼では見えない速度なのだと理解できるリアムも、顔が引きつっていた。


 恐怖の中でもぎりぎりで働いているリアムの優秀な脳は、省吾を足止めする策を探すが、見つからない。硬い大理石で出来た壁や床を柔らかい粘土であるかのように壊し、最強のフィフスが放つ力を無効化する省吾に、リアムでも対策が立てられないのだ。


 自分の命が何よりも大事なリアムにとって、視界に入った王を守るという選択肢は、浮かんでも来ない。表情の無い虚ろな瞳をした王は、逆座に座ったまま、部屋の中に入ってきた者達をぼんやり見つめている。ネイサンにとっては王も大事な駒なのだが、リアムとは似ているが違う理由でそちらへと、注意が向けられない。


「あああぁぁぁ! こっ……殺される! 嫌だ! 嫌だああ!」


 リアムに肩を貸されているネイサンは、デビッド以上に恐怖への免疫がなく、生存本能だけでなんとか足を進めている状態だった。


「はひぃ! ひぃ! ああああ! 嫌だあああぁぁぁぁ!」


 かけていた眼鏡が走る振動で床に落ち、視界がぼやけてしまったネイサンだが、それを気にする余裕すら無くなっているようだ。


……何? これは! くそっ!


 たった二歩で扉の無くなった部屋の前まで到着した省吾だが、もう一歩を踏み出したところで、バランスを崩す。超高速状態で摩擦係数が低下し手いる上に、ブーツのゴム底が熱によって溶けはめていた事で、上手く床を蹴り出すことが出来なかったのだ。


……このっ! こんなものおおおぉぉぉ!


 そのまま激突すれば、自分の頭が弾け飛んでしまうと分かった省吾は、床に弾丸を放って体勢を立て直す。機転によりしゃがむような体勢にはなったが、省吾は自爆する事なく玉座の間へと侵入した。


 しかし、人が扱える類の能力ではないファントムの力を、省吾も完全にはコントロールしきれない。


……こんな! くそっ! こんな所で!


 ただでさえ凄まじい圧力にさらされていた省吾の体は、空中の軌道を変える為に発生させた更なるねじれた力で、行動不能に陥ったのだ。

 気圧の変化によって省吾は呼吸が出来なくなるだけでなく、血流が阻害されて視力を一時的に失った。千里眼の能力を持つ省吾は、真っ先に能力によって視力を補おうと考えたが、黒い力から体を守っている輝く力に、その余裕はない。


「今だ! 今しかない! 急げ!」


 しゃがんだ状態で省吾が片膝をついたのを、超感覚で見ていたリアムはもうその隙しかないと的確に判断する。そして、自分のすぐ後ろで走っていたデビッドに声をかけ、玉座の後ろにある隠し扉へと向かう速度を限界にまで引き上げた。


……まだ! まだだっ! 逃がさない! 皆の仇を! 討つ!


 全く何も見えない省吾が選んだのは、自爆するのが目に見えている接近戦ではなく、三発だけ残った弾丸に賭ける策だ。


 王を殺す事なく、敵だけを倒さなければいけない状態で、銃身の曲がった拳銃しかない省吾は自分の勘を最大限に高めていく。そして、ゆっくりと右手に握られた拳銃の銃口を、敵がいる方向へと持ち上げ、連続でシリンダーを回転させる。


 光だけでなく音も失っている省吾だが、極限まで研ぎ澄まされた直感が、弾道すら補正して道を示していた。


「撃ち抜けえええええええぇぇぇぇぇ!」


 省吾に残された最後となる三発の弾丸は、衝撃波によって床を削り取りながら、光の輪を幾重にも発生させて敵へと向かう。


「ひぃぃぃぃぃ!」


 直感で逸早く省吾からの殺意に気付いていたデビッドが、自分の頭を抱えながら飛び込む様に床へふせる。


「くううぅぅ! 来た! くそったれが!」


 デビッドに続いて反応して見せたリアムは、肩を貸していたネイサンを押し倒す様な形で、前のめりに床へ倒れ込んだ。


「あああがぁぁぁぁ!」


 省吾の放った三発のうち、最初に放たれた弾丸が奥の壁を突き破る頃、衝撃波に脇腹をえぐられたネイサンが限界まで口を開き、苦痛の声を上げる。


「いぎぎぎぎぃぃぃ!」


 伏せた状態で自分の周囲に膜を張ったデビッドも、最後に放たれた弾丸によってダメージを与えられていた。デビッドは防御膜を張っていた事で、被害を最小限に抑えられているが、弾丸によって裂かれた膜の隙間から入り込んだ衝撃波で、背中や腕が削られている。


 ダメージの無かったリアムが一番早く起き上がり、首を左右にふった。それにより、リアムの頭に乗った粉塵が、周囲の空気中へと広がっていく。


「くっ! あ……ああ……」


 周囲を確認したリアムは、隣で泣きながら這いずる様に前に進もうとしていたネイサンを見て、息を飲んだ。


「はひぃ! はひぃ! 痛い! 痛いぃぃ! 死にたくない! 死にたくない! 嫌だ……嫌だ! 死にたくない!」


 脇腹を衝撃波が掠めた痛みはネイサンも認識しているようだが、自分の身に何が起きているかはまだ正確に理解できていない。 髪を振り乱し、涙と唾液で顔をどろどろにしたネイサンは、床に真っ赤な水を大量にこぼしていた。


「マイヤーズ! 助けてくれ! 私を、あそこへ運んでくれ! 早く! 死にたくない! あ……ああ?」


 すがる様にリアムの腕を掴んだネイサンは、相手が驚いた顔で自分を見ている事に気が付く。


「な……ない? 私の……私の……どこにいった? いぐうううぅぅ!」


 弾丸の少しだけ触れたネイサンの左腕は、付け根部分から吹き飛んでおり、遅れるだけ遅れて痛みの信号を主に送った。


……くそ。届かないのか。くそ。


 ネイサン達が生きている事を、勘だけで察知した省吾は、自分の非力さに歯を食いしばる。計六発の弾丸を発射した省吾の握るリボルバー式拳銃は、銃口が裂けるだけではすまず、もう崩壊してしまっていた。


「ネイサン様! しっかり! しっかりしてください!」


 無くなった腕の付け根を押さえ、床を芋虫のように這いずっているネイサンに、デビッドが駆け寄る。それを見たリアムは、逃げなければいけない事を思い出し、デビッドに声を掛けると同時に走り出した。


「お前が連れてこい! 扉を開く!」


「あっ! ああ!」


 王を無視することで、なんとか隠し扉までたどり着いたリアム達三人は、部屋の奥へと逃げていく。


……このポンコツ。動けよ。くそっ。


 ゆっくりと視力が戻ってきた省吾だが、片膝をついた状態で動けなくなり、上げていた右腕がだらりと垂れさがる。


「はぁはぁ……はぁはぁ……ごほっ! ごほっ!」


 相手を圧倒していた省吾が、リアム達を追わなかったのは、追うだけの力がすでに残っていないからだ。力を維持できなくなった省吾は、激しく咳き込みながら、その場に頭から倒れていった。


 肉体的どころか、魂すら限界を迎えてしまった省吾の瞳は、すでに本来の黒に戻っている。血液すらほとんど流れ出さないほど省吾の体は弱っており、五感だけでなく痛みすらほぼ麻痺していた。ひびが幾本も走った冷たい大理石の床に、うつ伏せで倒れた省吾は、生気の無い目で弱弱しい呼吸を続ける。


 全てを捨てる事で、死からも立ち上がってきた省吾だが、人間である以上動けなくなるのは当然だ。一人の人間が抱えるにはあまりに大きすぎる、人々の平和を手に入れようと戦った省吾の意識は、半分以上が暗い闇に落ちようとしていた。


 最後の弾丸に残った気力の全てをこめた省吾は、立ち上がるどころかそのまま呼吸を続ける力もあるかどうか怪しい。残り少ない省吾の寿命を示す砂が、今もさらさらと落ちていく。


……まだ。まだああああぁぁぁ! 


 そのまま意識を失えば、確実に死を迎えるはずだった省吾だが、全身を震わせ、奥歯を強く噛むと同時に眼光を鋭くする。限界を迎えたならば、限界を超えてしまえばいいだけであり、省吾は数え切れないほどそうしてきた。


 省吾がいくら超能力や優れた直感を持っているからといって、人が人を殺す戦争は甘くはない。どう足掻いても死ぬしかないと思える局面を、省吾はそう長くはない人生で幾度も乗り越えてきている。


 いくら傷つこうとも、いくら悲しい事があろうとも、いくらピンチに追い込まれようとも、省吾は不屈の意志だけを友に、立ち上がってきたのだ。そんな省吾だからこそ、人々は示された希望に目を輝かせ、絶対の信頼を持って英雄と呼ぶのだろう。


 自分に残された時間が残りわずかと認識した瞬間に、まだ残っていると考えられる省吾は、瀕死の体を立ち上げていく。


「ここで……。ここで終われるかああぁぁぁ!」


 消えて無くなっていたはずの炎をもう一度瞳に灯した省吾は、大きな叫びと共にもう一度前へと進みだす。

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